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  2020年東京パラリンピックに寄せる熱い想い(日本パラ陸上競技連盟 理事長:三井利仁)

2020年東京パラリンピックに寄せる熱い想い(日本パラ陸上競技連盟 理事長:三井利仁)

アメリカンフットボールの選手として活躍していた三井さんが障がい者スポーツと出会ったのは、大学の実習でのこと。当時、日本で最先端の設備を持っていた施設で、三井さんはカルチャーショックを受けたという。 「障がい者がリハビリをやっている姿は衝撃的でした。自分がまったく知らなかった世界。彼らを見てすぐに、もっと自分が役立つことがあるんじゃないかという気持ちが芽生えました」 スポーツを楽しみながらリハビリができる方法はないかと考えた三井さんは、東京都多摩障害者スポーツセンターに就職。まもなく車いす陸上の選手からコーチングを依頼された。そして、27歳のとき、本格的に障がい者スポーツのコーチになった。 「当時はどこの大学も実業団も、パラは相手にしてくれませんでした。だったら自分がやったほうが早いと。運動生理学やバイオメカニクスは勉強していましたし、若いスタッフとすべての分野をカバーしてコーチをしました。国内でそこまでやっている人間はいなかったと思います。やがて全国から車いすの選手が集まるようになり、質はどんどん上がっていきました。いろいろな協力を得て、練習も毎日、朝晩やっていましたね」 タイミングも良かった。長野パラリンピック開催が決まり、世間の関心が高まる中、国からの補助も受けられるようになった。公共施設が使えるようになり、サポートスタッフも充実。 「長野がなかったら成長していなかったと思う」という三井さんは、アイススレッジスピードレースの監督を務め、日本チームを多数のメダル獲得に導いた。 コーチとして活躍していた三井さんに転機が訪れたのは、2000年シドニー。コーチをしていた土田和歌子選手がレース中に転倒し、他の選手とともにゴールできなかった。三井さんは再レースを要求したが、結果的に受け入れられず土田選手は途中棄権という裁定に。 「私自身、正直、国際ルールに精通していたわけではありませんでした。知っていたら結果が違っていたと思ったとき、もっとルールを勉強しなきゃいけないと痛感しましたね。現場で英語でケンカできるくらいにならなきゃいけないと」 30歳を過ぎ、コーチを続けながら三井さんは英語とルールを懸命に勉強し、国際審判員の資格を取った。すると、世界各地の大会から審判のオファーを受けるようになった。アジアのキーマンとして一目置かれるようになり、2008年の北京で日本人としては初めて審判員として現場に立った。 その後、パラスポーツの国際化を担える人材として白羽の矢が立ち、三井さんは2014年、パラ陸連理事長に就任。2年後に迫った東京大会に向けて多忙な日々を送っている。 「パラリンピックに携わるのは東京で7回連続になりますが、その中で一番いい大会ができるんじゃないかなと思っています。ロンドンを超えたい、ロンドンの超満員を東京で再現したいという思いは強いですね。今のところ順調です。選手のモチベーションも日に日に高くなっていますし、結果も出ています。特に若い選手が予想以上にがんばってくれている。大学が障がいのある学生を受け入れてくれたり実業団チームが採用してくれたりと、健常者と一緒に質の高いトレーニングができるので記録も良くなっています。こうした環境がもっと増えてくれればいいなと思っています」 パラ陸連としても、強化・普及に向けての活動を精力的に行っている。大学や企業にパラ選手の入部を依頼したり、強化スタッフが全国に足を運んで子どもたちを陸上競技に誘ったり。 「2020年が終われば、当然、国や企業のサポートは変化すると思います。だからあとは自己努力。パラリンピックを目指して強くなる選手は間違いなく増えるわけですから、上がったものをどうやって維持し、さらに上げられるかが問題です。そして、パラリンピックを間近に見た人の中から、あんな選手になりたい、自分にもできるんじゃないかと思う人が必ず増えてくる。われわれがやらなきゃいけないのは、そういう選手の受け皿を作ること。選手の選択肢を増やすことが大事ですし、それは間違いなく増えると思います。2020年のあとをネガティブにとらえるのではなく、逆にチャンスなんだと。私はそんなに捨てたもんじゃないと思っています」 寝る間も惜しんで各地を飛び回る三井さんの生活は、まだまだ続く。 文・取材/編集部


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