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  国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。

忘我のシンパシー。車いすスポーツは最高!

藤本怜央(以下、藤本) 現役引退、お疲れさま! 現役時代より体、少し小さくなった?

国枝慎吾(以下、国枝) ああ、小さくなった。引退した最初の1カ月くらいで体重落ちたよ。

藤本 引退してから1度、一緒に車いすバスケやったね。シンゴはバスケ愛、エグイよね!

国枝 小学生の頃、病気になる前は野球をしていたんだけど、マンガの『スラムダンク』が好きすぎて、破れるくらい読み込んでたからね(笑)。

藤本 オレら『スラムダンク』世代だからなあ。

国枝 本当は、車いす生活になってから、車いすバスケがしたかったんだよね。でも、一番近い〈千葉ホークス〉の練習体育館が自宅から車で2時間くらいかかる。車いすテニスのクラブ〈吉田記念テニストレーニングセンター(以下、TTC)〉は、車で30分。それで、テニスを続けた、という感じだったんだ。

藤本 小学生で車いすテニスを始めたのは、すごいね。

国枝 TTCは、35年前から民間クラブとして一般のテニススクールと同じように車いすテニスのスクールが受けられたんだよ。画期的だよね。

藤本 35年も前から? それはすごい!

国枝 おそらく、世界でもここだけだったんじゃないかな。怜央くんは、バスケは車いすになる前からやっていたの?

藤本 そう、小学5年から。大学に入って本格的に車いすバスケを始めて、2年目でアテネパラリンピックに出場したの。同級生の選手が車いすテニスのダブルスで金メダルをとったということを後から知って、すごく話がしたいと思ってたら、4年後の北京で実現したんだよね。

国枝 そのタイミングか〜。

藤本 閉会式だったかな、ちょうど車いす選手同士で隣り合わせて、いきなり「車いすバスケの藤本さんじゃないですか」って声かけてくれて。

国枝 そうそう。ずいぶんいっぱい話をしたよね。

藤本 話に夢中になってて気づいたら、まわりに誰もいなくなってた(笑)。

国枝 それだけしゃべったのに、今みたいにライン交換するような時代じゃないから、あっさり別れて、その後会うのが2年後のアジアパラ競技大会とかね。

藤本 2年ごとに、「おう」「やあ、久しぶり」みたいな。

国枝 直接連絡先を交換して連絡するようになったのは、多分、16年のリオパラリンピックの頃からかな。

体が元に戻ればちゃんとプレーはできる。右肘を故障したことで、休む勇気を実感できたんだ(国枝)

藤本 シンゴも、オレも右肘故障してたんだよね。

国枝 その話もよくしたね、どんな治療をしているかとか。大事な情報交換だった。

藤本 NTC(国立トレーニングセンター)で治療を受けていた時に会ったね。

国枝 いやあ、もうだめだ〜とか言ってたね、お互いに。

藤本 シンゴはリオ前に手術してるけれど、オレはリオの後すぐにドイツのシーズンが始まるんで、ドイツのチームに相談したら治療しながらプレーすればと提案されてそのまま行ったの。でも、結局痛みがひどくて治療のために帰国したんだ。

国枝 具体的な治療方法の話をしたね。これは効いた、これはあまり効果感じなかったとか。

藤本 痛みもあったけど、それ以上に右肘の可動域がすごく小さくなってしまって、これじゃプレーできないって思って手術に踏み切った。アドバイスをもらえて助かったよ。

――お二人とも手術をした上で現役を続けられたわけですが、そのモチベーションはなんだったのでしょう。

国枝 僕は、とにかく東京パラリンピックが大きかった。それがなければ、あの時点で引退していたと思う。

藤本 そのくらい、東京は大きなモチベーションだったよね。がんばる先に東京大会がなかったら、多分手術してまでプレーを続けていたかどうか。

国枝 本当にその通り。

藤本 戦うために肘を治して、シュートフォームも一から作り直して。おかげでいろんなことを考えられたな。適切な休み方とか。

国枝 それ、すごく大事だよね。けがをすると、結構長期間休まざるを得ないんだけど、戻った時に、案外すんなりプレーできたりしなかった?

藤本 そうそう、戻れる!

国枝 それまでは、休むということに対して罪悪感があったけれど、けがをしたことで、休む勇気をくれたところがあったな。

藤本 ずっと、走り続けてきたからね。

国枝 休んでも、体が元に戻ればちゃんとプレーができるということを実感できた。それ以前は、やっぱり休むことが怖かったんだ。

東京パラリンピックに向けてじっくりチーム作りに時間をかけられた。だから、本番では本当に自信があった(藤本)

――2020東京パラリンピックというステージでそれぞれ金メダル、銀メダル獲得という素晴らしい結果を残されました。振り返って、東京大会はどんな記憶として残っていますか。

藤本 コロナがあって、思うように練習も国際大会もなくて、しかも1年延期になった。

国枝 特殊なパラリンピックだったよね。

藤本 でも、それだけチーム作りにすごく時間をかけられたんだよね。だから、本番は、すごく自信があった。予選ラウンドからずっと、余裕で勝っているって感じてたんだよね。実際にはほとんどの試合は逆転勝ちしてるから、絶対に楽勝ではなかったはずなのに。でも、全然対戦相手を怖いと思わなかったんだ。そんな大会は、これまでで初めてのことだったよ。

国枝 そうだったのか。

藤本 決勝戦の第4クォーターでオレ、ファウル4つくらって、ベンチに下がってたんだ。最後の最後、4点差で追いかけている展開でコートに出る準備していたんだけど、結局コートに出ないまま、負けて試合終了。あの試合勝っていたら、引退したと思うんだけど、今も続けているのは、ギリギリで負けたからかもしれない。

国枝 車いすバスケの決勝戦は選手村の部屋のテレビでガッツリ見てたよ。怜央くんの気持ちは今初めて聞いた。

藤本 若い奴らが本当に成長したと感じてたよ。でも、自分が出ないまま負けた。

国枝 怜央くんは、パラリンピックに置き忘れてきたものがあるんだね、今も。

藤本 シンゴはどうだった? 決勝戦の後とか。

国枝 正直、今回は浸った。

藤本 ええ、そう!?

国枝 東京大会が終わってから何度も動画や写真を見直したりするんだけど、その度にウルッときちゃう。こんなこと、これまでなかったよ。初めての体験。

※後編に続く

対談の日、藤本は初めて車いすテニスに挑戦。「バスケットボールより小さいボールはむずかしい」と言いながらも強打を連発!

藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。

国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。

取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC)

※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです。表記などは取材時のものですのでご了承ください。



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