
金メダルのために、走り続ける 官野一彦(その2)
「車いすでぶつかり合うなんて、なんじゃこりゃとビックリした。世間では、車いすの人は守ってあげるものだと思われているがコートでは誰も僕のことを守ってくれない。でも自由に走り回れるのが気持ちよかった」
すぐに70万円の競技用車いすを購入した。決めたらすぐ行動するのが官野のスタイルだ。そして競技を始めた翌年には日本代表に選ばれてしまう。
「試合には出してもらえない名ばかりの代表だったけれども、遠征メンバーに選ばれた時は舞い上がったよ」
その後、代表落ちして本当の厳しさを味わうのだが、まだ競技の奥深さを知らぬまま、パラリンピック最終予選でシドニーの大会に参加した。そこで官野は衝撃の体験をすることになる。
「観客8000人の大歓声でとなりの人と会話もできないほど。その体育館での入場行進では鳥肌がたった。これほどの人たちを興奮させられるウィルチェアーラグビーに誇りをもつことができた。あの時のことを思い出すと、今でも胸がギュンとなる」
ウィルチェアーラグビーに人生をかけてもいいと思えた。とはいえ、簡単に代表に選ばれ、練習にも気持ちが入らないまま2010年には代表落ちの苦い経験もする。
「ふてくされている自分は相当恥ずかしいし、ダサいなと気づいた。今のままでロンドンパラリンピックに出られるわけない」
一所懸命に頑張り、それで代表に選考されなかった時は諦めようと覚悟を決めて練習を始めた。毎日10㎞、体育館で走り込んだ。煙草もきっぱりと止めた。そして体重を落とせたら乗れるように、小さいサイズの競技用車いすを購入。根性だけは、高校野球で身についていたから、自分を徹底的に追い込んでいった。そうして代表に復帰し、ロンドンパラリンピックにも出場することができた。
リオパラリンピックでは銅メダルを獲得。この経験が、官野を新たなチャレンジへと導いていった。
「銅メダルは成功と挫折を同時に味わうようなものだった。メダルセレモニーではうれしくて泣いたけれど、その横で優勝したオーストラリアの選手たちがでっかい声で国歌を歌っているのがすごくかっこよかった。東京で金メダルがとれて、観客と一緒に国家を歌えたらどれほどうれしいだろうか」
その経験をしてみたいという夢が、今の官野を突き動かしている。
「障がい者になって、健常者の時よりもよかったと思うことはないけれど、手足の動かない重度障がい者でも自分のやりたいことで飯が食えて、30代になった今でもたくさんのことにチャレンジできている人生はすごい」
家族に理解され、また多くの人たちに支えられている幸せを噛みしめながら、官野は金メダルのために疾走している。
取材・文/安藤啓一
写真/吉村もと、安藤啓一