
【ニューデリー2025世界パラ陸上: 番外編】義足のレジェンド、マルクス・レームが8度目のタイトル防衛! そして、新天地でさらなる高みへ

“パラスポーツ界の顔”ともいえるスター、マルクス・レーム(ドイツ)が10月3日、「ニューデリー2025世界パラ陸上競技選手権大会」のT64(下肢障害)男子走り幅跳び決勝を制し、自身8度目の世界選手権優勝を果たした。パラリンピックでは4連覇中で、世界記録(8m72)ももつ37歳の絶対王者はこの日、2回目の試技でマークした8m43で金メダルをつかんだ。
アメリカ勢の2人がレームにつづいた。デレク・ロキデントが8m21で銀、ジャリッド・ウォレスが7m65で銅を獲得した。
レームはこれまで、数々の金メダルを手にしてきたが、「8連覇できて、本当に嬉しい! 今日は勝つことがとても重要だったのです」
インドの地でつかんだ金メダルは、これまでより特別な、意味のある一つであり、さまざまなドラマもあった。
絶対王者と、追いかける後継者
1988年生まれのレームはスポーツ好きの活発な少年だったが、14歳のとき、ウエイクボードの練習中の事故で右足の膝から下を失う。「自分のアイデンティティがなくなった…」と落ち込んだが、スポーツ義足と出合ってパラ陸上競技を始めると、とくに走り幅跳びでの才能が開花した。パラリンピックでは初出場となった2012年ロンドン大会で当時の世界新記録(7m35)で優勝して以来、負け知らず。レームがもつ現世界記録は2023年に樹立した8m72で、健常者の世界記録(8m95)にも迫りつつあることでも注目されている。
そんな百戦錬磨のレームをもってしても、ニューデリー2025大会は特別だった。試合日程は元々、前日の夜に予定されていたが、夕方、突然の激しい雷雨によって大会は1時間あまり中断。レームは試合開始を待たされた挙句、結局、翌日に延期となった。
丸1日後に行われた試合を終え、レームはこう振り返った。「昨日は延期が決まってから、ホテルに戻って気持ちを切り替えるように努めた。今日は一転、素晴らしい天候に恵まれて、試合のあらゆる瞬間を心から楽しめた。その上で、世界タイトルを守れたことをとても嬉しく思います」
決して簡単な試合ではなかった。2位に入ったロキデントは急成長中で、レームの後継者筆頭と目される新星だ。1998年生まれのロキデントは大学でアメリカンフットボールの選手として活躍していた2018年、列車事故に遭う。左足の膝下を失ったが、数カ月後に義足をつけてアメフト復帰を果たす。大学卒業後はパラ陸上競技に転向し、2023年にレームとの初顔合わせとなった世界選手権パリ大会で、いきなり2位となって世界を驚かせた。この時の二人の記録差は110cm。だが、2024年神戸大会では61cm、同パリパラリンピックでは34cmと徐々に縮まっている。さらに、今大会の資料によれば、大会前までの今季最高記録はレーム8m29に対して、ロキデントは8m22と迫っていた。
タイトル防衛を実現した、“シンプル”な戦略

丸1日遅れで始まった試合には7人がエントリーしており、レームが最初の試技者だった。1回目から求めた観客の拍手に乗って、スピード感ある助走から空中に飛び出したレームの跳躍は8m36で、シーズンベストを記録した。注目のロキデントは6番目に登場、1回目は8m16だ。7人全員が跳び終え、レームが1位、ロキデントが2位につける。8m越えは二人だけだった。
2回目で、レームは8m43と記録を伸ばした。ロキデントも8m21と少し伸ばしたが、順位は変わらず。その後も緊張感あふれる試技が続いたが、互いに距離は伸ばせない。記録によって試技順が変わる4回目以降はレームより先にロキデントが跳ぶようになり、6回目にロキデントがファウルとなったため、ここでレームの優勝が決定した。
試合後、レームは試合プランについてこう明かした。「デレク(・ロキデント)が好調なことは分かっていたので、僕の目標は明確でした。とにかく、『1回目のジャンプを完璧に決めることだ』と」
伸び盛りの若手の勢いを削ぐには「先手必勝」だと考え、そのプランをレームは確実に実行したのだ。
「2本目にもいいジャンプができて、確信しました。これで彼(ロキデント)には厳しい展開になるだろうとね。でも、走幅跳は特殊な種目です。完璧なジャンプを決めれば、20、30cmくらい簡単に距離を伸ばせる可能性があります。デレクは手強い。だから、最後のジャンプまで集中しなければならなりませんでした。優勝が決まったときは、本当にホッとしました」
一方のロキデントは、「3回目以降はいくつかミスがあって伸ばせませんでした。でも、準備もしっかりできたし、自信をもって試合に臨んだので、今日の記録には満足しています」と、試合を振り返った。
また、レームの存在について聞かれ、「特別だし、敬意を抱いています。僕の成長は、彼のおかげ」と感謝を述べた。「初めて対戦した2023年のパリ大会で、マルクス(・レーム)は大会記録を更新する大きなジャンプを見せてくれて、すごくワクワクしました。僕も銀メダルを獲れたし、彼に追いつきたい気持ちが練習のモチベーションになっています。追い求めるべき目標を与えてくれるし、時にはアドバイスもしてくれます。だから、彼には長く活躍し続けてほしい。でも、いつか彼に追いつけることを願って僕も努力しています」
世界トップを争う二人の競り合いによるハイレベルなパフォーマンスに期待がかかるが、その格好の舞台が3年後に迫る。ロキデントの母国で開かれるロサンゼルスパラリンピックだ。
ロキデントは、「ホームグラウンドでの大会は僕にとって大きな意味がある。そこで、チャンピオンの称号を手にすることが最大の目標です。完璧なジャンプができるように、とにかく、トレーニング、トレーニング、トレーニング! それが成功の秘訣です」と意気込む。
レームは後継者の登場を歓迎しながらも、負けるつもりはない。「ロキデントは正々堂々と挑んでくれる、素晴らしいライバル。これからも競い合えることが楽しみです」
思い出の地、インドで示したコーチへの感謝と惜別

「今日は勝つことが重要でした。この勝利で最も伝えたかったのは、『コーチへの感謝』でした」
レームは優勝決定後の最終6回目の跳躍にもしっかり挑み、観客の拍手に乗ってスピーディーな助走から大きなジャンプを披露したが、つま先がわずかに踏切板を越えファウル判定となった。レームは一呼吸おいてから手を挙げ、スタンドに笑顔を向けた。
ただ、5回目までと少しだけ違っていたのは、助走のスタート地点に向かうレームのおでこに見慣れないはちまきが巻かれていたことだ。よく見ると、「Thank you Steffi(ありがとう シュテフィ)」と書かれている。
“シュテフィ”とは、16年間にわたってレームのコーチを務めたシュテフィ・ネリウスのことで、この日を最後にコーチから引退することになっていた。1972年生まれのネリウスは元やり投げの名選手で、2004年アテネオリンピックで銀メダルを獲得し、2008年には68m34の自己ベストを出している。所属する陸上クラブで義足のレームと出会い、コーチになった。
はちまきは現役時代のネリウスのトレードマークだった。各大会の主催者やファンへの感謝を表そうと、いつもはちまきを着けて競技していたという。そこで、レームも彼女にならい、彼女への感謝をはちまきに記したのだ。
「シュテフィは僕の最初のコーチで、16年間も指導し続け、僕の人生を変えてくれました。彼女はコーチとして、友人として、人生の師として支えてくれて、僕をアスリートとして、人間として成長させてくれました。この間、数えきれない金メダルを手にしたけれど、シュテフィなしでは成しえなかった。ともに歩んだこの旅路を心から感謝しています」
ネリウスとともに戦う最後の試合だったから、勝って感謝の思いを表すことが、この試合では最大の目標だった。
「でも、まだまだ恩返ししきれません。彼女がどれほどの高みへ僕を導いてくれたか、分かりますよね。僕たちは『チーム』として世界記録を何度も更新しました。幅跳びピットには僕一人が立ちますが、僕の背後には支えてくれる『チーム』がいて、その中心がシュテフィでした」
実はレームが初めてネリウスコーチと「チーム」を組んで出場した国際大会は2009年、インドのバンガロールで行われた大会だった。レームはそこで初優勝したことを皮切りに連勝街道を走りつづけ、「チーム」での最終戦を同じインドのニューデリーで迎え、優勝で締めくくったのだ。
ネリウスも感慨深く語った。「マルクスを誇りに思います。16年間無敗という信じられないくらい素晴らしいアスリートですから。それに、私たちはこれまで、『試合中は集中力を保ち、最後までベストを尽くすこと』を目指してきました。だから、彼が今日、シーズンベストをマークしたことは素晴らしいですし、このタイトルとともに引退できることを私は大変嬉しく思います。完璧な結末です」とうなずき、目を細めた。
さらにネリウスは、少し離れたところで記者に囲まれるレームのほうをやわらかな表情で見やりながら、こう付け加えた。「実は今日、10月3日は、35年前(1990年)に東西ドイツが統一された日です。私は東ドイツ出身なので、10月3日(の東西統一)があったからこそ、西ドイツ出身のマルクスと出会えたのです。特別な日に試合ができたことも思い出ですね」
前日に雷雨がなければ、試合は10月2日だった。二人の絆の強さがドラマティックな舞台を引き寄せたのか……。インドで始まった二人の“旅”は16年の時を経てインドで完結した。

新天地で、新たな目標
恩師への感謝を8連覇という形で示したレームだが、もちろん、ここで終わるつもりはない。さらなる勝利を目指して、彼は新たな挑戦を考えている。これまで通り、所属チームであるドイツのレバークーゼンを拠点にしたまま、今後はオランダの陸上チームの練習にも参加するつもりだという。チームには今大会のT64女子走り幅跳びで優勝したフルール・ヨングなど多くのトップアスリートが所属している。
現在の計画では週に一度、車で数時間のオランダ・アムステルダムへ通って練習に加わるほか、時にはオランダチームをドイツの拠点に招いて合宿を行うことも考えている。優秀な選手たちとの切磋琢磨や情報交換によってレームは新たな視野を広げることになるだろうし、レーム自身の経験や知見もチームに還元できる。義足での跳躍競技のさらなる発展にもつながるはずだ。
「経験豊富な選手が揃ったチームだから、きっと新たな刺激や学びがあるはず。優れたアスリートが大勢、集まれば集まるほど、よりハイレベルな成果も得られるでしょう。だから今は新しいチャレンジにとても期待しています」
世界記録は2年前に樹立した8m72で止まっているが、レーム自身は、「記録はまだ伸ばせる」と力強い。今季は調子が上がらず、この日は踏切を合わせるために助走距離を短くして跳んだという。それでも、今季のベストが出た。
「スピードとリズムを全てまとめるのは難しい」とレーム。だからこそ、すべてがかみあったとき、まだまだ遠くへ跳べると信じている。「その時が、本当に楽しみなんです」
16年の旅を終え、また新たな旅を始めるレーム。その道のりの先にいったいどんな記録が、どんな結末が、待っているのだろうか。
取材・文/星野恭子 写真/吉村もと