パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その2)Magazine2018年01月12日share facebookshare xshare pinterestshare lineshare hatebuスポーツは陸上競技で1992年のバルセロナパラリンピックの出場を目指していました。 まだ国内ではパラリンピックが知られていませんでしたが、ソウル大会に出場した先輩からオリンピックと同じような世界大会であると聞かされていました。 バルセロナ大会は代表選手に選ばれませんでしたが、今度はウィルチェアーラグビーで世界に挑戦してきました。 ある時、アメリカには四肢マヒ障がい者が車いすでぶつかり合うコンタクトスポーツがあると知りました。それがウィルチェアーラグビーだったのです。そしてフロリダで開催されたマラソン大会に出場した時、アメリカのウィルチェアーラグビーチームを訪問するチャンスがありました。その時この競技が96年のアトランタパラリンピックで公開種目となり、2000年のシドニー大会からパラリンピックの正式種目なるという情報を聞いたんです。 それで帰国後、97年に仲間と国内組織を立ち上げ、私は選手としてプレーしながら、競技普及や選手強化に取り組んできました。もう一度、パラリンピックに挑戦できると夢中になり、給料の多くをウィルチェアーラグビーに費やしました。 競技にはとてもお金がかかります。海外遠征では競技用車いすの運賃もかかるので、1回出かけると50万円ほどかかりました。私は会社員でしたが、なかには保険金を切り崩しながら競技を続けていた人もいたようです。最近はアスリート雇用でパラリンピック選手をサポートする企業が増えてきたことはうれしいことですね。 日本チームはついに2004年のアテネ大会でパラリンピック出場の夢をかなえました。ウィルチェアーラグビーと出会ってから8年目です。そしてこの大会を最後に私は現役を引退しました。 燃え尽きました。妻にはとても負担をかけていたと思います。週末はいつもラグビーだったので、いいかげんにしてよと怒った妻に、競技用車いすを私の手の届かないところに片づけられたこともありました。懐かしい話です。 しばらく日本代表チームとの関わりはなかったのですが、東京パラリンピックに向けてアシスタントコーチになってほしいと誘われました。そのことを会社に相談すると、応援していただけることになり、本社広報部に異動となりました。今は合宿に参加できるように業務を調整してもらっています。 会社は「東京2020 ゴールドパートナー」や日本ウィルチェアーラグビー連盟のオフィシャルパートナーになっています。私はアスリート雇用ではなく一般社員ですが、障害者が競技や仕事を続ける先例としてお役に立てればいいなと思っています。 ふくい・まさひろ(51) ウィルチェアーラグビー日本代表チーム・アシスタントコーチ。22歳の時、交通事故で受傷。知人らと日本にウィルチェアーラグビーを紹介した。日本チームがパラリンピックに初出場したアテネ大会で選手を引退。2017年4月から現職。三井不動産株式会社で働きながらトップアスリートとして挑戦してきた« バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その1)バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その2) »pr blockhttps://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-06423-9https://www.j-n.co.jp/books/genrelist/lgenre1/mgenre5/sgenre97/https://psm.j-n.co.jp/mecenat-booth/https://psm.j-n.co.jp/category/federation/https://psm.j-n.co.jp/shop/