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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(1/2)

【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(1/2)

「東京2020パラリンピックにリポーターとして携わりたいです」 力強く伝えるのは、昨年の事故により車いす生活を余儀なくされた猪狩ともかだ。 猪狩はこれまでパラスポーツを中心にさまざまなイベントに参加してきたが、リポーターを目指す気持ちを強くしたのは、そうしたイベント会場での出会いがきっかけだったと言う。 「仕事をしていくなかでのステキな出会いが本当に多くて。あるとき、オリンピックの通訳をしていた方と知り合う機会があったんです。英語ができるようになったらリポーターも夢じゃないねと言われ、目指しはじめました」 なんともう実際に英語の勉強に取り組んでいるという。すばらしい行動力の秘訣を聞くと 「その通訳の方が教材を取り揃えてくれました。自分で動き出すことができない性格なので、まわりの後押しでがんばれているところはあります」 と、おどけた様子で答えてくれた。それでも日々コツコツと続けることは簡単ではない。謙虚の裏の努力が滲む。 同時に、パラスポーツに参加することも積極的にこなしていることも印象的だ。去年からボッチャやテニス、バスケなど幅広く体験をしてきたが、今後も挑戦あるのみだと意気込む。 「なんでもそうですけど、回数を重ねれば重ねるほどおもしろさって出てくるものだと思います。特にテニスは以前厳しい指導を受けたので、燃えていますね。あとは水泳!  やりたいと口にしながらもまだできていないので、これからもチャンスを狙っていきたいです」 2019年3月、チェアスキー選手であるパラリンピアン野島弘さんとイベントに登壇した際には、チェアスキーにも誘われたようだ。今年中に体験をしてみたいと目を輝かせていたが、この好奇心こそが最大の魅力だろう。 続いて、生活の変化についても聞いてみた。アイドルとしてのライブ活動が減ったが、パラスポーツ関連の取材は依然として増えているそう。活躍の場も、時間帯も、人間関係も、すべてがガラリと変わろうとしている毎日について尋ねると、「今のお仕事はだいたい朝が早いので、必然的に寝るのも早くなって。生活は規則正しくなってきたように感じますね。そこはとても助かっています!」と楽しんでいるよう。「追い込まれないとできない人間」だと笑っていた。
ボールを追いかける楽しみと車いす体験の広がり

ボールを追いかける楽しみと車いす体験の広がり

元気いっぱいのジュニアたちが集まった「中外製薬車いすテニスキャンプ2018」は、千葉県勝浦市で行なわれた。悪天候が予想された初日は体育館、晴れ間も出た2日目は屋外コートが舞台だ。 車椅子のジュニアだけでなく健常者も参加して、会場は終始和気あいあい。レベル別のテニスレッスンの後は、両者がボールを打ち合ったり、ダブルスを組んでミニゲームをしたり。車椅子に乗った健常者に障がい者がスピーディな動かし方を教える場面もあった。 このキャンプの特徴のひとつは、テニスはもちろんのこと、他にもさまざまなスポーツがプログラミングされていることだ。ボールを使ったさまざまなゲームやチーム対抗戦、全員参加の車椅子競争、バスケットボールなど。ゲスト参加した元横浜ベイスターズ投手の小杉陽太さんがキャッチボールを指導すると、コツをつかんだ参加者はすぐさま試合形式でソフトボールを楽しんだ。 スポーツはやっぱり楽しい!カラダを動かし尽くしていい汗をかきまくった2日間だった。 車椅子ソフトボールといえば、健常者も障がい者も共に楽しめるスポーツとして最近注目の競技だ。今回、明治大学商学部の出見世信之ゼミでは、10月に東京で開催された「中外製薬2018東京国際車椅子ソフトボール大会」を多くの人に知ってもらうために、ゼミ活動の一環として体験会を企画。同大学の学生を中心に約30人が参加した。 出見世ゼミの研究テーマは「よい会社ってどんな会社?」。CSR(企業の社会的責任)や企業倫理の視点を交えて、社会にとってよい会社とは、を常に考えているゼミだ。 「実際にイベントを開催する場面では、どんな苦労があるのかをゼミ生たちも体で感じたと思います」(出見世教授) ゼミ生の森下実さん(商学部3年)は「会場の確保や参加者の募集など苦労もしましたが、参加している人たちの笑顔を見て、やってよかったなと思いました」と振り返っていた。 体験会は、日本代表選手の石井康二さんや小貫怜央さんらもサポート。参加者からは「スポーツはそんなに得意じゃないけど、すごく楽しめた」「ちょっとしたコツをつかめば誰でもできますね」といった声が聞かれた。 取材・文/編集部 写真/辻野 聡、一般社団法人日本車いすスポーツ協会、編集部
自分自身に問いかける「WHO I AM」(太田慎也さん)

自分自身に問いかける「WHO I AM」(太田慎也さん)

「W H O I A M」は、2016年にスタートし、今年で3シーズン目。番組立ち上げから制作に携わってきた太田慎也さんは、WOWOW世代。中学生の時には世界のスポーツに夢中になっていた。だから、同志社大学を卒業すると、WOWOW第一志望で就職した。 2013年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定し、社をあげて何ができるかを議論していた時に持ち上がったのが、パラリンピックのスーパースターをドキュメンタリーで描くこと。そのプロデューサーとして太田さんが抜擢されたのだった。 「当時、パラリンピックはおろか、障がい者に接することもなかった。だから会社から打診された時に、ものすごく微妙な顔をしたと思いますよ」 番組準備のため、2015年に初めて訪れた水泳の世界選手権で、衝撃を受けた。 「選手たちが義足を放り投げるようにして、プールに飛び込んでいる。着用しているジャージには、国旗が縫い付けられていた。これはまさしく世界最高峰の舞台なんだって」 目を引いたのは、ブラジルのダニエル・ディアス。レースが終わるとメディアが一斉に彼の元に駆け寄り、コメントを求めた。 「テニスのロジャー・フェデラーと変わらない。世界的なスターだと実感しました」 上肢・下肢に障がいがあるディアスの笑顔は、キラキラ輝いていた。オレは、彼のように輝いているか。パラアスリートを間近に見て、自問自答した。 「シリーズタイトルを議論している時、英語が堪能な後輩プロデューサーが、選手に〝This is WHO I AM(これが自分だ)〞と宣言させたい、と。それで決まりました」 初めてダニエルに挨拶をした時に、握手しようと右手を出して思わず引っ込めてしまった。 「ダニエルの腕が短いことで、反射的に〝いけない〞と。今なら、短い腕を両手でつかんで握手する。でも、あの時躊躇した自分がいた。それは日本に暮らす多くの人の、ある意味偽らざる姿だと思ったんです」 それを、この番組で変えていこう。ディアスが出発点だった。 番組制作で重視しているのは、障がいをことさら強調しないこと。選手たちが、いかに自分と向き合い、人生やスポーツを楽しんで世界の頂点を目指しているか。そこにこそ、フォーカスしたい。 「シーズン1は、8人の選手のロード・トゥ・リオ。生い立ちからスポーツとの出会い、そしてリオに向かって何に取り組んでいるかを、王道のスタイルで作りました」 難しかったのは、シーズン2。パラリンピックの翌年で、選手たちはそれぞれ故郷に戻り リラックスしている。アスリートとして最前線を突っ走っている時期ではない。 「でも、だからこそ、彼らの真の生き様に迫れたと思う」 国際パラリンピック委員会(IPC)との共同プロジェクトであったことは、選手へのアプローチを後押ししてくれた。それでも難航したものもある。 「ボスニア・ヘルツェゴヴィナのシッティングバレーボール選手、サフェト・アリバシッチには、ボスニアのパラリンピック委員会経由でようやく教えてもらった連絡先に電話をかけたら本人の携帯で、英語が通じない。ジャパン、テレビくらいはかろうじて理解してくれました」 ボスニアに詳しい専門家に相談し、連絡する道筋を見つけて実現にこじつけた。 取材するうえで心がけているのは、選手との距離感だ。探りながら、かつ懐に飛び込まなければ、番組は完成しない。 「じっくり、選手と一緒に番組を作っていく感覚ですね」 2020年東京パラリンピック開催までの5シーズン、計40人のトップアスリートに迫る。W O W O W は有料放送だが、「WHO I AM」の過去のシーズンは簡単な登録だけで無料で視聴できる。 「作って終わりじゃない。ここが始まりだと思っています。一人でも多くの人にパラリンピックの、パラアスリートの素晴らしさを知ってもらいたい。それは、この番組を製作する者のミッションだと思っています」 取材・文/宮崎 恵理 写真/WOWOW・編集部
3度目のスタートライン(パラトライアスリート:土田和歌子)

3度目のスタートライン(パラトライアスリート:土田和歌子)

土田が初出場したパラリンピックは、1994年リレハンメル冬季大会だ。スレッジと呼ばれるソリを使用するアイススレッジスピードレースの選手だった。4年後の長野大会では金2個、銀2個と躍進し、日本のメダルラッシュに貢献した。 長野大会の後、冬季パラリンピックの種目からアイススレッジスピードが外れる。転向したのが陸上競技だった。 シドニーからリオまで、5大会連続でパラリンピックに出場。アテネ大会の5000mで金メダルを獲得し、夏冬の金メダリストとなった。以来、2017年までパラ陸上の第一線で活躍してきた。 リオパラリンピック閉幕後、喘息が発症した。治療目的で水泳を始めたことがきっかけになった。クロストレーニングとして、トライアスロンに挑戦してみよう。最初はそんな軽い気持ちだったという。2017年4月のアジア選手権で優勝し、その結果から横浜の大会の出場権が得られた。 「なぜ、陸上をやめるのか、陸上と並行してトライアスロンをやってはどうか。そんな声をたくさんいただいた。今まで続けてきたことの成果です」 陸上のトップ選手から、トライアスロン1本に専念する。覚悟を決めるのは簡単ではなかったはずだ。 「確かに葛藤はありました。最初はクロストレーニングとしてのトライアスロンが、どう陸上に効果があるかということを検証したいと思っていました。でも、続けるうちにどんどんのめり込んでいったんです」 並行させる選択肢がなかったわけではない。 「ハンドバイクとスイム。取り組みたいことが3倍になったから、中途半端なことはできません。20年続けてきた陸上は、達成感もあった。よし、次に行こうって」 レーサー(陸上競技用車いす)は、それこそ目をつぶっていても操作できる。でも、スイムとハンドバイクは、まだ発展途上だと感じている。 「というより、競技者としてはビギナーですよ(笑)」 初めてハンドバイクに乗った時には、カーブを曲がることすら難しかったという。 無意識に操作できるまで、徹底的に乗り込むしかない。 本格的にトライアスロンを始め、調達したのはイタリアの「マッディライン」というブランドのハンドバイクだ。 「ハンドルに対する体の位置、背もたれの角度など調整の幅があり、その調整がしやすいこと。そこを重視して選びました」 ランでは、レーサーを使用している。 「用具としてはまったく別物ですが、自分の体との一体化を図る意味では共通しています。でも、ハンドバイクはまだ一体化されていない。バイクの性能を活かしきれてないですね」 スイムでは自分の身ひとつでオープンウォーターに飛び込む。 「でも、ウェットスーツも、重要なギアのひとつです。以前は着脱しやすいツーピースタイプを使用していました。着脱のしやすさは絶対条件です。トランジションタイムは勝負に直結しますから。でも、水中での運動、水流を考えるとワンピースのほうがいい」 トライアスロンに転向して、よりサポートのありがたさを実感しているという。 「用具の調整、トレーニング。それぞれの専門家によるサポートをいただいて、初めてレースに出場できる。挑戦すること。それが、私の原動力です」 2020年。土田は3つ目の競技で、東京パラリンピックでのメダル獲得を目指す。 取材・文/宮崎 恵理 写真/吉村もと
環境も監督も、選手も進化を続ける(ウィルチェアラグビー:島川慎一)

環境も監督も、選手も進化を続ける(ウィルチェアラグビー:島川慎一)

ウィルチェアーラグビーがパラリンピックの正式種目になったのは、2000年のシドニー大会から。日本は、04年のアテネ大会に初出場し、リオまで4大会連続出場している。アテネで7位、北京で8位。ロンドンで4位に順位をあげ、リオで悲願の銅メダルを獲得した。 リオから2年。オーストラリア・シドニーで開催された世界選手権で、日本は、パラリンピック2連覇のオーストラリアを62対61で下し初優勝した。 今年43歳の島川慎一は、アテネ大会で最多得点を挙げた選手である。以来、常に日本チームを牽引してきた。 「優勝できた最大のポイントは、準決勝のアメリカ戦でした」 世界選手権では12カ国が2リーグに分かれて予選を戦い、上位2チームが準決勝に進出する。日本は予選でオーストラリアに65対52で敗れていた。 「オーストラリアに負けた後、ケビン(・オアー)監督は、僕らにその試合のビデオを見せませんでした。ケビンが監督になって2年、一度もそういうことはなかった」 準決勝のアメリカ戦。先発ではなかった島川が交代でコートに入ると、主将の池透暢が島川に「10点くらい、引き離してやりますよ!」と、ギラギラ光る目で耳打ちしたという。 「全員が、池と同じ士気でした」 日本は51対46でアメリカを下し、決勝進出を決めた。 「僕が初めて日本代表としてアメリカと対戦したのが2002年。他の国との対戦でも、アメリカが一方的に負けた試合を見たのはあれが初めてでした」 上肢・下肢ともに障がいがある選手が出場するウィルチェアーラグビーは、コートに入る4人の持ち点(クラス分け)の合計が8点以内でなければならないルールがある。日本は、ともに3・0点の島川、池、池崎大輔のうち2人が交代でコートに入り、決勝では2・0点の羽賀理之、0・5F(0・0)点の倉橋香衣を多用する布陣でゲームに臨む。 オーストラリアの武器は、3・5点のエース、ライリー・バットの存在だ。世界的スター選手1人が予選でも決勝トーナメントでも、敵対する選手を蹴散らしてゴールする。日本はハイポインター3人が交代でスピードある攻撃を仕掛けていく。 最終ピリオドで逆転される場面もあったが、池崎のスティールで62対61とした。しかし、残り6秒で反対にオーストラリアにボールを奪われた。 「6秒あれば同点、下手すれば逆転さえ起こりうる。でも、そこでオーストラリアに得点を許さなかった。その粘りが最後に勝利を引き寄せたんです」 かつて日本は、ないないづくしだった。資金もない、練習時間もない。東京パラリンピック開催が決まり、リオで銅メダルを獲得し、現在は日本代表選手のほとんどがアスリート雇用。平日でもほぼ毎日、練習に専念できるようになった。 「隔世の感がありますよね」 島川は、アテネパラリンピック後の05年からアメリカの〈フェニックス・ヒート〉というチームで3シーズン、北京後、昨年と5シーズンプレーし、全米選手権の大会最優秀選手賞に輝いた経験を持つ。リオ以降、日本の監督となったオアー監督とも旧知の仲だ。 「とにかく走らされる。コートに出ている間は全力疾走です。ケビンは、どんどん選手を交代していく。交代が早いから、12人全員がコートに入った瞬間から全力を出せるわけです」 コートを3分割し、他の選手と直線的に重ならないように動き続けることも要求される。 「ボールがどんどん動くし、相手選手もばらけていく。これぞ、まさにケビン流です」 東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場となる。 「いや、僕としては次のパリくらいまでは第一線でプレーするつもりです」 もはや、島川にとってウィルチェアーラグビーは「人生、そのもの」。次なる目標は、もちろんパラリンピックタイトルだ。 「リオの悔しさを、東京で晴らします!」 取材・文/宮崎 恵理 写真/依田裕章
ビーチ・パラの可能性(2/2)

ビーチ・パラの可能性(2/2)

―― そもそも、パラスポーツの普及を目指そうと思われたのは、どんなきっかけからでしょうか?   現役時代からスポーツの振興には取り組んでいましたが、パラスポーツとの接点はほとんどありませんでした。 2012年頃から社会的にもパラスポーツ普及の機運が高まり、私も選手として関連のイベントに参加するようになったことがきっかけです。その後、議員としてより積極的に関われる立場になり、「ビーチでもパラスポーツを」とようやく視野が広がってきたところです。バレーボールがビーチバレーボールへと発展したように、まずは既存のパラスポーツが、どう舞台をビーチに移せるか、それを応援したいと思います。   ―― そのために、どんなことが必要でしょうか?   まずは、ビーチに来てもらうことですね。そして、障がいの有無に関わらず、みんなが一緒にビーチで楽しめるレクリエーション的なスポーツの普及から進めていきたいと思っています。その先に、競技性をもったビーチ・パラスポーツへの広がりも期待しています。   ―― 砂の上では、どうしても難しいパラスポーツもあります。   実は、既存のビーチスポーツにも、砂の上でなく、ビーチ脇に設けたコートで行うものもあるんです。たとえば、3人制バスケットボールのビーチ3×3(スリー・バイ・スリー)やビーチテニスなどです。これをパラスポーツに応用したのが今年のJBGで、砂の上で行った車いすビーチフラッグスの他に、ビーチ脇で車いすバスケとボッチャに挑戦しました。 ルール変更や障がいによるクラス分けなどを適用し、創意工夫するのはパラスポーツの基本ですよね。〝砂の上だから、できない〞とあきらめるのではなく、〝どうやったら、できるかな?〞と考えて、新しいビーチスポーツを生み、楽しむ環境を作れたらと思います。   ―― 他に、気づいたことや手応えは?   もう一つ、パラスポーツの特性としてサポートする人が当たり前に存在します。いわゆるサポートする側、される側という関係でなく、〝チームメート〞として必要な存在なので、〝やらされ感〞なんてありません。ビーチスポーツを一緒に楽しむことで、自然に日常生活でのサポート方法や思いやりも身につくように思いました。 高齢社会の日本では日常生活に不便さを感じる人も増えています。パラスポーツは共に支え合う意識を自然と気づかせてくれるし、障がいのある人と交流することは未来のトレーニングでもある。今回の挑戦で、そんなことに気づけました。   ―― パラスポーツの新たな可能性を感じますね。今後の取り組みについては?   まずは、JBGの存在を広め、〝JBGに行けば、障がいのある人もビーチスポーツが楽しめる〞と認知させたいですね。現在のJBGはフェスティバル的な開催ですが、いずれは公式戦化させ、いつかは国際化までできれば。目標を高く大きく持って進めていきたいです。 取材・文/星野 恭子 写真/日本ビーチ文化振興協会
ビーチ・パラの可能性(1/2)

ビーチ・パラの可能性(1/2)

―― 今現在、ビーチ・パラスポーツには、どんな競技があるのでしょうか?   実は、まだスタートしたばかりで、すでに競技として整備されているのは聴覚障がい者を対象としたデフバレーボールをビーチで行う『デフビーチバレーボール』だけだと思います。これまでに、多くのオリンピック競技が普及や発展のためにビーチへとフィールドを広げ、ビーチバレーボールやビーチサッカー、ビーチテニスなどに発展したように、パラスポーツへの関心や人気が高まる今、ようやくビーチにも目が向き始めたという段階です。   ―― これからの進展に注目というわけですね。では、朝日さんは長年、日本における「ビーチの文化」創出に熱心に取り組まれていますが、これまでの活動内容や経緯について教えてください。   日本は長い海岸線を持ち、美しいビーチに囲まれています。でも、夏だけなど、十分に活用されていない面もあります。そこで、ビーチから日本を元気に変えていきたいという思いから現役引退後、「日本ビーチ文化振興協会」の理事長となり、海辺と触れ合う『はだしの文化』の推進や海辺環境美化活動などを行っています。 また、世界では海や砂浜を舞台にした競技の国際大会『ビーチ・ゲームズ』も始まっています。この大会の日本への招致活動の一環として、2014年から『ジャパンビーチゲームズフェスティバル(以下・JBG)』も主催しています。5回目となった今年も、5月3日から5日までお台場で開催。約4万人の来場者にビーチスポーツと触れ合い、楽しんでいただきました。   ―― 今年は、新しい試みがあったと聞いています。   初めてパラスポーツをプログラムに盛り込んでみました。ビーチフラッグス競技を応用した「車いすビーチフラッグス」で、おそらく世界初の試みです。車いすに取り付けて引きやすくする補助装置『JINRIKI(ジンリキ)』を使って、車いすユーザーと健常者が2人1組になって、競走しました。子どもたちの、〝ビーチって、こんなに楽しいんだ〞っていう笑顔がうれしかった。私自身の世界観や価値観も大いに刺激されました。   ――「JINRIKI」はスポーツ用具ではありません。斬新な発想ですね。でも、砂浜の上で車いすを動かすのは大変そうです。   それが、思い切ってやってみたら、砂の上の不便さなんて簡単に乗り越えられたんです。きっかけは、以前から交流のあった、元車いすバスケットボール日本代表の根木慎志さんの、〝僕、ビーチ大好きなんです。行ってみたい〞という言葉でした。ハッとしましたね。〝車いすで、ビーチに行くのは難しい〞と、僕たち健常者も、もしかしたら当事者の方々も思いこんでいたかもしれないな、と。これまでも、ビーチでのイベントではスロープなどハード面のバリアフリーを考慮してきましたが、本当の意味での受け入れはできていなかったように思います。いろいろな気づきがあって、とても勉強になりました。   ―― たとえば、どんな気づきでしょうか?   障がいのある人と健常者がチームを組んでレースを走ってみたら、自然なカタチでコミュニケーションをとっていました。〝境界線〞なんてすぐになくなって、ゴールしたら互いの距離がグッと近づいていたのです。ビーチという空間が、開放的でワクワクする空間だからかもしれません。障がい者を理解する取り組みでは障がい者の日常を体験したり、付き合い方を学んだりと教育的なスタンスが一般的ですが、心の中にある〝意識の壁〞を取り払い、心のバリアフリーを広めるのに、ビーチスポーツには大きな可能性があると感じました。 それに、ビーチは健常者でも歩きにくいでしょう。つまり、移動の不便さという意味では車いすの人と同じです。だから、自然に互いを思いやれるのかもしれません。障がいの有無に関わらず、困った人がいれば自然に手を差し伸べます。段差をなくすハード面だけがバリアフリーではない。そう、気づかされました。  
<仮面女子>猪狩ともかの新天地(2/2)

<仮面女子>猪狩ともかの新天地(2/2)

猪狩は新しい活躍の場として、「パラスポーツ」への挑戦を決めた。 9月22日に東京ビッグサイトで開かれた「ツーリズムEXPOジャパン2018」、同27日のヤフー株式会社開催「新メディア記者発表会」に参加。ボッチャや車いすバスケ、車いすフェンシングなどを体験し、パラスポーツへの関心を深めた。 「元々挑戦したいイメージをもっていましたが、それが更に強くなりました」と、語るその言葉通り、会場での猪狩は意欲的だった。特に車いすバスケでは受けたコーチングをしっかり自分のものにして、チェアワークやフリースローを難なくこなす。水泳を12年間、ソフトテニスを3年間やってきたスポーツ経験、そしてアイドルとして培ったダンス経験が、体験会で見せたセンスを裏付ける。 「車いすバスケはこれから先も楽しんでいきたいなと思いました。ウィルチェアーラグビーは見ているだけでいいかな(笑)」 初めて触れるパラスポーツの迫力に、おどけた様子ものぞかせたが、「(パワーリフティングを終えて)仮面女子として、『ガッチリしすぎてない?』って思われないくらいには鍛えていきたいなと思います」と、行動力を見せる場面もあった。どんな競技にも真剣に向かい合う姿勢はとても印象的で、アスリートとしての今後に期待が高まる。 「どのスポーツをやるかまだ決められずにいるので、とにかくいろいろなスポーツを経験していきたいです。趣味レベルではなく、公式の大会に出てみたいなと思いますね。大口はたたけないけど、パラリンピックも頭の片隅にはおいておきたい」 厳しい時期を必死に乗り越えた猪狩だからこそ出せる前向きさがみえる。 まだまだ世間の認知や理解が浸透していないパラスポーツだが、関わる選手たちもそれを感じないわけではない。個々人が、どのように広めていくべきかということを模索している。猪狩もその一人だ。 「自分でもできることといえばSNSでの情報発信です。でも、それも注目されないことには見てもらえないと思うんです。いろんな活動をしていって、猪狩ともかっていう存在をもっと多くの人たちに知ってもらえたら、それが影響力になりますし。タレントとしての力みたいなものも、これからもっと上げていかなきゃと今まで以上に感じます」 同じように車いす生活を送っている人に、なにかヒントを与えられる存在になりたいと話す。 「そのなかの一つがパラスポーツなので、その魅力を自分自身も感じながら、みなさんにも伝えていけたらなと思います」 アイドル活動に加え、障がい者としての発信にも今後力を入れていく猪狩の更なる活躍から目が離せない。 文・写真/編集部
<仮面女子>猪狩ともかの新天地(1/2)

<仮面女子>猪狩ともかの新天地(1/2)

「これから楽しんで車いす活動をしていく姿や、パラスポーツの魅力を伝えて、たくさんの人に笑顔を届けられるように頑張っていきたい」 車いす生活になって約半年。猪狩は目標を見つけ、そこに向けての準備を進めていた。復帰が絶望的だった時期がありながら、車いす生活でも楽しめることがあると気付くことができたと言う。 猪狩はもともとアイドルグループ「仮面女子」に所属しながら、ライブ活動を続けていた。そんな彼女にとって、今回のような変化をすぐに受け入れることは簡単ではない。しかし彼女は下を向かず、自分が今できることを探し続けた。 突然の事故により大ケガを負った猪狩だが、彼女のまわりの人たちのショックも大きかった。 「家族は(脚が動かなくなることを)事前に知っていました。なので父は特に気持ちを落としていて」 家族間での話し合いは、両親の気遣う優しさと同時に、これから車いす生活が始まることを受け止めなければならなかった。 「メンバーは手術後に説明を受けたらしくて、しゃがみ込んで泣いてくれる子もいました。自分のことのように考えてくれていることが嬉しかったです。みんなの『待ってるからまた一緒にライブしようね』って言葉が支えになりました」 彼女の病室に誰もこない日はなかった。毎日の励ましの言葉がなかったら、こうしてインタビューに応えることもなかったと言葉を漏らす。 プロ野球の始球式や一日警察署長と、入院中も多忙な日々を過ごすも弱音は吐かず、5カ月半の入院期間を経て、9月26日に退院を果たす。 「家族が退院祝いをしてくれました。恥ずかしくて直接は言えなかったんですけど、ちゃんと家族のグループメールで『支えてくれてありがとうございました』と伝えました」 思い出して涙を流しながらも、当時の状況を懸命に伝えてくれた。家族の支えの大切さを改めて見直したという。 「SNSで復帰の報告をした際には、多くの人があたたかい言葉をかけてくれて…そのときもいっぱい泣きましたね」 彼女の人柄と、強い意志が見る人を惹きつける。 退院後は、設備が揃っていた病院では感じることがなかった不便を目の当たりにしたという。障がいを抱える人の目線から世の中の課題を発信していきたいとの意気込みも明かした。 車いすになって約半年が経つが、最初は寝た状態から体を起こすことすらできなかったという。徐々に身の回りのことはできるようになってきたが、まだまだ慣れないことも多い。 「たとえば、新幹線の席に移るとかは高低差があって難しいですね。ソファーとかも。まだ一人でやるのは厳しいので、誰かの力を借りて…抱えてもらって」 ケガをする前とのギャップは健常者が想像するよりもはるかに感じるはずだ。インタビュー中、自宅や移動中の動き一つひとつを細かく思い出しながら話してくれた。 「同じ立場じゃない人たちは、(私たちが)何に困っていて、何ができないのかがわからないと思います。それはしかたのないことだから、助けを求める私たちも『〜してほしい』と的確に伝える必要がありますね」 そう話す猪狩には、工夫をしながら生きていこうとする決意があった。人任せにしないところが彼女の強さだ。
スペシャルオリンピックスのいま(2/2)

スペシャルオリンピックスのいま(2/2)

〈幸運とは準備が機会に出会うことである〉 これは、アメリカの人気テレビ司会者オプラ・ウィンフリーの言葉です。知的に障がいがあることが不幸なのではなく、機会に出会えていないことが不幸なのです。スポーツによって人は変化します。世界大会を経験すると、年々成長していくアスリートがいます。すごく積極的になったり、しゃべれなかったアスリートがかなりお話ができるようになったり。私もオリンピックにでて成長することができました。こうした経験を多くの人にしてほしい。その歓びを誰も奪うことはできないのです。 この活動をできるだけ多くの人たちに知ってもらうために、オリンピアンたちにドリームサポーターとして参加してもらっています。フィギュアスケートの安藤美姫さん、小塚崇彦さん、柔道の平岡拓晃さんなどです。参加した感想を聞くと、知的障がいのある人がスポーツを純粋に楽しんでいる姿を見て、「スポーツの原点」を再認識したりしている。自分のアスリートとしての経験を、引退後の活動の中でどう生かすかを考える良い機会になるとも思います。 サッカー元日本代表の山口素弘さんには、昨年、シカゴで行なわれたユニファイドフットボールカップの、日本選手団アンバサダーとして参加していただきました。ユニファイドスポーツというのは、知的障がいがある人とそうでない人がチームをつくってプレーするものなのですが、山口さんなどJリーガーなどがコーチ陣に入ると、選手たちがすごく成長するんです。 私も見ましたが、誰がアスリートなのかわからないぐらいになっていました。もともと能力がないわけではなく、やれば普通にできることが増える。生きていく力が育まれるんですね。そういうシーンを目の当たりにすると、こういう機会を増やしたいなとつくづく思います。 最初は教える側も大丈夫かなと思っていたりするんです。でも実際やってみると、「おっ、できるじゃない」と見方がガラっと変わる。当事者たちも変化・成長しますが、その周囲の人たちはもっと変わっている。当事者たちのまわりで起きる変化こそがスペシャルなんです。 今、Jリーグ、プロバスケットボールのBリーグとも提携して、交流ができつつあります。ユニファイドスポーツがもっと全国に広まってほしいと思っています。 SOの強みは、実は地区組織の厚みです。全都道府県に地区組織があって、非常に活発です。アスリートたちも、その地域の人たちに教えられながら成長しています。 去年11月の富士山マラソンの知的障がい女子の部で優勝した樋口敦子さんは、SOアスリートです。私がコーチをしているわけではなく、地区の人が教えてくださっている。そうした日常的な応援で、十分アスリートは変われるのです。 大事なのはまわりがアスリートを信じること。信じて環境を整えれば選手たちは変わります。 9月に愛知県で、SO夏季ナショナルゲームが開催されました。競泳、テニス、体操など13競技でアスリートたちがそれぞれに力を出してくれました。 スローガンは「超える歓び。」。これはすごく重要なテーマで、アスリートが自分を超える、周囲の人たちは、知的障がいのある人たちとの間にある壁を超えるという意味もあるでしょう。 そうした活動を通じて、SOに関わる人みんなが元気になってほしい。それが私たちのモットーでもあります。 SOでは、目を見張るような大記録がでるわけではありません。でもスポーツは記録がいくらよくても、意外と記憶に残らないものです。記録に加え、記憶に残るものがあるから感動が生まれる。SOは感動のシーンがたくさんあります。ぜひ参加したり応援したりしてもらえたらと思います。   取材・文/西所 正道 写真/高橋 淳司
スペシャルオリンピックスのいま(1/2)

スペシャルオリンピックスのいま(1/2)

スペシャルオリンピックス(以下SO)との縁をつくってくださったのは、SO日本元理事長の細川佳代子さん、細川護煕元総理の奥様です。2002年に連絡をいただいて、ドリームサポーターになって活動を応援してほしいと言われました。元力士の小錦さんやテニスの伊達公子さんもサポーターで、私でなにか役に立てればと思ってお引き受けしました。 関わり始めて、さまざまな気づきがありました。 たとえば、知的障がいのある人(アスリート)にスポーツの場を「提供」するという表現が理解できなかった。人に聞いて、提供されなければスポーツする機会さえなかったことを初めて知りました。 サポートを難しくしているのは、当事者であるアスリートがどんな環境でスポーツをしたいのかを十分に発信できないことです。結局、組織を支える人の思いや価値観によって環境づくりがされてきた。その価値観も、「参加することが大事」「ナンバーワンよりオンリーワンを目指す」というものです。 でも、翌03年、アイルランドの首都・ダブリンで行われたSO夏季世界大会に行ったとき、それとは違うシーンを見たのです。確かに勝負を度外視したような選手もいました。重度の障がいのある陸上選手は、スタートしてもゴールを目指さないで応援席に向かって走ってきたり、遅れている子を待ってゴールしたり。 いっぽうで、勝負にこだわるアスリートもいたのです。バスケットボールチームは決勝で負けたのですが、地団駄踏んだり泣いたりして悔しがっていました。 それを見て思いました、勝つことを追求する選手がいるのなら、それを応援する体制が必要だと。また、ひとつの価値観にしばられないで、アスリートに合わせてサポートしたほうがいいというふうにも思いました。 そんなことを考えているうちに、副理事長に、何年かして理事長になってほしいと言われました。スポーツに関わりのある人が組織のトップに立って、SOのことを外に向かって発信してほしかったようです。 理事長になってからは、選手団を率いて、いろいろな大会に行きました。選手と一緒の部屋で寝泊まりして過ごしました。知的障がいのある人とない人、違うところはあるけれど、同じ部分もたくさんあるんですね。怠ける人もいるし、悪戯をする人もいる。障がいのありなしにとらわれず、普通にシンプルに接すればいいと思いました。 私が理事長になって、これだけはやりたいと思ったのは、一人でも多くの人たちに、スポーツをする機会を提供したいということ。スポーツは、人を変える力をもっているからです。 私はカンボジアで毎年行なわれている「アンコールワット国際ハーフマラソン」の運営に関わってきました。最初はゲストランナーとして参加したのですが、貧困や地雷の問題がある国で、はたしてマラソンに意味があるのかと疑問でした。しかし翌年再訪すると、子どもたちが楽しみにしてくれていた。マラソンは彼らに生きるパワーを生み出していた。スポーツが持つ力をあたらめて実感しました。そんなスポーツだからこそ、できるだけ多くの知的障がいのある人に経験してほしいのです。
リサイクルシステムで未来を創る(リネットジャパングループ株式会社)

リサイクルシステムで未来を創る(リネットジャパングループ株式会社)

「都市鉱山」という言葉をご存知だろうか? パソコンなどの小型家電には希少金属等の有用物質が使われているのだが、壊れるなどして放置されているものが意外と多い。きちんと収集、分解すれば貴重な資源になるという意味で、小型家電が眠っている企業や家庭、あるいは町全体を「都市鉱山」と呼ぶ。 この都市鉱山のリサイクル事業には、資源の有効活用以外にも社会的な意義があるという。家電の解体には手作業が必要で、多大な集中力が要求される。そこで現場では、集中力が高いとされる知的障がい者が活躍している。リサイクル事業は知的障がい者の雇用にも役立っているのだ。パソコン1500〜3000台で1年分の雇用を生み出すという。 この事業を展開しているのがリネットジャパンである。代表の黒田武志さんに話を伺った。 黒田さんは、トヨタ自動車を退社後、2000年にイーブックオフ(のちにネットオフに社1050名変更)を設立。インターネットを使った書籍やCDなどの買取、販売を進め、次々と取扱品目を拡大させていった。 当時はネットビジネスが注目され始め、イーブックオフも売上は年々倍増。しかし、低単価なのに物流や在庫管理に多大なコストがかかっていた。 トヨタ仕込みの「カイゼン」に取り組むも、黒字転換には6年を要した。創業時の目標だった株式上場にはなかなか届かず、「経営者としてのモチベーションを失いかけた」という黒田さん。もう一度事業のあり方に思いをめぐらせた。 そして2010年、創業10周年を機に経営理念「ビジネスを通じて『偉大な作品』を創る」を打ち出す。どういう意味だろうか? 黒田さんは、「ビジネスには収益と社会性の両立が必要だ」という。しかも、本業とは別に社会貢献に取り組むのではなく、本業がそのまま社会貢献にもなる事業こそ「偉大な作品」といえるのではないか。この経営理念を元に立ち上げたのがリネットジャパンだ。 リネットジャパンでは、都市鉱山のリサイクルと障がい者の雇用支援という収益と社会性を両立させた事業を進めた。また、小型家電から抽出した原材料で東京オリンピック・パラリンピックのメダルをつくるプロジェクトにも参画。「日本のモッタイナイ精神を世界に発信する良い機会。東京大会後も続けていきたい」と黒田さんは語る。 さらに、リネットジャパングループは「スペシャルオリンピックス2018愛知」の大会スポンサーとなり、回収したパソコン1台につき、50円を寄付するというプログラムを立ち上げた。環境にやさしいリサイクル事業を行ないながら、障がい者の雇用を増やし、さらにスペシャルオリンピックスへの寄付にもなる。実に社会的意義の大きい事業だ。適切な利益も得ているので永続性もある、まさに「偉大な作品」である。 この愛知大会での取り組みで得られたものは大きかった。地元で回収したパソコンで地元の障がい者の雇用を増やすという今回の成功例を、全国に広めていきたい。そのためにも「スペシャルオリンピックスとは今後も積極的に関わっていきたい」と語る黒田さん。これからも収益と社会性を兼ね備えた「偉大な作品」を創り続けることだろう。 取材・文/福田 智弘 写真/リネットジャパン・編集部

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