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  国枝慎吾 引退記者会見(2023年2月7日)全文

国枝慎吾 引退記者会見(2023年2月7日)全文

柳井正 株式会社ユニクロ社長 (以下柳井)―― 引退おめでとうございます。少しだけ寂しくなるんですけど、プロのアスリートとしてやるべきことはすべてできましたね。しかもこの絶妙なタイミングで引退宣言。素晴らしいですよね。新しい国枝慎吾の誕生、という意味で今日はめでたい日であります。

2009年4月、日本の車いすテニスとして初めてプロ転向を表明されたその直後、僕は「大丈夫かな、車いすテニスはプロのスポーツになるかな」と少し不安でした。でも立派なプロのスポーツになりました。彼は非の打ち所のないグローバルアンバサダー、世界一のグローバルアンバサダーだと思っています。素晴らしい人格、生活態度、あらゆるタイトルを獲り、世界中の人々に温かい声援を受けています。

そして本人を前に言うのもなんですが、地頭の良さ。超一流選手は大体地頭がいいんですよ。国枝選手はその中でも飛び抜けて地頭がいい。ロジャー・フェデラー選手が我々のグローバルアンバサダーになってくれたのも国枝選手がいたおかげです。国枝選手の強みですが、勝つことに徹底的にこだわること。がむしゃらさ、明るさ。肉体とか精神じゃなくて、人生をかけて一人の人間として尊敬できる。これからが人生の本番です。今後も最大限応援していきたいと思っています。今までは助走。過去のことは全部忘れてください。必要ないです、過去は(笑)。これからは今日がスタート。一緒に日本を、世界の中の日本をより良く変えていきましょう。

日本は残念ながら迷走状態です。ほんとにお金は全然ありません。借金だけが膨れ上がっている。それなのにバンバンお金を配っている。インフラが古くなって、使えないかもしれない。その中で若い人が将来に希望を持ってやっていくとしたら、そのロールモデルとして、これからの国枝選手に期待しています。頑張ってください!

国枝慎吾(以下国枝)―― 柳井社長から大変なお褒めの言葉をいただきまして、このスピーチのハードルが上がってしまいました(笑)。このたびは多くの方々にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。1月22日付けで引退をすることになりました。東京パラリンピックが終わってから、「引退」ということについては、ずっと考えていました。昨年はグランドスラムのシングルスのタイトルを4つのうち3つを獲得して、すごく調子も良かったんです。最後に残されたウインブルドンで優勝が決まったあとにチームのみんなと抱き合っていたそのとき、芝生のコートの上で一番最初に出たのが、「これで引退だな!」という言葉でした。その後に全米オープンにそのままのモチベーションではいけたんですが、全米が終わってから、僕自身も「もう十分やりきったな」というのがふとした瞬間に出てしまった。このままテニスをしていていいのかな、という感じになってしまって、これはそういうタイミングなのかな、ということで決意をしました。

プロ転向してからの長い間、所属スポンサーであるユニクロをはじめ、今日も多くのスポンサーの方々にご出席いただいています。本当にありがとうございました。

また日頃から、一番身近で支えてくれている妻や、テニスをするきっかけを与えてくれた母、天国で見守ってくれている父、いままで関わってくれたコーチ、トレーナー、マネージャー、本当に車いすテニスの先輩方や関係者の皆様、本当に僕自身を支えてくださり、ありがとうございました。

最後になりましたが、応援してくださっているファンの皆様には「最高のテニス人生を送れた」と言い切って締めの挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました。

——————改めて競技人生を振り返っての一番の思い出はなんですか?

国枝 一番の思い出は東京パラリンピックでの金メダルですね。パラリンピックはアテネから北京、ロンドン、リオ、そして東京と出てきましたけれども、それぞれが僕の中では転機にはなっていました。そういう意味ではすべてのパラリンピックには思い出はありますが、東京開催が決まった2013年からの8年越しの夢がかなった瞬間というのは、今でも鮮明に覚えていて、写真を見ると震えるような感情になります。そのくらい思いの詰まった金メダルだと思っているので、東京のパラリンピックというのが一番の集大成になったと思います。

——————柳井社長にお聞きします。国枝さんとのエピソードで印象に残っているものといえば何かありますか?

柳井 いつも印象に残っていてどれが一番かわからないぐらい、いつも僕は感銘を受けています。彼は「完全な人」「完全に見える人」(笑)、そういう人は珍しいですよね。非の打ち所がないというか…やはり、最初に会ったときに「この人なら大丈夫なんじゃないか」と思ったことでしょうか。私は、その人の能力とか、過去にやったこととかよりも、その人に会ってどういうことを感じたかで決めるタイプなんで、そのときに「この人だったら大丈夫だ」と感じたことが印象に強く残っています。

——————今後の活動については?

国枝 そうですね、実際のところまだ現役中もよく柳井社長に「終わったら何やるんだ」「一緒にビジネスやろうぜ」とお声がけいただいていたんですけれど、現役の間に引退のことを考えても、ホントに答えが出てこないというか、現実味がないというか、そういう気持ちで、風呂に入っているときに20分くらい考えてみたりしていたんですが、答えが出なかったんですね。そうして今、引退発表から2週間位が経って、なんとなく自分の中では、何をしていきたいのかな〜っていうのがぼんやりとですけど出てきたぐらいなんで、それをいま言っちゃうと、それやんなきゃいけない感じもしちゃうし、そこはまだ心のなかに秘めておきたいなとは思います。僕は現役生活で何と戦ってきたのかな、と考えて、一つは相手と戦う、また自分とも戦う、もう一つ、車いすテニスを社会的に認めさせたい、というか、スポーツとしていかに魅せるかというところにこだわってきたな、というのがあります。車いすテニスの管轄は国際テニス連盟で、本当にそういう意味では健常者と障がい者が垣根のないスポーツだな、と今でも思います。それをテニスをしている中で、みんなに知ってもらいたいという気持ちが強くあったので、そこの活動というのはこのあとも続いていくのかな、とぼんやりと思っています。

——————国枝さんといえば「俺は最強だ」という言葉とともに「昨日の自分より今日の自分のほうが強い」という言葉があります。車いすテニスのレベルというのはどのように上がっていったのでしょうか?

国枝 これはどのスポーツにも言えることでしょうが、年々スポーツのレベルって上がっていきますよね。僕自身もいま時点での自分の状態でプロ転向した2009年の自分と戦っても、間違いなく勝てるだろうな、と思えるくらい車いすテニスのレバルは毎年上がってきている。いまなお成長中などは思います。「俺は最強だ」と世界1位を2006年から続けてきて、何が難しかったかな、と思うと、2位や3位のときは1位の選手の背中を見てその人に勝つためにはどうしたらいいのかというのを組み立てていくわけですが、1位になった瞬間に誰の背中も見えなくなってしまう、というのが難しさとしてあって、でもスポーツのレベルというのは上がっていくわけで、自分自身が現状維持のままだと相対的には衰退していってしまう。1位にいても自分の中で目標を見つけていかに成長していくか、を考えるのが難しさでもあり、面白さでもあったかなと思います。そういう意味では2006年から2023年まで長いこと1位を続けられた理由は、現状に満足せずに常に自分の中で課題を見つけ続けてきたという難しさにチャレンジしてきたことが挙げられるかなと思います。

——————日本の車いすテニス界から国枝慎吾がいなくなったあとどうなっていくのか、そこに国枝さんはどうやって関わっていくのでしょうか?

国枝 先日の全豪オープンでもドローの数が8から16まで拡大してきているので、その結果日本の選手も世界でも一番多い数で参加しました。その筆頭にもいる上地結衣選手、いま成長中の小田凱人選手、他の選手も含めて、相当、日本の車いすテニスのレベルは高いです。その選手たちがこの先どうやってこのスポーツを発展させていくのかというのは、僕自身も楽しみなところはあります。また日本では2019年からジャパンオープンでは車いすテニスの部門も創設していただいて、昨年は満員のお客さんの前でプレイができたということは、僕の中では、この車いすテニスがスポーツとして受け入れられた瞬間だったな、と感じました。その「スポーツとして」という舞台にようやく上がってきたな、というところで、僕は40手前になっちゃっていたので(笑)。でもそれを託せる人たちが日本にはいますし、そういった人たちのサポートはしていきたいし、自分も関わっていきたい気持ちはもちろんあります。

世界の車いすテニスはどうすればさらに発展していくかということについては、このジャパンオープンがいい例かと思っています。ATP、WTAの健常者のプロの大会にどんどんこういう形で車いすテニスの部を作っていただいて、そこでプレイする環境というのが一番手っ取り早いと思います。こういった大会を世界各地で作っていくということも、もしかすると僕が手伝えることかなとも思っています。

——————柳井社長へお聞きします。ユニクロはこれからの国枝さんとどういったことをやっていこうかと考えていますか?

柳井 いま世界が一番困っていることに対して、力になりたい。ウクライナの問題ほかいろいろな困っている人、その中でも僕は子どもたちと若い人の力になれるようなことをしていきたい。NPOとかNGOとかではなく、事業としてなにかやりたいな、国枝さんとやりたいなと思っています。どうですか、国枝さん?

国枝 すごく同意いたします。ユニクロのほうでも昨年はイギリスやオランダで車いすイベントを始めていますし、そういった関わりはこれからも続けていきたいです。また現役を離れたので、そのような時間がこれまでよりもできると思います。僕自身も協力していきたいと思います。

——————柳井さんにお聞きします。ユニクロの社員が国枝さんから学んでもらいたいことはなんですか?

柳井 やはり「挑戦」でしょう。「やっていないことをやる」。車いすテニスという新しいスポーツのジャンルを確立したというのは新しい作業をしたということ。挑戦して、実行して、達成する。これは今年の我社のモットーなんですが、それを学んでもらいたいなと思っています。

——————国枝さん、ユニフォームについてはどのような要望を出して一緒に開発されてきたのか?

国枝 年々素材、デザインも含め、運動しやすい、プレイしやすいものをブラッシュアップし続けてくれたことに、ユニクロには本当に感謝しています。またそういったところに自分自身も関われたというところが、ユニクロと一緒にやってきた意味もあると思います。自分は何をウエアに求めるかというと、僕は汗をかきやすいので速乾性だったり、プレイを妨げない軽さだったり、そういうところを追求し続けてくださったので、僕のグランドスラムのタイトルには間違いなく関わってきてくれていたと思います。

——————プロ転向のときに「車いすの子どもたちに車いすテニスプレーヤーになりたい」という夢を持ってもらいたい、といっていたが、その目標は達成されたと思うか?

国枝 上地選手や小田選手がプロ転向して活躍しているのを見ると、自分のその時の言葉というのが実現したなと思えます。もしかすると当時思っていた以上に、足跡はくっきりと残せたのかな、と思います。また他の若い選手も増えてきています。彼らもどんどん海外に試合に行っているので、自分がやってきたことが少し彼らに影響を与えることができたのかな、やってきた意味があったなと思える瞬間です。

——————国枝選手の活躍を支えてきたお一人が奥様だと思います。改めて奥様への思いを。

国枝 一番は2016年のリオパラリンピックのとき、相当僕自身も追い込まれていたときに、妻の存在はすごく大きかったです。メディアの前では「金メダル獲ります!」といった強気な発言をしなくちゃいけない。そこで弱音を言ってしまうとそれがプレイにも出てしまうのでそれは言えないんです。でも「もう無理だよ」「もうプレイできないな」といった言葉を妻には言える。吐き出せる場所があるということは本当に助かりました。2017年からは大会にも帯同してくれました。テニスは一年間世界を回って、割と孤独なんです。でも妻がいるだけで、ホテルに帰れば家のようなアットホームな雰囲気が流れるというだけでも、オンとオフがはっきりと切り替えることができるというところはすごく助けになりました。

——————国民栄誉賞について政府が検討しているという報道が出ていますが。

国枝 私の方にも先週の金曜日(2月3日)に連絡があり、それを受けたときには、車いすテニス、自分自身がやってきたことが評価されたということは大変光栄に感じました。

——————やり残したことはありますか?

国枝 成績やタイトルに関してはやり残したことはないですね。昨年ウインブルドンのタイトルをとって、本当にやりきったな、と自分自身も思える生活を送れたことは、最高の幸せだったなと思います。車いすテニスがスポーツとしてのフィールドに上がったところではあるので、そこで僕がもう少しできたらな、というのはありますね。

——————逆境を乗り越えるときに、自分自身を奮い立たせるものがあったら教えてください

国枝 2016年に王者の看板が若手の選手に渡ってしまったとき、「俺は最強だ」という言葉をラケットから外そうかなと思いました。でも最後まで外せなかった。やはりそれを外した瞬間に、もうそれは戻ってこないと思ったから。2006年から2023年までラケットに「俺は最強だ」という文字を貼り続けました。テニスをやっていると弱気になるのはよくあることです。「俺は最強だ」と自分自身で断言する、そういったことで、弱気の虫を外に飛ばしてやってきたんですね。それがいままでやりきれたことの理由の一つです。

——————もう一度小田選手と戦ってみたいという気持ちはありませんか?

国枝 もちろんないこともないですけど、それ以上に自分自身が先に満足してしまったかな、という気持ちです。

——————小田選手にはどういう形で引退のことを伝えましたか?

国枝 全豪でダブルスを組む予定だったんで、その約束を破ってしまったのはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだったんですが、ちょうど彼が渡豪する日(1月4日)に電話で話しました。昨年のウインブルドン、優勝したあとロッカールームで凱人(小田選手)に話したんです。「俺は終わったわ、これで」と。この電話のときにも「あのときも話したけど、自分自身はもう競技をやることはないかな」、「これから車いすテニスを引っ張っていってくれ」と伝えました。

——————子どもたちに、自信をつけるヒントなどのメッセージを頂けないか?

国枝 「俺は最強だ」というメンタルトレーニングは続けていたんですが、それだけ言っていれば1位になれるかといったらそんなのはありません。その裏には「積み重ね」というものがあって、一日同じような練習を繰り返す反復練習もたくさんやってきました。「俺は最強だ」と言い続けることで、その反復練習のクオリティが上がってくるんです。

——————福岡の飯塚国際車いすテニス大会についての思いをきかせてください

国枝 飯塚の大会は国内で唯一トップ選手が集まる大会で、以前は四大大会の一つでもありましたし、グランドスラムが健常者と一緒の大会になってからはそのひとつ下のスーパーシリーズという格付けです。僕自身もそこで9回優勝できて最後は天皇杯として優勝できました。とても思い出に残っている大会です。今年もうかがうのを楽しみにしています。

——————車いすテニスを社会的に認めさせたいという話がありましたが、国枝選手が競技生活を続けてきた中で、その点でもっとも苦労したことを教えて下さい。

国枝 アテネのパラリンピックの頃は、僕が金メダルをとっても新聞のスポーツ欄になかなか載らなかったんです。それをどうにかスポーツとして扱ってもらいたい。

車いすテニスをやっていて「車いすでテニスやって偉いね」と言われたこともありました。目が悪ければメガネをかける、足が悪いから車椅子に乗る、特別なことじゃない、そうずっと思っていました。アテネのときは「まだまだスポーツとして扱われていないな…。まだまだ”福祉“としてみられていたのかな」、と思って、これを変えないと。自分がやっていることを車いすテニスを通して「車いすテニスってこんなに面白い」、「予想以上にエキサイトするスポーツだね」そういうふうに感じてもらえる舞台に持っていかないと。パラリンピックも共生社会の実現のためにと言われますが、スポーツとして感動や興奮を与えられないと、そこにもつながっていかないのではないかなと思います。「まずはスポーツとして」というところへのこだわりは相当強く持ちながらプレイをしていました。相手との戦い、自分との戦い、スポーツとして見られたいという戦い、その3つが現役中の戦いの相手でした。東京パラリンピックで、ようやく国枝がどういうプレイをするかということを多くの人に見て知ってもらえたというのを、終わったあとの反響から感じました。昨年、なぜグランドスラム3勝したりして調子が良かったのかな、と考えると、いままで「スポーツとして車いすテニスを見てほしい」という部分に感じていたプレッシャーが一年間全く感じなかったからなのでは、と思います。一回もそういった気負いを感じることなくプレイできて、ようやく純粋に相手と向き合えてテニスができるようになり、そして現役最後の時期が到来したんだな、という思いもありました。上地選手や小田選手といった若い選手たちとっては、純粋にスポーツとしてのフィールドができたのかな、と思うとそういった環境を用意できてよかったな、と思います。

写真・文/編集部



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