パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その1)Magazine2018年01月05日share facebookshare xshare pinterestshare lineshare hatebuオートバイで走行していた時、自動車に衝突された事故で頸部を骨折したのは22歳の時です。その頃はアルバイトを掛けもちしながら250㏄クラスのバイクレーサーとして夢を追いかけていました。 パラスポーツとの出会いはリハビリテーションで入院していた国立療養所村山病院(現村山医療センター)。職員や先輩患者から陸上競技に誘われました。首のケガについて専門的に治療している病院ですが、そこで健康増進のために陸上競技をはじめました。 全国障害者スポーツ大会に東京都代表で出場したことは懐かしい思い出です。陸上競技用車いすは中古を譲ってもらい、東京都多摩障害者スポーツセンターやサイクリングロードで練習していました。 スポーツで知り合った仲間と一緒に車いすの重度障がい者が参加しやすいツインバスケットボールも始めました。とにかくスポーツはいいですよ。障がい者が本気で競い合えるところが魅力です。 障がい者になった時、スポーツは生活復帰のために、なくてはならないものでした。スポーツをすることで、自分と同じ障がいの人と知り合えます。その人たちが自宅に戻ってから、どういった生活をしているのか、すごく興味がありました。仕事をしているのであれば、どういった業務を担当しているのか教えてもらいました。車いすで乗降しやすい車高はどの車種なのか相談したり、試乗もさせてもらいました。 病院では、専門的なサポートを受けました。障害が出ていない残存機能を使って生活するための指導もありました。ただ障がい者の目線からのアドバイスはとても実感がこもってるので頼りになしました。 いまの会社を紹介してくれたのは、スポーツで知り合った先輩です。私が就職活動をしていると聞いて、スポーツをするほど元気なら正社員として働けるだろうと言ってくれました。昨年まではビル管理のグループ会社に出向していました。テナント様との交渉のために物件へ出向くことも日常的にありました。車いすで移動できない場所がある時は、同僚が介助してくれるので問題ありません。車いすの社員が働いていることは、社員が自社のホスピタリティを意識するきっかけになると思います。それは不動産事業をしている会社にとって大切なことです。建物や地域のバリアフリーを検証してほしいと私が呼ばれることもあります。« 「第1回 京都ふれeyeブラインドマラソン」が開催!バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その1) »pr blockhttps://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-06423-9https://www.j-n.co.jp/books/genrelist/lgenre1/mgenre5/sgenre97/https://psm.j-n.co.jp/mecenat-booth/https://psm.j-n.co.jp/category/federation/https://psm.j-n.co.jp/shop/