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  パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

第12回目となる今回は…ウィルチェアラグビー 官野一彦選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) リオ夏季パラリンピックで銅メダルを獲得したこともあり、東京2020パラリンピックでの活躍が期待されているウィルチェアーラグビー。メダリストの官野一彦はこの競技に魅せられてしまった男のひとりだ。 昨年、官野は長年勤めた千葉市役所を退職して本場のアメリカへ武者修行に旅立った。32歳という社会人として責任ある仕事を任されることが増える年齢で、人生をウィルチェアーラグビーに捧げる覚悟を決めた。 「(日本代表が)新しい監督になってから試合に出してもらえなくなった。このままでいいのかという危機感をもっている。アメリカに行って、厳しい環境で自分を鍛えたい」 これまで千葉市役所の職員としては異例の待遇を受けていた。車いすの街づくりを掲げている熊谷市長は、アスリート雇用としての就労環境を整備するために条例改正するまでして官野を応援してきた。日本代表の遠征は公務派遣扱い、週の半分はトレーニングに費やせることになっていた。 そうした職場のサポートも受けながらパラリンピックに挑戦してきたが、さすがに数ヶ月のアメリカ武者修行は休職扱いになってしまう。 「これでは続けられない。家族の生活にはお金が必要だし、ウィルチェアーラグビーのために仕事を失うのは本末転倒だから」そして退職を決意した。 「僕は生活のためにスポーツをしている」 これが官野のスタイルだ。自分のやりたいことをして、家族と生活をしていく人生が理想だ。プロ野球選手になりたくて野球の強豪高校に進学したように、少年時代からの夢を今でも追いかけている。 東京で金メダルを獲るためにアメリカ修行は譲れない。そのためにはアスリート雇用で転職するしかない。そうした決意を周囲に伝えると、数社から誘いを受けることができた。面談をして、お互いのパラスポーツへの理念と条件が一致したダッソー・システムズ株式会社へ入社することにした。 練習環境が整い、昨年10月から約半年間の予定でアメリカのクラブチームに合流することができた。初めて海外チームでプレーしたことからは、東京に向けて多くの収穫があったという。 「自分のプレーが世界でも通用することを確認できた。そして彼らの強さは『ハート』だと気づいた」 官野は障がいの重い選手だ。そのため得点を取りに攻める障がいの軽い選手をアシストする役割を狙っている。野球で例えると6番レフトだろうか。それでもコートではパワーのある軽度の選手にタックルをしかける果敢さが求められる。そうすることで得点を狙う選手を牽制するのだ。アメリカでは自分よりもパワフルな相手にもひるまず挑んでいく『ハート』を学んできたという。 「チームのために、もっと勝負していく選手になりたい」語気を強めてそう話す。 官野は22歳の時サーフィン中の事故で頸椎を損傷。車いす生活になる。そしてある日、近所のディーラーが開催していた福祉車両イベントに来ていたウィルチェアーラグビー選手に誘われた。 「家に帰ってからパソコンで検索するとアテネパラリンピックに初出場していたという記事が出ていた。僕も日本代表になれたら、かっこいいなと思って」 そういった軽い気持ちでウィルチェアーラグビーを始めてみたが、夢中になるまでにさほど時間はかからなかった。 「車いすでぶつかり合うなんて、なんじゃこりゃとビックリした。世間では、車いすの人は守ってあげるものだと思われているがコートでは誰も僕のことを守ってくれない。でも自由に走り回ってくれるのが気持ちよかった」 すぐに70万円の競技用車いすを購入した。決めたらすぐに行動するのが官野のスタイルだ。そして競技を始めた翌年には日本代表に選ばれてしまう。 「試合には出してもらえない名ばかりの代表だったけれども、遠征メンバーに選ばれた時は舞い上がったよ」 その後、代表落ちして本当の厳しさを味わうのだが、まだ競技の奥深さも知らぬまま、パラリンピックの最終予選でシドニーの大会に参加した。そこで官野は衝撃の体験をすることになる。 「観客8000人の大歓声でとなりの人と会話もできないほど。その体育館での入場行進では鳥肌が立った。これほどの人たちを興奮させられるウィルチェアーラグビーに誇りをもつことができた。あの時のことを思い出すと、今でも胸がギュンとなる」 ウィルチェアーラグビーに人生をかけてもいいと思えた。とはいえ、簡単に代表に選ばれ、練習も気持ちが入らないまま2010年には代表落ちの苦い経験もある。 「ふてくされている自分は相当恥ずかしいし、ダサいなと気づいた。今のままでロンドンパラリンピックに出られるわけがない」 一所懸命に頑張り、それで代表に選考されなかった時は諦めようと覚悟を決めて練習を始めた。毎日10㎞体育館で走り込んだ。煙草もきっぱりと止めた。そして体重を落とせたら乗れるように、小さいサイズの競技用車いすを購入。根性だけは、高校野球で身についていたから、自分を徹底的に追い込んでいった。そうして代表に復帰し、ロンドンパラリンピックにも出場することができた。 リオパラリンピックでは銅メダルを獲得。この経験が、官野を新たなチャレンジへと導いていった。 「銅メダルは成功と挫折を同時に味わうようなものだった。メダルセレモニーではうれしくて泣いたけれど、その横で優勝したオーストラリアの選手たちがでっかい声で国歌を歌っているのがすごくかっこよかった。東京で金メダルが獲れて、観客と一緒に国歌を歌えたらどれほどうれしいだろうか」 その経験をしてみたいという夢が、今の官野を突き動かしている。 「障がい者になって、健常者の時よりもよかったと思うことはないけれど、手足の動かない重度障がい者でも自分のやりたいことで飯が食えて、30代になった今でもたくさんのことにチャレンジできている人生はすごい」 家族に理解され、また多くの人たちに支えられている幸せを噛みしめながら、官野は金メダルのために疾走している。
官野 一彦/かんの・かずひこ 1981年8月1日生まれ。千葉県出身。10代のころは高校球児。プロ野球選手を目指していた。社会人になって始めたサーフィン中の事故で頸椎損傷。知人の紹介でウィルチェアーラグビーを始める。すぐに日本代表に招へいされ2度のパラリンピックを経験した。憧れのパラアスリートは元Jリーガー京谷和幸選手(元車いすバスケットボール日本代表)。昨年、金メダルを獲得するための環境を求めてアスリート雇用でダッソー・システムズ株式会社に入社し、アメリカ武者修行も経験した。
取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、安藤啓一


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