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Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(2/2)

Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(2/2)

もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。 チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。 僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。 その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。 でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。 「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」 サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。 その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。 人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。 結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。 2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。 しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。 日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。
Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(1/2)

Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(1/2)

僕の運命が一変したのは、忘れもしない1993年。その年、サッカーJリーグが開幕し、僕も現在のジェフユナイテッド市原・千葉に所属していました。 しかしケガをしたり、同じポジションにリトバルスキーというスター選手が入団したりして、出番が激減したのです。自分より巧い選手はいないと思ってきたので悔しかったし、焦りもありました。そんな不安を抱えながら運転していた11月28日、衝突事故を起こしました。実はその日、結婚式の衣装合わせをすることになっていたのです。 主治医から「車いす生活になる」と宣告されたのは事故から2カ月後。取り乱したりするのはカッコ悪いと思ったので、「はい、わかりました」としか答えなかったです。とにかくひとりになりたい。それだけでした。 〝現実を受け入れる〞なんて、極端な話、今もできていません。でも前を向いて歩けるようになったのは、妻のおかげですね。僕よりたくさん泣いて、こんな自分と事故後まもなく結婚してくれた。彼女が口にした言葉は今も胸に刻まれています。 「ひとりじゃできないことも2人なら乗り越えられる。これからは2人で頑張っていこうよ」 彼女はこんな自分と一緒に生きていこうと言ってくれた。とにかく彼女の想いに応えたいと思いました。自分中心に生きてきた僕にとって、生まれて初めて自分以外の人のために生きたいと思えた瞬間でした。 車いすバスケットボールへの道筋を開いてくれたのも妻です。市役所に障害者手帳の手続きに行ったら、窓口担当者が小瀧修さんだった。当時車いすバスケットのトップチーム「千葉ホークス」の中心選手で、いまは日本車いすバスケットボール連盟常務理事をされている方です。 元Jリーガーだし、絶対に僕がバスケをやるようになるという確信があったのでしょう。あとは小瀧さんの敷いたレールの上を歩いた印象ですね。 リハビリ仲間と初めて車いすバスケをやって、〝できるじゃん〞と思ったのは、小瀧さんに紹介されたリハビリ病院でのこと。プロチームの練習を初めて見たのも千葉ホークス。当初はレベルの高さに圧倒されて尻込みしていました。しかし国体のときに、偶然千葉県代表チームに帯同する機会があり、県代表として参加する千葉ホークスの選手たちのプレーを間近に見て、違う感情がこみ上げてきた。 「コレだな。車いすバスケットでもう一度花を咲かせよう」 妻が競技用車いすを40万円ぐらいで買ってくれました。94年、千葉ホークスに入り練習を始めますが、スピード、ボールを持ったときのドリブル、パス、シュートの精度、車いすの操作の巧さ……、すべてにおいて天と地ほどの差を感じました。必死にくらいついて、ある程度上達はするのですが、その先にまた新たな壁が立ちはだかっている。正直、めげました。でも逃げなかったのは、自分を追い込んだからです。 地元北海道で結婚披露パーティを催したときのこと。 Jリーガーとして活躍するのを楽しみにしていたと言う友人が何人かいました。でも自分は違う人生を歩み始めている。なんか腹が立ってきて、こう挨拶しました。 「車いすバスケットでシドニーパラリンピックを目指すから、応援よろしくお願いします!」 とにかく勝負事が好きなので、言ってできなかったら負け。負けたくないから言ったことは絶対にやる。「有言〝行動〞」が京谷流です。それで僕のスイッチは完全にオンになりました。 車いすを操作するために、手はパンパンに腫れ上がるし、タイヤを素手で止めると、手の皮がたびたびめくれる。でも必死にボールを追いかけました。 Jリーガーの仲間からも刺激を受けました。ジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉の結婚式に行ったとき、はっきり言って寂しかったんです。出席しているのは日本代表のJリーガーばかり。サッカー選手のときには一緒に日の丸を背負って戦ったけれど、今は自分ひとり何もないなと思って、早く立ち去りたかった。でもふと考え直したんです。パラリンピックという舞台でプレーができたら、同じ日本代表だと。あのときですね、日の丸への自覚や責任がワッと甦ってきて、体の芯に「日の丸」がストンと落ちてきたのは。 練習への向き合い方もかわりました。すぐにうまくなるわけはないけれど、うまくいかないこともプラスに捉えられるようになりました。
【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(2/2)

【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(2/2)

彼女は今年、体力強化やレギュラー獲得などの目標をブログで掲げていた。その進捗をこそっと聞くと、答える前からどこかうれしそう。 「実は、レギュラーの番組が決まったんですよ。こんなにはやく目標を達成できたことが、すごくうれしいです!」 家族には一番に伝えたらしく、一緒に喜んでくれたそうだ。残りの目標もこの調子でクリアしていけるよう応援したい! また、「不幸中の幸いノート」も話題を呼んだ。事故4日後に書きとめたそのリストには、「頭や首が無事」「手が自由」などの前向きな言葉がいくつも書かれている。事故当時の状況に向き合おうという思いに至ったことから始まったというが 「公開したことへの特別な想いはありません。ある取材で大きく取り上げてくれて、そこからまた注目されるようになって……。反響を集めるようになったから、じゃあもっと表に出してもいいやって」 と言っていた。これからも、毎日としっかり向き合っていくと明かしてくれた。 今後もさらに活躍の場を広げていきたいと話す彼女の顔は明るい。これから取り組みたい新しい試みについて聞くと 「クルマの運転です。今は甘えて両親やマネージャーに迎えにきてもらっていますけど、そこをまず変えていきたくて。運転ができれば活躍の範囲も広がって、プライベートで使うことだってできますよね。好きなときに好きなことができるようになることが理想です」 と、即答。車いす生活になってからまだ日は浅いが、何が必要で、何が足りないかをしっかりと理解しているように感じる。なんだかとても頼もしい。 「ちょっとしたことですけど、ベッドとかに乗り移る動作も磨いていきたいと思ってます。左側に移ることには慣れたんですけど、右側はまだ下手。今後はいろんなところに足を運ぶと思いますし、どこでも同じように対応できないといけないから、そのために練習中です」 健常者でいう利き腕のような感覚らしく、慣れるまで相当な時間がかかるらしい。それでも一つひとつをこなせるようになることがうれしいと、決して折れることなく努力を重ねているようだ。 また、2019年2月に、iPS細胞を使って脊髄損傷を治療する臨床研究が進むニュースを見て 「私みたいな人が治る未来がくればいいなと思います。そのために、私から積極的に発信を続けて、まずはiPS細胞と脊髄損傷のことをみんなに知ってもらうことが目標です」 と決心したそうだ。 「まあ期待はしすぎず。するけども、しすぎないようにしていきたいですね」 と、最後まで笑って答えてくれた。彼女の存在は、障がいを抱える人たちの未来を変えてくれるかもしれない。 取材・文/編集部 写真/高橋淳司
【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(1/2)

【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(1/2)

「東京2020パラリンピックにリポーターとして携わりたいです」 力強く伝えるのは、昨年の事故により車いす生活を余儀なくされた猪狩ともかだ。 猪狩はこれまでパラスポーツを中心にさまざまなイベントに参加してきたが、リポーターを目指す気持ちを強くしたのは、そうしたイベント会場での出会いがきっかけだったと言う。 「仕事をしていくなかでのステキな出会いが本当に多くて。あるとき、オリンピックの通訳をしていた方と知り合う機会があったんです。英語ができるようになったらリポーターも夢じゃないねと言われ、目指しはじめました」 なんともう実際に英語の勉強に取り組んでいるという。すばらしい行動力の秘訣を聞くと 「その通訳の方が教材を取り揃えてくれました。自分で動き出すことができない性格なので、まわりの後押しでがんばれているところはあります」 と、おどけた様子で答えてくれた。それでも日々コツコツと続けることは簡単ではない。謙虚の裏の努力が滲む。 同時に、パラスポーツに参加することも積極的にこなしていることも印象的だ。去年からボッチャやテニス、バスケなど幅広く体験をしてきたが、今後も挑戦あるのみだと意気込む。 「なんでもそうですけど、回数を重ねれば重ねるほどおもしろさって出てくるものだと思います。特にテニスは以前厳しい指導を受けたので、燃えていますね。あとは水泳!  やりたいと口にしながらもまだできていないので、これからもチャンスを狙っていきたいです」 2019年3月、チェアスキー選手であるパラリンピアン野島弘さんとイベントに登壇した際には、チェアスキーにも誘われたようだ。今年中に体験をしてみたいと目を輝かせていたが、この好奇心こそが最大の魅力だろう。 続いて、生活の変化についても聞いてみた。アイドルとしてのライブ活動が減ったが、パラスポーツ関連の取材は依然として増えているそう。活躍の場も、時間帯も、人間関係も、すべてがガラリと変わろうとしている毎日について尋ねると、「今のお仕事はだいたい朝が早いので、必然的に寝るのも早くなって。生活は規則正しくなってきたように感じますね。そこはとても助かっています!」と楽しんでいるよう。「追い込まれないとできない人間」だと笑っていた。
自分自身に問いかける「WHO I AM」(太田慎也さん)

自分自身に問いかける「WHO I AM」(太田慎也さん)

「W H O I A M」は、2016年にスタートし、今年で3シーズン目。番組立ち上げから制作に携わってきた太田慎也さんは、WOWOW世代。中学生の時には世界のスポーツに夢中になっていた。だから、同志社大学を卒業すると、WOWOW第一志望で就職した。 2013年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定し、社をあげて何ができるかを議論していた時に持ち上がったのが、パラリンピックのスーパースターをドキュメンタリーで描くこと。そのプロデューサーとして太田さんが抜擢されたのだった。 「当時、パラリンピックはおろか、障がい者に接することもなかった。だから会社から打診された時に、ものすごく微妙な顔をしたと思いますよ」 番組準備のため、2015年に初めて訪れた水泳の世界選手権で、衝撃を受けた。 「選手たちが義足を放り投げるようにして、プールに飛び込んでいる。着用しているジャージには、国旗が縫い付けられていた。これはまさしく世界最高峰の舞台なんだって」 目を引いたのは、ブラジルのダニエル・ディアス。レースが終わるとメディアが一斉に彼の元に駆け寄り、コメントを求めた。 「テニスのロジャー・フェデラーと変わらない。世界的なスターだと実感しました」 上肢・下肢に障がいがあるディアスの笑顔は、キラキラ輝いていた。オレは、彼のように輝いているか。パラアスリートを間近に見て、自問自答した。 「シリーズタイトルを議論している時、英語が堪能な後輩プロデューサーが、選手に〝This is WHO I AM(これが自分だ)〞と宣言させたい、と。それで決まりました」 初めてダニエルに挨拶をした時に、握手しようと右手を出して思わず引っ込めてしまった。 「ダニエルの腕が短いことで、反射的に〝いけない〞と。今なら、短い腕を両手でつかんで握手する。でも、あの時躊躇した自分がいた。それは日本に暮らす多くの人の、ある意味偽らざる姿だと思ったんです」 それを、この番組で変えていこう。ディアスが出発点だった。 番組制作で重視しているのは、障がいをことさら強調しないこと。選手たちが、いかに自分と向き合い、人生やスポーツを楽しんで世界の頂点を目指しているか。そこにこそ、フォーカスしたい。 「シーズン1は、8人の選手のロード・トゥ・リオ。生い立ちからスポーツとの出会い、そしてリオに向かって何に取り組んでいるかを、王道のスタイルで作りました」 難しかったのは、シーズン2。パラリンピックの翌年で、選手たちはそれぞれ故郷に戻り リラックスしている。アスリートとして最前線を突っ走っている時期ではない。 「でも、だからこそ、彼らの真の生き様に迫れたと思う」 国際パラリンピック委員会(IPC)との共同プロジェクトであったことは、選手へのアプローチを後押ししてくれた。それでも難航したものもある。 「ボスニア・ヘルツェゴヴィナのシッティングバレーボール選手、サフェト・アリバシッチには、ボスニアのパラリンピック委員会経由でようやく教えてもらった連絡先に電話をかけたら本人の携帯で、英語が通じない。ジャパン、テレビくらいはかろうじて理解してくれました」 ボスニアに詳しい専門家に相談し、連絡する道筋を見つけて実現にこじつけた。 取材するうえで心がけているのは、選手との距離感だ。探りながら、かつ懐に飛び込まなければ、番組は完成しない。 「じっくり、選手と一緒に番組を作っていく感覚ですね」 2020年東京パラリンピック開催までの5シーズン、計40人のトップアスリートに迫る。W O W O W は有料放送だが、「WHO I AM」の過去のシーズンは簡単な登録だけで無料で視聴できる。 「作って終わりじゃない。ここが始まりだと思っています。一人でも多くの人にパラリンピックの、パラアスリートの素晴らしさを知ってもらいたい。それは、この番組を製作する者のミッションだと思っています」 取材・文/宮崎 恵理 写真/WOWOW・編集部
3度目のスタートライン(パラトライアスリート:土田和歌子)

3度目のスタートライン(パラトライアスリート:土田和歌子)

土田が初出場したパラリンピックは、1994年リレハンメル冬季大会だ。スレッジと呼ばれるソリを使用するアイススレッジスピードレースの選手だった。4年後の長野大会では金2個、銀2個と躍進し、日本のメダルラッシュに貢献した。 長野大会の後、冬季パラリンピックの種目からアイススレッジスピードが外れる。転向したのが陸上競技だった。 シドニーからリオまで、5大会連続でパラリンピックに出場。アテネ大会の5000mで金メダルを獲得し、夏冬の金メダリストとなった。以来、2017年までパラ陸上の第一線で活躍してきた。 リオパラリンピック閉幕後、喘息が発症した。治療目的で水泳を始めたことがきっかけになった。クロストレーニングとして、トライアスロンに挑戦してみよう。最初はそんな軽い気持ちだったという。2017年4月のアジア選手権で優勝し、その結果から横浜の大会の出場権が得られた。 「なぜ、陸上をやめるのか、陸上と並行してトライアスロンをやってはどうか。そんな声をたくさんいただいた。今まで続けてきたことの成果です」 陸上のトップ選手から、トライアスロン1本に専念する。覚悟を決めるのは簡単ではなかったはずだ。 「確かに葛藤はありました。最初はクロストレーニングとしてのトライアスロンが、どう陸上に効果があるかということを検証したいと思っていました。でも、続けるうちにどんどんのめり込んでいったんです」 並行させる選択肢がなかったわけではない。 「ハンドバイクとスイム。取り組みたいことが3倍になったから、中途半端なことはできません。20年続けてきた陸上は、達成感もあった。よし、次に行こうって」 レーサー(陸上競技用車いす)は、それこそ目をつぶっていても操作できる。でも、スイムとハンドバイクは、まだ発展途上だと感じている。 「というより、競技者としてはビギナーですよ(笑)」 初めてハンドバイクに乗った時には、カーブを曲がることすら難しかったという。 無意識に操作できるまで、徹底的に乗り込むしかない。 本格的にトライアスロンを始め、調達したのはイタリアの「マッディライン」というブランドのハンドバイクだ。 「ハンドルに対する体の位置、背もたれの角度など調整の幅があり、その調整がしやすいこと。そこを重視して選びました」 ランでは、レーサーを使用している。 「用具としてはまったく別物ですが、自分の体との一体化を図る意味では共通しています。でも、ハンドバイクはまだ一体化されていない。バイクの性能を活かしきれてないですね」 スイムでは自分の身ひとつでオープンウォーターに飛び込む。 「でも、ウェットスーツも、重要なギアのひとつです。以前は着脱しやすいツーピースタイプを使用していました。着脱のしやすさは絶対条件です。トランジションタイムは勝負に直結しますから。でも、水中での運動、水流を考えるとワンピースのほうがいい」 トライアスロンに転向して、よりサポートのありがたさを実感しているという。 「用具の調整、トレーニング。それぞれの専門家によるサポートをいただいて、初めてレースに出場できる。挑戦すること。それが、私の原動力です」 2020年。土田は3つ目の競技で、東京パラリンピックでのメダル獲得を目指す。 取材・文/宮崎 恵理 写真/吉村もと
環境も監督も、選手も進化を続ける(ウィルチェアラグビー:島川慎一)

環境も監督も、選手も進化を続ける(ウィルチェアラグビー:島川慎一)

ウィルチェアーラグビーがパラリンピックの正式種目になったのは、2000年のシドニー大会から。日本は、04年のアテネ大会に初出場し、リオまで4大会連続出場している。アテネで7位、北京で8位。ロンドンで4位に順位をあげ、リオで悲願の銅メダルを獲得した。 リオから2年。オーストラリア・シドニーで開催された世界選手権で、日本は、パラリンピック2連覇のオーストラリアを62対61で下し初優勝した。 今年43歳の島川慎一は、アテネ大会で最多得点を挙げた選手である。以来、常に日本チームを牽引してきた。 「優勝できた最大のポイントは、準決勝のアメリカ戦でした」 世界選手権では12カ国が2リーグに分かれて予選を戦い、上位2チームが準決勝に進出する。日本は予選でオーストラリアに65対52で敗れていた。 「オーストラリアに負けた後、ケビン(・オアー)監督は、僕らにその試合のビデオを見せませんでした。ケビンが監督になって2年、一度もそういうことはなかった」 準決勝のアメリカ戦。先発ではなかった島川が交代でコートに入ると、主将の池透暢が島川に「10点くらい、引き離してやりますよ!」と、ギラギラ光る目で耳打ちしたという。 「全員が、池と同じ士気でした」 日本は51対46でアメリカを下し、決勝進出を決めた。 「僕が初めて日本代表としてアメリカと対戦したのが2002年。他の国との対戦でも、アメリカが一方的に負けた試合を見たのはあれが初めてでした」 上肢・下肢ともに障がいがある選手が出場するウィルチェアーラグビーは、コートに入る4人の持ち点(クラス分け)の合計が8点以内でなければならないルールがある。日本は、ともに3・0点の島川、池、池崎大輔のうち2人が交代でコートに入り、決勝では2・0点の羽賀理之、0・5F(0・0)点の倉橋香衣を多用する布陣でゲームに臨む。 オーストラリアの武器は、3・5点のエース、ライリー・バットの存在だ。世界的スター選手1人が予選でも決勝トーナメントでも、敵対する選手を蹴散らしてゴールする。日本はハイポインター3人が交代でスピードある攻撃を仕掛けていく。 最終ピリオドで逆転される場面もあったが、池崎のスティールで62対61とした。しかし、残り6秒で反対にオーストラリアにボールを奪われた。 「6秒あれば同点、下手すれば逆転さえ起こりうる。でも、そこでオーストラリアに得点を許さなかった。その粘りが最後に勝利を引き寄せたんです」 かつて日本は、ないないづくしだった。資金もない、練習時間もない。東京パラリンピック開催が決まり、リオで銅メダルを獲得し、現在は日本代表選手のほとんどがアスリート雇用。平日でもほぼ毎日、練習に専念できるようになった。 「隔世の感がありますよね」 島川は、アテネパラリンピック後の05年からアメリカの〈フェニックス・ヒート〉というチームで3シーズン、北京後、昨年と5シーズンプレーし、全米選手権の大会最優秀選手賞に輝いた経験を持つ。リオ以降、日本の監督となったオアー監督とも旧知の仲だ。 「とにかく走らされる。コートに出ている間は全力疾走です。ケビンは、どんどん選手を交代していく。交代が早いから、12人全員がコートに入った瞬間から全力を出せるわけです」 コートを3分割し、他の選手と直線的に重ならないように動き続けることも要求される。 「ボールがどんどん動くし、相手選手もばらけていく。これぞ、まさにケビン流です」 東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場となる。 「いや、僕としては次のパリくらいまでは第一線でプレーするつもりです」 もはや、島川にとってウィルチェアーラグビーは「人生、そのもの」。次なる目標は、もちろんパラリンピックタイトルだ。 「リオの悔しさを、東京で晴らします!」 取材・文/宮崎 恵理 写真/依田裕章
<仮面女子>猪狩ともかの新天地(2/2)

<仮面女子>猪狩ともかの新天地(2/2)

猪狩は新しい活躍の場として、「パラスポーツ」への挑戦を決めた。 9月22日に東京ビッグサイトで開かれた「ツーリズムEXPOジャパン2018」、同27日のヤフー株式会社開催「新メディア記者発表会」に参加。ボッチャや車いすバスケ、車いすフェンシングなどを体験し、パラスポーツへの関心を深めた。 「元々挑戦したいイメージをもっていましたが、それが更に強くなりました」と、語るその言葉通り、会場での猪狩は意欲的だった。特に車いすバスケでは受けたコーチングをしっかり自分のものにして、チェアワークやフリースローを難なくこなす。水泳を12年間、ソフトテニスを3年間やってきたスポーツ経験、そしてアイドルとして培ったダンス経験が、体験会で見せたセンスを裏付ける。 「車いすバスケはこれから先も楽しんでいきたいなと思いました。ウィルチェアーラグビーは見ているだけでいいかな(笑)」 初めて触れるパラスポーツの迫力に、おどけた様子ものぞかせたが、「(パワーリフティングを終えて)仮面女子として、『ガッチリしすぎてない?』って思われないくらいには鍛えていきたいなと思います」と、行動力を見せる場面もあった。どんな競技にも真剣に向かい合う姿勢はとても印象的で、アスリートとしての今後に期待が高まる。 「どのスポーツをやるかまだ決められずにいるので、とにかくいろいろなスポーツを経験していきたいです。趣味レベルではなく、公式の大会に出てみたいなと思いますね。大口はたたけないけど、パラリンピックも頭の片隅にはおいておきたい」 厳しい時期を必死に乗り越えた猪狩だからこそ出せる前向きさがみえる。 まだまだ世間の認知や理解が浸透していないパラスポーツだが、関わる選手たちもそれを感じないわけではない。個々人が、どのように広めていくべきかということを模索している。猪狩もその一人だ。 「自分でもできることといえばSNSでの情報発信です。でも、それも注目されないことには見てもらえないと思うんです。いろんな活動をしていって、猪狩ともかっていう存在をもっと多くの人たちに知ってもらえたら、それが影響力になりますし。タレントとしての力みたいなものも、これからもっと上げていかなきゃと今まで以上に感じます」 同じように車いす生活を送っている人に、なにかヒントを与えられる存在になりたいと話す。 「そのなかの一つがパラスポーツなので、その魅力を自分自身も感じながら、みなさんにも伝えていけたらなと思います」 アイドル活動に加え、障がい者としての発信にも今後力を入れていく猪狩の更なる活躍から目が離せない。 文・写真/編集部
<仮面女子>猪狩ともかの新天地(1/2)

<仮面女子>猪狩ともかの新天地(1/2)

「これから楽しんで車いす活動をしていく姿や、パラスポーツの魅力を伝えて、たくさんの人に笑顔を届けられるように頑張っていきたい」 車いす生活になって約半年。猪狩は目標を見つけ、そこに向けての準備を進めていた。復帰が絶望的だった時期がありながら、車いす生活でも楽しめることがあると気付くことができたと言う。 猪狩はもともとアイドルグループ「仮面女子」に所属しながら、ライブ活動を続けていた。そんな彼女にとって、今回のような変化をすぐに受け入れることは簡単ではない。しかし彼女は下を向かず、自分が今できることを探し続けた。 突然の事故により大ケガを負った猪狩だが、彼女のまわりの人たちのショックも大きかった。 「家族は(脚が動かなくなることを)事前に知っていました。なので父は特に気持ちを落としていて」 家族間での話し合いは、両親の気遣う優しさと同時に、これから車いす生活が始まることを受け止めなければならなかった。 「メンバーは手術後に説明を受けたらしくて、しゃがみ込んで泣いてくれる子もいました。自分のことのように考えてくれていることが嬉しかったです。みんなの『待ってるからまた一緒にライブしようね』って言葉が支えになりました」 彼女の病室に誰もこない日はなかった。毎日の励ましの言葉がなかったら、こうしてインタビューに応えることもなかったと言葉を漏らす。 プロ野球の始球式や一日警察署長と、入院中も多忙な日々を過ごすも弱音は吐かず、5カ月半の入院期間を経て、9月26日に退院を果たす。 「家族が退院祝いをしてくれました。恥ずかしくて直接は言えなかったんですけど、ちゃんと家族のグループメールで『支えてくれてありがとうございました』と伝えました」 思い出して涙を流しながらも、当時の状況を懸命に伝えてくれた。家族の支えの大切さを改めて見直したという。 「SNSで復帰の報告をした際には、多くの人があたたかい言葉をかけてくれて…そのときもいっぱい泣きましたね」 彼女の人柄と、強い意志が見る人を惹きつける。 退院後は、設備が揃っていた病院では感じることがなかった不便を目の当たりにしたという。障がいを抱える人の目線から世の中の課題を発信していきたいとの意気込みも明かした。 車いすになって約半年が経つが、最初は寝た状態から体を起こすことすらできなかったという。徐々に身の回りのことはできるようになってきたが、まだまだ慣れないことも多い。 「たとえば、新幹線の席に移るとかは高低差があって難しいですね。ソファーとかも。まだ一人でやるのは厳しいので、誰かの力を借りて…抱えてもらって」 ケガをする前とのギャップは健常者が想像するよりもはるかに感じるはずだ。インタビュー中、自宅や移動中の動き一つひとつを細かく思い出しながら話してくれた。 「同じ立場じゃない人たちは、(私たちが)何に困っていて、何ができないのかがわからないと思います。それはしかたのないことだから、助けを求める私たちも『〜してほしい』と的確に伝える必要がありますね」 そう話す猪狩には、工夫をしながら生きていこうとする決意があった。人任せにしないところが彼女の強さだ。

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