Magazine
雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介
- ID陸上でアジア新記録! 東京パラリンピックに挑む
ID陸上でアジア新記録! 東京パラリンピックに挑む
- 今年7月に開催された関東パラ陸上競技選手権大会(東京・町田)の800mを1分55秒65のアジア新記録で優勝。知的障がい者のT 20クラスで東京パラリンピック出場に挑戦する米澤諒の存在を強く印象づけた。 4月に勤務先である株式会社エスプールプラスとスポンサー契約を結び練習環境が整ったばかりだが、早くもアジア新記録という結果を出してみせた。 米澤の才能を最初に見出したのは、米澤が昼間に通っていた知的障がい者施設の職員だった。 「京成佐倉駅から続く坂道をものすごい勢いで駆け上がっている」 その姿が気になった特定非営利活動法人木ようの家の工藤氏は、陸上の練習に誘ってみた。 米澤のデビュー戦は2013年、高校2年生のときに出場した佐倉マラソンの10㎞。1人だとコースの途中で道に迷ってしまうのではと心配した米澤の母は、陸上の県大会で活躍した姉に伴走を頼んだ。ところが米澤は、その姉を振り切るようにゴールまで疾走した。 2014年からはトラック種目に取り組み始め、千葉県障がい者スポーツ大会の800mに出場して3位。全国大会への代表枠2名には惜しくも届かなかった。 翌年の高校4年生の時は、和歌山県で開催された全国障がい者スポーツ大会に800mで出場し、優勝した。また、全国高等学校定時制通信制体育大会では、800mで2分01秒34。銀メダルだった。これは一般の高校陸上部のなかでは目立って速い記録だ。 全力疾走する米澤の姿を目の当たりにして、「親の期待は高まりましたよ」と米澤の父。本人が競技に集中できる環境づくりに両親は奔走しはじめた。 高校卒業後は、佐倉市役所のチャレンジドオフィスさくらで仕事をしながらトレーニングに励んできた。これは2年間、一般企業への就職に向けて取り組む就労支援制度だ。 そして2017年、国際大会を初めて経験。バンコクで開催されたINAS世界陸上選手権の800mは8位に終わった。 「外国の選手はものすごく速かったです。もっと練習をがんばらないと勝てない」と米澤。 それから約1年後、今年6月に開催された関東パラ大会をアジア新記録で優勝する。この大躍進について、現在指導しているニッポンランナーズの萩谷正紀コーチは、「技術的なことも少しづつ改善してきました。(とくに知的障がいの選手では)成績とメンタルはかなり関係があります。800mについては、本人も自信がついたと思います」 今シーズンは本格的なトレーニングの成果が記録につながった。しかし東京パラリンピックには、せっかく自信をつけた800m種目がない。そこで、昨年から400mへの転向を進めているところだ。 「400mを51秒台で走る実力はあるのだけれど、試合でそれを出せていません」 「指導法が難しいです。最初の100mは加速して、中盤はリラックスする。そこからさらに加速していくというような難しい指示では伝わらない。800 m のときもそうでしたが、400mに自信を持てればいいのですが」 得意の800mでは、全力で走りきり、ゴールするとそのまま倒れ込むようなことが多い。それが400mは、余裕を残したままレースを終えてしまう。 米澤は、「400mは最初から最後まで、力を出し切ることがきついです。フライングも心配です」と話す。自分の走力をコントロールできずに悩んでいる。 今年の4月からは、午前中は仕事をして、午後から練習という毎日だ。そして週末は試合か強化合宿ということが多い。障がいの特性から、自分で加減を調整しにくい。すべて全力で取り組むものだから、コーチや家族はコンディショニングにも気を配っている。 米澤の母は、「栄養のことや睡眠時間は気をつかっています。ただもう社会人になったのであまり口出しはしません」と見守っている。 「陸上競技をはじめてから、とてもしっかりしてきました。静岡で行われる強化合宿にも東京駅から1人で行っています」と、米澤の父もその成長を実感。 「家族としても、彼のいろいろな面に気がつきました。アスリートとしてだけではなく、これから先も彼は1人で社会で生きていかなければならない。そういうことも含めて、今はとても多くのことを学んでいると思います」 陸上をはじめたことでコーチや今の職場とも出会い、1人の大人として自立していくすべを得た。「東京パラリンピックに出ます」と答える米澤。知的障がいを持ちながら自分の人生を歩んでいく勇気と自信をスポーツがプレゼントしてくれた。 取材・文・写真/安藤 啓一
- パラリンピックがくれた情熱と商機(2/2)
パラリンピックがくれた情熱と商機(2/2)
- ロンドンで受けた情熱(パッション)を胸に、帰国後の竹内さんは一層熱心に業務に取り組んだ。まずは同社会長・八代英太氏のセミナーを開催し、企業の採用担当者などを集める営業を開始した。しかし、反響はいまひとつ。障がい者アスリートの雇用が本当に知名度やイメージの向上に役立つのか? 採用担当者の疑問符を振り払うことが難しかったのだ。 そんな時、「カミカゼ」が吹いた。2013年9月、2020年のオリンピック・パラリンピック開催地が東京に決定。これにより企業のパラスポーツに対する価値観が一気に変わった。問い合わせは以前の4〜5倍に増えた。一方で、障がい者アスリートのモチベーションも高まり、登録者数も急増した。 とはいえ「カミカゼ」はひとつのきっかけに過ぎない。まだ障がい者アスリートの採用に企業が熱心でなかった頃から、苦心して築いてきた土台があったからこそ「カミカゼ」の恩恵を十分受けることができたのだ。 ようやく事業は軌道に乗った。2018年のリオ大会には、就職支援した障がい者アスリートが多数出場。銅メダルを獲得したウィルチェアーラグビーの選手の半数以上は、同社が就職支援した人たちだった。 現地で毎日応援した竹内さん。「(3位決定戦は)感動しました。スポーツの試合を観て感動して涙を流したのは、あれが初めてだったかもしれない」 そんな竹内さんに事業を進めるうえでの悩みを聞いてみると、意外な答えが返ってきた。 「企業のオフィスが賃貸物件だと、トイレなどが改修できない場合があるんですよ」 就労を望むアスリートがいて、歓迎する企業があるのに、オフィスで車椅子などの利用ができずに採用をあきらめざるを得ない場合があるというのだ。しかし、その場合でも、別の障がい者を当該企業に、車椅子アスリートには他の就労可能なオフィスの企業を紹介する。業界パイオニアの懐は深いのだ。 竹内さんに今後の夢や目標を聞くと「東京パラリンピックに、就職支援したアスリートが50名以上参加することですね」との力強い言葉が返ってきた。また、その中から金メダリストが出てほしいし、いろいろな競技を支援したいという気持ちから、パラリンピック種目の8割に自社が支援したアスリートを出場させたい、ともいう。目標達成の「自信は、ある」そうだ。 竹内さんの目は、その先も見据えていた。東京大会で燃え上がった機運をさらに発展させ、障がい者アスリートにとってよりよい環境をつくり、障がい者雇用への関心を高めたい。そんな希望を胸に抱いている。 竹内さんは「一生、パラスポーツと関わっていきたい」とも語る。趣味の車いすソフトボールも一生、続けたいと話す。関東車椅子ソフトボール協会の代表だから、というよりも、純粋に「楽しい」からだという。 最後に竹内さんは、「障がい者アスリートの多くが練習場所に困っているから、老後は『つなひろワールドアリーナ』とかいうパラスポーツ専門の体育館の管理人でもして過ごそうかな」と、いたずらっぽく微笑んだ。 障がい者アスリートの雇用支援という新たな地平を切り拓いた竹内さん。今後も爽やかな笑みを浮かべながら信じる道を進んでいくだろう。大好きなパラスポーツの発展のために。 取材・文/福田 智弘 写真/つなひろワールド・編集部
- パラリンピックがくれた情熱と商機(1/2)
パラリンピックがくれた情熱と商機(1/2)
- 壮健な体躯、こぼれる笑顔。スポーツマンらしい爽やかな印象の竹内さんが経営するつなひろワールドは、障がい者アスリート雇用支援のパイオニアである。東京オリンピック・パラリンピックの招致を契機に、今でこそ障がい者アスリートに注目が集まるようになったが、ほんの少し前は、メダリストであってもスポンサーがつくどころか無職というケースもあった。就職先に恵まれれば、よりよい環境で競技に打ち込むことができ、社会人としての地位も安定する。試合でよい結果を残すこともできるだろう。 一方、企業にも大きなメリットがある。一定規模以上の企業は、法定雇用率を超える数の障がい者を雇用する必要がある。この法定雇用率は現在2・2%だが、3年後には2・3%に上がる。達成できない企業は不足人数×5万円を毎月納めなければならない。これはかなりの金額だ。障がい者アスリートを雇用すれば、法定雇用率達成に寄与することができるのだ。 企業のメリットはそれだけではない。アスリートの活躍により企業の知名度が上がり、イメージアップも期待できる。さらに、同僚の活躍を応援することで社内に結束力が生まれ、愛社精神や仕事に対するモチベーションも上がるのだという。 竹内さんは、大学卒業後、ザメディアジョンに入社。新卒の採用支援などに従事した。転機が訪れたのは2012年。同社が新規事業として障がい者アスリートの雇用支援企業つなひろワールドを設立。責任者として竹内さんが選ばれたのだ。その時、竹内さんは親会社に籍を置いたまま事業に携わる「出向」ではなく、つなひろワールド専任という道を選んだ。 「あえて退路を断ったんです」と、微笑みを浮かべながら当時を振り返る竹内さん。まさに背水の陣で障がい者アスリート雇用支援の道を突き進んだのだ。 まずはこれまでほとんど接点のなかったパラスポーツの世界を知ろうと、競技の見学から始めた。創業の年、2012年はロンドンパラリンピックが行なわれた年だ。竹内さんは迷うことなく国際線に飛び乗った。 ロンドンで深い感銘を受けた竹内さん。とにかく「楽しかった」と語る。障がい者アスリートに関する事業を立ち上げるのであれば、世界の頂点といえる舞台を肌で感じておくことがいかに大切かを学んだという。 「アスリートたちはこの場に立つことを目標にしているんです」 ロンドンの熱気を受け、初めてアスリートたちと同じ視線、同じ舞台に立てた気がした。
- TOKYO2020をパラ陸上ファンで埋め尽くしたい (株式会社クレーマージャパン)
TOKYO2020をパラ陸上ファンで埋め尽くしたい (株式会社クレーマージャパン)
- テーピングやケア用品などスポーツ医科学の分野を得意とし、体育着や部活のウェア、そしてトレーニング講習会の実施など、学校現場との接点が多かったクレーマージャパンがパラ陸上と関わりはじめたのは、いまから10年ほど前のこと。学生時代に陸上部だった大家秀章さんが、部の先輩で義肢装具士となっていた沖野敦郎さんから「義足の選手と一緒に練習しないか」と誘われたのがきっかけだった。ある日、車いす用ユニフォームを担当していたメーカーが撤退することを聞いた大家さん。「自転車競技ウェアを製作していたので、前傾姿勢や伸縮性など、車いすにも応用できるのではないか」そう考え、協力したいと日本パラ陸連に申し出たのだ。 クレーマージャパンの車いすユニフォームは世界パラ陸上クライストチャーチ2011を皮切りにロンドン、リオのパラリンピックでも採用され、世界パラ陸上ロンドン2017からは立位も含めたすべてのパラ陸上日本代表の公式ユニフォームとなった。単純にMやLというサイズではなく、選手一人ひとりの体型に合わせて丈を詰めたり、ファスナーをとったりという細やかな対応が必要で、ほぼオーダーメイドになることもあるが、選手の声を反映させて進める体制には定評がある。 2020年の公式ユニフォームは、パラ陸上への関心を集めて日本全体で盛り上げるために「デザインの候補をいくつか用意して投票で決めることを検討している」というSAQ・CGP統括部長の青葉貴幸さん。 そもそもクレーマージャパンは陸上との縁が深い。外園隆代表は、現在も大東文化大学陸上部の女子長距離監督。同社の原田康弘さんは100m、200m、400mの元日本記録保持者で、現在は日本パラ陸連のヘッドコーチを務めていて、社員にも陸上経験者が多い。だからこそ、選手に寄り添い、一緒に盛り上げていこうという思いがひときわ強いのだろう。 陸上は会場が大きいこともあり、パラ陸上の日本選手権でも空席が目立ってしまうのが現状だ。東京パラリンピックでは、新国立競技場に多くの観客が入ったなかで気持ちよく競技してほしいという増田明美日本パラ陸連会長の想いに同社も賛同。陸上スクールにパラアスリートを招いたり、国体など健常者の大会でパラ陸上に触れる機会を増やすなど、パラ陸上の認知度を上げるための普及活動を独自に開始している。 「私たちはただのスポーツ用品メーカーではない」――よりよいスポーツ環境をクリエイトすることを企業理念に掲げるクレーマージャパンは、2020年に創業30年を迎える。東京パラリンピックに向けて、公式ユニフォームの提供にとどまらず、ケアやトレーニングなど技術面でのサポートにも着手。新国立競技場をパラ陸上ファンでいっぱいにするため、最強の裏方集団は進み続ける。 取材・文/山本千尋 写真/依田裕章・クレーマージャパン
- 2020年東京パラリンピックに寄せる熱い想い(日本パラ陸上競技連盟 理事長:三井利仁)
2020年東京パラリンピックに寄せる熱い想い(日本パラ陸上競技連盟 理事長:三井利仁)
- アメリカンフットボールの選手として活躍していた三井さんが障がい者スポーツと出会ったのは、大学の実習でのこと。当時、日本で最先端の設備を持っていた施設で、三井さんはカルチャーショックを受けたという。 「障がい者がリハビリをやっている姿は衝撃的でした。自分がまったく知らなかった世界。彼らを見てすぐに、もっと自分が役立つことがあるんじゃないかという気持ちが芽生えました」 スポーツを楽しみながらリハビリができる方法はないかと考えた三井さんは、東京都多摩障害者スポーツセンターに就職。まもなく車いす陸上の選手からコーチングを依頼された。そして、27歳のとき、本格的に障がい者スポーツのコーチになった。 「当時はどこの大学も実業団も、パラは相手にしてくれませんでした。だったら自分がやったほうが早いと。運動生理学やバイオメカニクスは勉強していましたし、若いスタッフとすべての分野をカバーしてコーチをしました。国内でそこまでやっている人間はいなかったと思います。やがて全国から車いすの選手が集まるようになり、質はどんどん上がっていきました。いろいろな協力を得て、練習も毎日、朝晩やっていましたね」 タイミングも良かった。長野パラリンピック開催が決まり、世間の関心が高まる中、国からの補助も受けられるようになった。公共施設が使えるようになり、サポートスタッフも充実。 「長野がなかったら成長していなかったと思う」という三井さんは、アイススレッジスピードレースの監督を務め、日本チームを多数のメダル獲得に導いた。 コーチとして活躍していた三井さんに転機が訪れたのは、2000年シドニー。コーチをしていた土田和歌子選手がレース中に転倒し、他の選手とともにゴールできなかった。三井さんは再レースを要求したが、結果的に受け入れられず土田選手は途中棄権という裁定に。 「私自身、正直、国際ルールに精通していたわけではありませんでした。知っていたら結果が違っていたと思ったとき、もっとルールを勉強しなきゃいけないと痛感しましたね。現場で英語でケンカできるくらいにならなきゃいけないと」 30歳を過ぎ、コーチを続けながら三井さんは英語とルールを懸命に勉強し、国際審判員の資格を取った。すると、世界各地の大会から審判のオファーを受けるようになった。アジアのキーマンとして一目置かれるようになり、2008年の北京で日本人としては初めて審判員として現場に立った。 その後、パラスポーツの国際化を担える人材として白羽の矢が立ち、三井さんは2014年、パラ陸連理事長に就任。2年後に迫った東京大会に向けて多忙な日々を送っている。 「パラリンピックに携わるのは東京で7回連続になりますが、その中で一番いい大会ができるんじゃないかなと思っています。ロンドンを超えたい、ロンドンの超満員を東京で再現したいという思いは強いですね。今のところ順調です。選手のモチベーションも日に日に高くなっていますし、結果も出ています。特に若い選手が予想以上にがんばってくれている。大学が障がいのある学生を受け入れてくれたり実業団チームが採用してくれたりと、健常者と一緒に質の高いトレーニングができるので記録も良くなっています。こうした環境がもっと増えてくれればいいなと思っています」 パラ陸連としても、強化・普及に向けての活動を精力的に行っている。大学や企業にパラ選手の入部を依頼したり、強化スタッフが全国に足を運んで子どもたちを陸上競技に誘ったり。 「2020年が終われば、当然、国や企業のサポートは変化すると思います。だからあとは自己努力。パラリンピックを目指して強くなる選手は間違いなく増えるわけですから、上がったものをどうやって維持し、さらに上げられるかが問題です。そして、パラリンピックを間近に見た人の中から、あんな選手になりたい、自分にもできるんじゃないかと思う人が必ず増えてくる。われわれがやらなきゃいけないのは、そういう選手の受け皿を作ること。選手の選択肢を増やすことが大事ですし、それは間違いなく増えると思います。2020年のあとをネガティブにとらえるのではなく、逆にチャンスなんだと。私はそんなに捨てたもんじゃないと思っています」 寝る間も惜しんで各地を飛び回る三井さんの生活は、まだまだ続く。 文・取材/編集部
- パラアスリートであること そのプライドを語る(3/3)
パラアスリートであること そのプライドを語る(3/3)
- ̶レーム選手は、 15年の世界選手権で8m 40㎝という世界記録をマークし、16年のリオ五輪出場を希望されていましたね。しかし、義足の優位性がないことを証明しなくてはならず、実現しませんでした。2020年の東京でも、オリンピック出場を目指していますか。 レーム オリンピック出場は、とてもチャレンジングなことです。今でも国際陸上競技連盟とは、ずっと話し合いを続けています。リオ大会後もあらゆる調査や協議を進めてきました。 ただ、重要なのは、私はパラリンピアンとして誇りを持っているということです。オリンピック出場を目指していたころ、いろんな噂が流れました。マルクスはもう、パラリンピックには興味がなくオリンピックだけに出場したいのではないかと。それは完全に間違いです。私がオリンピックに出場したいのは、パラアスリートがここまでできるということを証明したいことが一番の理由です。オリンピックは素晴らしいスポーツの祭典です。でも、パラリンピックも同様です。私たちパラアスリートは、それを体現しているのです。 伊藤 それはまったく同感ですね。 レーム 将来的なビジョンとして、オリンピックとパラリンピックはもっと近づいたらいい、と思っています。今私が夢見ているのは、オリンピックが終了する日にリレーをすること。4x100mで2人はオリンピアン、2人はパラリンピアンのミックスリレーです。これをオリンピックとパラリンピックをつなぐ新種目にできないか。さらに、オリンピックの聖火をそのままパラリンピックの聖火台に灯して開幕することができたら、と強く思っています。 伊藤 つまり、オリンピックの閉会式と、パラリンピックの開会式をつなぐということですか。それが実現したら、すごいなあ。 レーム そうです。私は、オリンピックとパラリンピックを完全にひとつにするということはありえないと思っています。オリンピックとパラリンピックでは価値や意義が異なります。パラリンピックとして存続することはとても重要なのです。統合することがゴールではありません。ただ、オリンピアンもパラリンピアンも「スポーツを愛する者」というところでは、同じだと思っています。だからこそ、オリンピックからパラリンピックにつなぐ、開催時期を含めた距離をもっと近くすることができればいいな、と思っているんです。もし実現したら、私はスタジアムの観客の一人として自分の夢がかなったと、涙を流すことでしょう。 伊藤 私もその時には一緒に泣きたいですね。その夢に一番近いのがマルクス選手なんです。オリンピックとパラリンピックの架け橋になれる、稀有な存在ですよ。その彼が、パラリンピアンであることを誇りに思い、すべてのパラアスリートをリスペクトすると言う。そういうマルクス選手を、私は心から誇りに思います。同じ舞台で戦う人間として、今日また心新たに、これから競技に邁進できると感じました。ありがとうございます。 レーム こちらこそ、ありがとうございます。2020年の東京パラリンピックのスタジアムで、最高のパフォーマンスを世界に見せつけましょう! 取材・文/宮崎 恵理 写真/吉村もと
- パラアスリートであること そのプライドを語る(2/3)
パラアスリートであること そのプライドを語る(2/3)
- ̶パラリンピックの金メダルの意義とは、なんでしょうか。 伊藤 自分を支えてくれた人への恩返しができたことです。でも、私は金メダルを取るまでより、獲得後こそパラアスリートとして果たすべき責任が生まれるのではないかと思っています。勝つための努力よりも、負けるまで全力を尽くし続ける努力が重要で、自分の競技人生であれほど辛いものはなかった。 レーム ロンドンでの銀メダルは、その責任が果たせたということになるのですか。 伊藤 はい。全力で走って負けましたから。 レーム 最初にロンドンで金メダルを取った時のことはとてもよく覚えています。表彰台の一番高いところに上がって、国旗が掲揚され国歌が流れる。私の人生で、あれほど感動したことはありませんでした。でも、これは私一人で成し遂げられたものではない。家族をはじめいろんな人に連れてきてもらったようなものです。その後は非常に大きなプレッシャーがありましたね。まわりから勝てて当たり前だと言われてきました。 リオパラリンピックでは、前半3回の試技で失敗し、その時点で順位は3位以下でした。うまく跳ばなくてはいけない、うまく見せなくてはいけないと思いながら跳んでいたんです。後半が始まる前のインターバルでそれではいけないと考えを変えて、後半の跳躍に臨んだら、やっとうまくいきました。 伊藤 2度目の金メダルを獲得した姿を、僕は解説者としてスタンドから見ていました。 レーム 自分のモチベーションは、時とともに変化しています。10歳の義足の男の子がリオパラリンピックの時に「ブラジルには行けないけど、テレビの前で応援しています」と言ってくれました。彼のお母さんは、私が彼の前向きに生きるモチベーションになっていると言っているけれど、実は反対で、彼こそが私にとって大きなモチベーションになっているんですよ。 伊藤 その少年は、マルクス選手が義肢装具士として担当されているお子さんですか。 レーム そうです。彼は7歳の時にトラックに轢かれて両足を切断しました。当時、もう歩くことは難しいと言われていましたが、今は学校に義足で通学し、レバクーゼンで水泳の選手として競技に取り組んでいます。ドイツにはカーニバルがあってハロウィーンのように衣装を身につけるんですが、彼は海賊になりたいと言うので、私は彼に木の義足を作ってあげて、それでパレードに参加しました。 伊藤 キャプテンクックみたいですね。 レーム そうです。彼はカーニバルでは主役級の人気者でした。 伊藤 それは素晴らしい! マルクス選手の優しさが伝わってきますね。 レーム 人は自分にないものばかりに目がいってしまうものです。自分にあるものへの感謝を伝えていきたいですね。 伊藤 日々、ベストを尽くす姿を見てもらうことで、子どもたちに何かを感じてもらいたいね。
- パラアスリートであること そのプライドを語る(1/3)
パラアスリートであること そのプライドを語る(1/3)
- 2018年8月25日。ロンドン、リオパラリンピックの金メダリスト、ドイツのマルクス・レームは、ベルリンで開催されたヨーロッパ選手権の走り幅跳びで8m 48㎝を跳び、1カ月前に日本で3年ぶりに出した8m47㎝の世界記録を更新した。 伊藤智也は、2008年北京パラリンピックで4 0 0 m、800mで金メダル、12年のロンドンパラリンピックでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得したが、その後現役を引退。その伊藤が今夏、復帰した。 ̶ ̶レーム選手はウェイクボードの練習中にボートのスクリューに右足を巻き込まれて切断。伊藤選手は20年前に多発性硬化症を発症して車いす生活に。ともに障がいを負ってから陸上競技の選手としてパラリンピックに出場されていますが、なぜ、陸上だったのでしょう。 伊藤智也(以下、伊藤) 私の場合は、入院中に間違えてレーサー(競技用の車いす)を買ってしまったというのがそもそもの始まり(笑)。障がい者スポーツがあることも知らなかった。かっこいいという理由でレーサーを買ったことで陸上を始めました。 マルクス・レーム(以下、レーム)ははは、面白いエピソードですね。私の場合は、子どもの頃に陸上競技をしていた時期がありました。切断後、水中で使える義足を使ってウェイクボードをしたり、トランポリンなども挑戦していました。ある日、イベントでトランポリンを披露したら、バイエル04レバクーゼンというスポーツクラブの人が、私を招待してくれたんです。それで事故後初めて陸上をやりました。 ̶ ̶義足で、あるいはレーサーで初めて陸上をやってみた印象はどんな感じでしたか。 伊藤 初めてレーサーに乗ったのはまだ入院中でしたね。田舎だから車も少なく自由に走ることができました。ある日、自転車に乗るおばあさんを追い越したんです。病院用の車いすでは、自転車を追い越すことは難しい。その体験で、走るのは面白い、と感じました。 レーム 初めて義足をつけて走った時には、顔に風が当たるという感触を味わえたことが印象的でした。コーチに言われて、試しに走り幅跳びをしたら5m15㎝。日常用の義足でしたが、ドイツ国内の記録を超えていると言われて、自分には走り幅跳びのポテンシャルがあることを実感したのです。伊藤さんが復帰を決意されたきっかけは、なんだったのですか。 伊藤 埼玉県にある工業デザイン工房「RDS」が「チーム伊藤」を結成し、体やフォームにぴったり合った特製の専用車いすを開発してくれる、というオファーをいただいたことがいちばんの理由ですね。もともとモータースポーツの技術開発に携わるRDSが、パラスポーツの開発環境に寄与しようという。前代未聞ですよ。そこに意義を感じて、やったろうかい! と。 ̶ ̶お二人は、義足とレーサーという競技用の用具を使用しています。その用具に体を適応させるためにいろんな努力をされていると思いますが、使い方を含めて、どんなことに力を入れているのか、教えてくだい。 伊藤 レーサーは、人間の体の進化を凌ぐ速さで進化します。真摯に挑戦すれば、少しずつでも人間の進化、タイムにつながっていく。その探求を怠ってはいけないと思っています。 レーム おっしゃる通りです。私たちにとってテクノロジーは不可欠です。義足を装着せず1本足で8m超の記録を出すことはできません。同時に私たち障がい者にとっては、義足は体の一部なんです。レーサーや義足だけに注目されがちですが、アスリートがそれを自分の体として受け入れて、初めて使いこなすことができる。私が特に力を入れているのは、義足でバランスを取ること、義足から受ける感触を自分自身がしっかり受け止めること。ジャンプすることで感覚を確認しています。
- ラグ車に懸ける! (メカニック:三山慧)
ラグ車に懸ける! (メカニック:三山慧)
- ラグ車とは、ウィルチェアーラグビーの競技用車いすを指す。日本選手はニュージーランドの〈メルローズ〉、アメリカの〈ベセコ〉、ドイツの〈シュミッキング〉のいずれかを愛用する。これらは、すべて株式会社テレウスが輸入・販売している。テレウスのエンジニアとして、日本チームのメカニックとして活躍するのが、三山 慧だ。 大学1年生の交通事故で入院していた時に、現在、日本代表強化指定選手として活躍する官野一彦に三山は出会った。官野が始めたウィルチェアーラグビーを見るため体育館を訪れた三山は、その激しさに目を奪われた。 「選手がすごい勢いでぶつかっている。いくらぶつかっても選手たちは笑顔だから、ああ、人は全然問題ないんだな、でも車いすは衝撃で壊れないのかな、と道具に目がいった。そもそも、ラグ車って、かっこいいじゃないですか!」 事実、練習中であれ試合であれ、衝撃でタイヤはすぐにパンクする。その都度、タイヤを交換して急いで空気を入れ、次に備えなくてはいけない。 2007年、オーストラリアで開催された大会に、ボランティアスタッフとして参加。そこで、日本チームのメカニックを務めていたニュージーランド人のマイク・ターナー氏に出会う。 「パンク修理は、メカニックの仕事のほんの一部だということがわかったんです。マイクは、試合が終わると丹念に1台ずつ点検する。破損している部分はもちろん、壊れそうなところを見つけてあらかじめ補強や修理をしておくんですよ。だから、試合中はパンク以外の大きなトラブルがない。メカニックの仕事ってこれか! と」 ターナー氏の仕事ぶりを目の当たりにし、彼が勤務する〈メルローズ〉へのメカニック修行を決意。半年間ニュージーランドで学んだ。帰国後日本チームのメカニックとなり、08年の北京パラリンピックに帯同した。 現在は、大会期間中の点検・整備・修理だけでなく、受注や中古品の改造なども手がける。 「オーダーは、単に採寸すればいいというわけじゃないんです。9割がカウンセリング。どんなプレーがしたいかを徹底的に話し合います」 どれだけ情報を引き出すか。相手が伝えたいことをどれだけ正確に汲み取れるか。そこを間違えると、選手が望むものとは違うラグ車になってしまう。 選手とのコミュニケーションから、こんな設定ではどうかと提案することもある。 「たとえば、日本のエースの一人、池透暢は、試合開始のティッピングをします。ティルティング(片方の車輪を持ち上げるテクニック)が絶対に必要なんです。ラグ車が斜めになっても床と接触させないためには、ウイングの高さを床から4㎝で設定する必要がある。それ以上では、重心が上がって不安定になるから、4㎝が理想なんです」 選手とメカニックのコミュニケーションによって、絶妙なバランスを割り出すのだ。 「ワッシャーは厚さ1㎜ 単位で高さを変更できる。会場の床の質によっても調整しますよ」 メカニックの仕事は、日々勉強だという。アルミニウムという素材ひとつとっても、その種類が多く、溶接のための電流を間違えるだけで破損のリスクにつながってしまう。 「代理店だから修理できませんじゃ許されない。そこはすごく大事にしたいと思っている」 カーボンやマグネシウム、チタンなど新素材のラグ車が増えてきた。淡々と新しい修理方法の勉強を重ねていくだけだ。 16年リオパラリピックで日本が銅メダルを獲得した時には、選手と一緒に男泣き。今年の世界選手権で優勝した時には、当然だと思っていたと話す。 「2020年東京がやってくるけれど、さらにその先、どんな選手もベストパフォーマンスが発揮できるように。それを道具面からずっとサポートしたいと思っています」 取材・文/宮崎 恵理 写真/吉村もと
- 町工場のポテンシャル(クリスタル産業株式会社)
町工場のポテンシャル(クリスタル産業株式会社)
- アンプティサッカーで、フィールドプレイヤーが使うクラッチ(杖)の正式名称は、「エルボークラッチ」と言い、考案したA・R・ロフストランドJrにちなんで、「ロフストランドクラッチ」と呼ばれている。1948年にアメリカで特許を取得しており、歴史は古い。もちろんこれは、アンプティサッカー用ではなく、障がい者のために考案されたものだ。 日本のアンプティサッカーで使用されるロフストランドクラッチで9割ものシェアを握っているのが、名古屋に本社・工場を置くクリスタル産業だ。どういった経緯で、アンプティサッカーで使われるようになったのか、社長の上村秀信さんに聞いてみた。 「4、5年前に某義足メーカーの社長から連絡があって、アンプティサッカー協会が体験用にロフストランドクラッチを買いたいと言っているけど安くならないかと。うちの倉庫には、機能的にはまったく問題はないが傷が付くなどして商品として出荷できないものがあったので、それをあげるよと言って、協会に無償で送ったんです。そうしたら代表監督の杉野さんから直接お礼の連絡をいただいて、11月に日本選手権があるというので観に行ったら、ほとんどの選手がうちのクラッチを使っていてびっくりしました」 当初は、一般用の高さ調節機能が付いたモデルを使っていたという。調節機能は便利な反面、その機能自体が徐々に劣化するという弱点がある。重量的な問題や耐久性など、アクティブなアンプティサッカーで使用するには課題もあった。 クリスタル産業は、その当時から、オーダーメイドのロフストランドクラッチも扱っていた。高さ調節機能を必要としない人向けのモデルで、より軽量で耐久性が高いという特徴があった。 「高さ調節ができるタイプは、機能の耐久性が弱点だったので、障がい者や高齢者向けにオーダーメイドを推奨していたんです。そうしたら、どんどん売れるようになった。実は、アンプティサッカーの人たちが使ってくれていたんです」 現在、アンプティサッカーで使われているクリスタル産業のロフストランドクラッチは、特別なモデルではない。お年寄りや障がい者に、使い勝手がよく長く使えるものを提供したいとの想いで安全性を重視して開発したものが、アンプティサッカーでも使用できる高い性能を備えていたということだ。耐久性にはこだわっており、素材のアルミ合金は金属バットにも使われている材質に近い種類のものを使用している。詳しくは企業秘密だそうだ。 クリスタル産業の歴史は、先代の上村真一氏が、1965年にステンレス鋼管を輸出するクリスタル貿易商会を設立したことに始まる。 ロフストランドクラッチを作るきっかけは、55年ほど前。当時はまだ輸入品しかなかったものを「パイプのことならクリスタルがよく知っているから作れないか」という話がきたことだという。ただその時は質のいいアルミのパイプがなく、外国のクラッチを参考にしながら試行錯誤して開発したのだそうだ。 会社の沿革を見ると、1975年に「長さ調節可能スキー用ストックを開発し製造開始」とある。これはいったいどういうことなのだろうか。 「今では当たり前になっていますが、長さを調節できるストックの回して固定する機能は、父が考案して構造的な特許を世界で初めて取りました。ヨーロッパでは、長さが調節できるストックをスキーのレンタルに使っていて、オーストリア、ベルギー、ドイツなどに輸出していました。現在のラインナップの長さが調節できる杖のなかには、同じ構造のものがあります」 真一氏は、かなりのアイデアマンだったようで、杖や車いすに関する数々の特許を取得している。その優れた開発力が、現在の製品にも受け継がれていることがうかがえる。 取材・文/辻野 聡 写真/辻野 聡、吉村もと
- 世界が認めた車いす(2/2)
世界が認めた車いす(2/2)
- 10年前、松永製作所のスポーツ用車いすに転機が訪れた。スポーツ用車いすは、ずっとオーダーメイドでやっていたが、売れなくなって会社もあまり力を入れていなかった。 しかし、他社がスポーティーな車いすを展開し始めたのを契機に、松永製作所でもスポーツをする人のため、日常用の車いすを開発するプロジェクトが始まった。 そして新たな出会いがあった。元車いすバスケットボールの選手が入社してきたのだ。松永製作所では、それまでテニス用の車いすを作っていたが、バスケットボール用も作り始めた。最初は苦労もあったようだが、徐々にいいものが作れるようになった。現在、バスケットボール用車いすのシェアは、半分近くを占めている。 松永製作所のスポーツ用車いす、MPにはアジャスト機能が付いているのが特徴だ。この機能は、初めて車いすを使う人は自分に最適なポジションがわからないので、後で調整ができるようにと考えられたもの。前座高、後座高、車軸位置を調整することができる。コストがかかるので他のメーカーでは採用していない。実は、このアジャスト機能が、思わぬ性能をもたらした。 この機能にはネジで留める部分があるが、ここに遊びが生まれて、車いすがしなるというのだ。このしなりによって力がうまく逃げるので、速いスピードを保ったまま曲がることが可能になった。自動車のサスペンションと同じ原理だといえばわかりやすいだろう。 この特徴は意図して開発されたものではないが「自分たちのエゴだけで作るのではなく、実際に体験して、選手の声をフィードバックして開発する」という基本ポリシーにより、テスト現場で見い出だされたものだ。 この他にも、キャンバーソケットを交換することで車輪のキャンバー角度を変更することが可能で、車輪とボディとの距離調整機能も搭載されている。メンテナンスがしやすく、パーツ交換ができ、微調節可能なMPの特徴が、イギリスチームにも評価されたのだろう。 「世界選手権やパラリンピックの決勝で、日本チームと相手チームが全員松永の製品を使って、メダル争いをしてくれたら最高ですね」(松永社長) 2年後の東京で、松永製作所のMPが躍動する姿を見るのが、今から楽しみだ。 取材・文/辻野 聡 写真/辻野 聡、松永製作所
- 世界が認めた車いす(1/2)
世界が認めた車いす(1/2)
- 2018年8月、世界車いすバスケットボール選手権大会が行なわれたドイツで、MPのブランドで知られている車いすメーカーの松永製作所が、イギリス代表チームとオフィシャルサプライヤー契約の調印式を行なったという発表があった。契約は4年。つまり東京パラリンピックでは、イギリス代表チームは松永製作所の車いすを使用するということだ。 日本製の車いすを、海外の代表チームがオフィシャルサプライヤーにするのは異例のこと。しかもイギリス代表チームは、松永製作所と海外の2メーカーで、スピードを計測するなどのテストを行ない、その結果、松永製作所の車いすを選択。日本メーカーの車いすが、いちばん優れていたということだ。 世界に認められた松永製作所とは、どういった会社なのだろうか。 松永製作所は1974年に車いすメーカーとして創業した。現在は車いすの他に、歩行器、杖、ストレッチャー、入浴補助用具などを製造している。 「今でこそ障がい者に対する差別はなくなってきましたが、創業当時は普通に差別があった時代。創業者の父、松永茂之は、自分の力で何とか助けたいという思いで、車いすを作り始めました。しかし、車いすのことを詳しく知らなかったので、いろいろな所に聞きに行ったり見に行ったりしたらしいです。実はスポーツ用車いすも創業当時から作っていました。父は野球をやっていたこともあり、車いすバスケの人たちと知り合って、体が不自由になって本来なら落ち込んでしまうところを、力強く生きていることに感銘を受けたそうです」 そう話してくれたのが、現社長、2代目の松永紀之さん。車いすメーカーとして創業した松永製作所だが、最初から順風満帆というわけではなかった。子どもの頃はかなり貧乏だったという。 「私はまだ3、4歳だったので記憶にありませんが、親戚が一家心中しないかと心配だったそうです。最初はオーダーメイドでやっていましたが、だんだんと病院でも玄関に車いすを置く時代になってきたので、カタログを作って量産を始めるようになりました。1980年代になって、お年寄りも自立をするために、衰えた身体機能を道具で補うことが大切だという考え方が浸透して、徐々に車いすを使う方が増え、私どもの会社も成長することができました。しかしながら、根っこの部分は、父が創業した頃と変わっていません。自宅と工場が一緒だったものですから、私が子どもの頃は車いすの人たちに可愛がってもらっていました。しかし残念なことに、車いすの人が差別的なことをいわれるのを聞いたこともありました。差別をしてはいけないし、区別もなくしたい。障がいをもっているから活躍できないのは社会がおかしい。その人の個性に合った適切な環境を用意できれば世の中に貢献できる。そんな世の中を作るお手伝いができれば、という思いで今までやってきました」