新星、参上。小田凱人(車いすテニス)
車いすテニス界に新星が現れた。小田凱人(おだ・ときと)、16歳。王者・国枝慎吾が「ショットのパワーもコントロールも超一級」と認める若き才能を、練習拠点の岐阜に訪ねた。
※この記事は『パラスポーツマガジンvol.12』(2022年11月28日発刊)から転載したものです。表記などは取材時のものですのでご了承ください。
2022年10月6日〜9日、東京・有明テニスの森で開催されたテニスの楽天ジャパンオープン車いす部門の決勝戦は、センターコートである有明コロシアムで行われた。
コートに入場したのは、日本が世界に誇る国枝慎吾、そして、16歳の小田凱人である。決勝戦は、ファイナルセット・タイブレークにもつれ込んだ。2時間27分もの死闘を制したのは、レジェンド・国枝。しかし、国枝を追い詰めた若武者・小田の戦いぶりに、集まった観衆はスタンディングオベーションでいつまでも讃えていた。
2021年、小田は15歳を目前にジュニアの世界ランキング1位となり、そのままの勢いでシニアのランキングも9位まで押し上げた。今年4月、高校進学を機にプロ転向を表明。6月には全仏オープンでグランドスラムデビューを果たす。国際テニス連盟(ITF)によれば、16歳でのグランドスラム出場は史上最年少である。11月7日現在、男子シングルス世界ランキング4位。
日本に、車いすテニス界の新たなスーパーヒーローが出現した。
競技用車いすがかっこよくてテニスをはじめた
小田は3歳でサッカーを始め、夢中になってピッチを駆け回る元気いっぱいの子ども時代を過ごしていた。小学2年の冬に左脚に痛みを感じるようになり、小学3年の6月に病院で受診すると左股関節骨肉腫であることが判明。抗がん剤治療でがん細胞を小さくした後人工関節を装着し、腹直筋を切除して大腿部に移植する大手術を受けた。現在、左股関節は60度以上屈曲することができない。クラッチを使って歩行することで脚力を維持しているが、車いすを利用する方が、移動そのものは楽なのだという。
入院中に主治医に「退院したらパラスポーツをやってみてはどうか」と勧められ、動画でさまざまなパラスポーツを検索すると、車いすテニスに目が留まった。
「競技用の車いすがめちゃくちゃかっこよくて。それまではサッカーしかやってこなかったけど、個人競技であるテニスに挑戦してみたいと思ったんです」
食い入るように見ていたのは、リオパラリンピック前に有明テニスの森で開催された世界国別選手権(ワールドチームカップ)での国枝のプレーだった。誰よりも素早く競技用車いすを操作してウイナーを決める姿に魅了された。
「初めて競技用車いすに乗せてもらったのは、病院内にある体育館で、体験用の車いすでした。入院してからずっと感じていなかった〝風〞を感じられた。純粋に楽しかったことを、鮮明に覚えています」
退院してすぐに、車いすテニスプレーヤーが在籍するクラブの門をたたき、本格的に車いすテニスを始めた。クラブには、クアードクラスでロンドンから東京までパラリンピック3大会連続出場した諸石光照が所属。諸石は、小学生の小田にていねいにテニスを指南した。
「始めたばかりの頃は、ボールを打つのも、車いすを操作するのも、ただ楽しくて」
夢中でボールを追いかけた。テニスを始めてすぐに国内の大会に出場する。
「ずっと動画で世界のトップクラスの試合を見ていたから、現実のプレーとの落差にがっかり。でも、だからこそ、自分がレベルアップして、これを超えていきたいという思いが強くなりましたね」
ジュニアの大会だけでなく、シニアの大会にも出場するようになる。初めて対戦したのは、パラリンピアンの齋田悟司だ。国枝とペアを組んで出場した04年のアテネパラリンピックのダブルスで金メダルを獲得した選手である。
「小学生相手に、手加減せず戦ってくれた。ボロ負けでしたけれど、そこで火がつきました」
動画やテレビでしか見たことのないレジェンド国枝に直接対面したのは、小学5年。ジュニアのための車いすテニスキャンプ「ドリームカップ」でのことだ。
「本物の国枝選手を見て、もう、心臓バクバクでした」
この時すでに小田の視線は世界に向いていたが、国枝をはじめとするパラリンピアンとの出会いによって、その思いはいっそう高まったのだった。2018年、ジュニアのシングルスランキングは56位、男子シングルスでは408位。中学に進学すると、海外のツアーに参戦するようになった。ここから小田の躍進がスタートする。
コロナ禍で自分を見つめ直し基礎練習に取り組む
ところが、実際には2020年からコロナによる感染拡大で、世界中の誰もが練習も試合もできない状況に陥ってしまう。小田は、このコロナ禍こそ、大きく成長した期間だったと振り返る。
「コロナ前に海外遠征に出るようになり、何歳の時にはこのくらいのランキングにして、この大会に出場して、10代で世界一になるぞ、と心に決めていた。それが、コロナで全部、吹っ飛んでしまったわけです」
いつ終わるとも知れないコロナ禍で、小田が、立ち止まった。
「テニスが楽しくて、その先に世界があった。当時は、練習でも自分のやりたいこと、好きな練習だけをやっていて、それで世界に通用すると思っていたんです。でも、自分を見つめ直したら、今のままでは、絶対に世界一になんかなれないと、気づきました」
楽しい気持ちは、小田少年を成長させるエネルギーにはなっている。しかし、世界で勝つには、それだけでは足りない。
「コロナ前までは、いわゆる球出しトレーニング、基礎的な反復練習が嫌いだったんですよ」
コート練習が再開すると、嫌いだった基礎練習に取り組み、ショットに磨きをかけていった。現在練習拠点にしている岐阜インターナショナルテニスクラブで、2020年からパーソナルに小田を指導し、プロ転向後海外遠征にも帯同する熊田浩也コーチが語る。
「車いすということは考えない。シンプルにテニスプレーヤーとして必要な技術を身に付けさせることに注力してきました」
熊田コーチは小田と同様に左利き。そのメリットを生かしたサーブからの展開、ストロークの精度を磨いて対戦相手の戦意を消失させる。そのための徹底的な基礎練習を積み重ねてきた。
「基本が身についてくると、毎回、自分が狙ったところに、同じクオリティで打つことができるようになってきました」(小田)
2021年にツアーが再開すると、小田は海外へ飛び出す。久しぶりの試合で感じたのは、基礎練習によってショットミスが減少したという手応えだった。トルコで開催されたシニアの大会で連戦連勝。グランドスラム常連のヨアキム・ジェラール(ベルギー)、トム・エフベリンク(オランダ)の2人には敗北を喫する試合もあったが、それ以外の大会はすべて優勝し、この年に一気に男子シングルスのランキングを一桁台にのせた。コロナ禍で決めた覚悟を、パフォーマンスで爆発させたのだった。
夢の場所、夢の舞台、そして夢の対戦相手……
あこがれの国枝と実際にネットを挟んでプレーしたのは、数えるほどしかない。初の対戦は2019年。初めて車いす部門が新設された楽天オープンだった。中学1年の小田はダブルスで、国枝/ステファン・オルソン(スウェーデン)組と対戦し、1ゲームも取れずに完敗。記憶にさえ残らない試合だった。
小田が国枝というプレーヤーを強く意識させられた打ち合いは、2021年東京パラリンピックを目前に控えた代表合宿でのことだという。
「パラリンピック直前ということもあって、国枝選手のショットの完成度の高さに驚きました。どこへ打ち込んでも、どんな球でも、国枝選手は同じ場所に同じクオリティのショットを打ち返してくるんです」
この完成度を超えなければ、国枝を倒すことも、世界一になることもできない。ネットを挟んで、国枝の凄みを感じ取っていた。
実際に試合で対戦したのは、今年に入ってから。1月、オーストラリア・メルボルンオープンの準決勝。6-7(2)、6-7(1)と、いずれのセットもタイブレークとなる接戦を演じたが、敗退。2度目は、グランドスラムデビューとなった全仏の準決勝。この大会では2-6、1-6。3度目は全仏直後に行われたリビエラオープン準々決勝で、3-6、5-7で敗退している。
そして、迎えた3年ぶりの楽天オープン決勝の舞台が、国枝との直接対決4戦目となった。小田の長い腕から繰り出すサーブに国枝がミスを連発し、1ゲーム目を小田がキープする。しかし、国枝もサービスキープし3-3と拮抗する展開に。第7ゲームで小田のサービスを国枝が鋭いリターンで攻め返しブレークに成功すると、勢いのまま6-3で国枝が先取した。
第2セットで小田の反撃が始まる。第2ゲームまでは国枝にリードを許すが、第3ゲームでは小田のリターンが冴え渡った。その後もフォア、バックハンドともにウイナーを放つ。国枝の追撃を寄せ付けずに第2セットを6-2で奪取した。小田にとっては、国枝から初めてもぎ取った、記念すべきセットである。
ファイナルセットは、国枝のキレが戻り1-5でリードを許す。第7ゲーム、国枝のバックハンドが小田のコートの左隅に決まりマッチポイントを握られると、勝負があったかに見えた。しかし、ここから小田は「一気にゾーンに入った」という。1-5から巻き返した小田は、6-5まで駆け抜ける。
「自分は細かく戦術を立てるスタイルではありません。自分の武器であるサーブやショットを、相手に合わせて思うがまま、自由にプレーする。駆け引きをすると、(国枝のような選手に)読まれてしまうというリスクが生じます。どうしてもわずかに一瞬、体が動いてしまうからなんです。だから反射的に自分の感覚に従ってプレーしていました」
考えるな。ひたすら打ち込んでいけ。そのことだけを考えていた。自分の感覚だけを信じて勝利に向かってまっしぐらに進んでいたが、6-5で先に王手をかけたことで、わずかに弱い自分が顔をのぞかせてしまったという。
「強い自分と、弱い自分が2人いた。そんな自分を初めて見つけました」
タイブレーク、国枝のダブルフォルトで小田が先制点を挙げる。しかし、その後、波に乗れず3-7で勝利を逃した。
「先制点を挙げた後、自分には2本のサービスチャンスがあった。それを活かしきれませんでした。調子は悪くない、すごくよかった。だけどタイブレークで勝ちきれない。それが勝負を分けるということだと痛感しました」
2時間27分の激闘を終えた後、小田は最後まで観戦したスタンドの観客に向かって、「まずは国枝選手、本当にありがとうございました」と感謝を語り、こらえていた涙で声を詰まらせた。
「夢の場所、夢の舞台、そして夢の対戦相手……」
コートインタビューで語った言葉は、小田の心そのままである。
「トキトが今年グランドスラムデビューも果たし、いつかやられる日がくるかもしれないと思っていた。今日がその日なのかと、何度もそのことが頭をよぎりました」。国枝はこう言った。
2004年のアテネパラリンピック・ダブルスで金メダルを獲得し、その後06年にアテネでダブルスのパートナーを組んだ齋田に敗北を喫して以来16年間、国枝に土をつけた日本人選手はいない。06年に産声を上げた小田が、圧倒的な王者・国枝に「今日がその日か」と言わしめるほど追い詰めた。
10代で世界一になる。今年グランドスラムデビューを果たし、マスターズにも出場した。その先に初めてのパラリンピックとなるパリ大会出場、金メダルという目標もある。
しかし、小田が目指しているのは、大舞台の結果にとどまらない。
「現役中は、つねに1つの大会で結果を求めていくことの繰り返しです。そこはぶれずに続けていきます。でも、その勝利はなんのためのものなのか」
長年トップを走り続けている国枝の凄さを改めて感じたからこそ、それを超えていくという思いが新たに湧き起こった。
「国枝選手にあこがれて車いすテニスを始めた。この車いすテニスの素晴らしさを、より多くの人に広めたいです」
そのためにも結果を残す。自ら発信もする。将来は子どもたちにテニスを指導してみたい。いずれも、国枝が日本の障がい者スポーツの荒野に作ってきた道だ。その王道を、国枝の背中を見て育ってきた小田が、たどる。
車いすテニスの新たな地平が、小田の出現によって開かれていくのだ。
小田凱人(おだ・ときと)/2006年5月8日、愛知県生まれ。東海理化所属。小学3年で左股関節の骨肉腫を発症し、左脚の自由を失う。10歳で国枝慎吾に憧れて車いすテニスを始めた。小学4年で国内大会のジュニア部門に初出場、小学5年でシニアの大会にも出場。中学に進学すると海外遠征を開始、2021年にはジュニアの世界ランキング1位、さらにシニアの世界ランキング9位に。2022年4月、N高等学校進学を機にプロ転向を表明。6月全仏オープンからグランドスラムに出場し、ウインブルドン、全米の3大会を戦う。年間王者を決める11月のNECマスターズを史上最年少で制し、世界ランキングはシングルス4位、ダブルス9位(2022年11月7日現在)。
取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 協力/岐阜インターナショナルテニスクラブ