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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介
- 新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その3)
新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その3)
- 「障がい者の選手を指導する時に、どういう風にすれば抵抗が少ない泳ぎができるのかを知りたいと、日本水泳・水中運動学会で科学的な研究をしているメンバーに声をかけました。大阪教育大学の生田泰志先生、奈良教育大学(当時)の若吉浩二先生などの協力を得て、レース、トレーニングを科学の視点から分析しました。障がいとの関係性も含めてです。動作解析、栄養分析、心理分析など、科学的アプローチを障がい者スポーツの場にも活用したのです」 その結果、たとえば脳性麻痺の選手は「緊張性不安」の部分で高い数値が出やすいことがわかった。では日頃の練習の時から、緊張を抑える訓練を取り入れようという検討を開始。また筋収縮が激しいので、練習の間でもマッサージを多く行なおう、といった対応も始めた。 身体の使い方の面では、右脚の欠損の選手は右足でのキックができないので、右側に顔をあげて息継ぎをすると、身体が回りすぎてしまう。身体のブレも大きくなり水の抵抗も大きくなってしまうので、左で呼吸しよう、といった指導をするようになった。 パラスポーツがもっと注目されるには? という質問に対して、櫻井さんは、 「オリンピック競技の種目のひとつとしてパラの競技が入るのが、本当は一番いいと思います。オーストラリアなどの水泳大会では、一般の一〇〇メートル自由形の次は、肢体不自由S9のレースが入っていたりします。神戸の市民大会はパラの選手が参加でき、国際記録公認しています。この方式を広めようと思っていますが、運営に細かい工夫も必要となります。また行政の縦割りの問題も顔をのぞかせます。 これからの時代、イベント事業は多様性にうまく対応できるマネジメントのプロ集団が必要になるのでしょうね」 「神戸市は、都市経営の優良モデルとして『株式会社神戸市』と言われ、いろいろなことにチャレンジし、成功・失敗を繰り返していました。私自身もあらゆる場面で経営・マネジメントの部分で駆り出されました。実はこのことがとても役立ったと思っています」 大きなストライドで背筋をぴんと立てて歩く櫻井さん。その目指す場所は、2020年のその先であることは間違いない。
- 新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その2)
新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その2)
- 「オーストラリアやニュージーランドでは地域クラブ制がきれいに敷かれていて、そのクラブにはオリンピック選手もいれば障がい者もいる、ジュニアもいればお年寄りもいる。みんなが同じプールを使って泳いでいるんです。コーチもボランティアではなく、そのクラブに所属しているプロ。トップ選手、パラスイマー、一般の水泳ファンもみんなを教えるんです。日本のように学校体育のなかで水泳を教えるようなことはありません」 健常者と障がい者の垣根がない社会がそこにあった。シドニーパラリンピックではオリンピックの施設がそのままパラリンピックの施設として使用された。 「2008年のロンドン大会も印象的です。『ストーク・マンデビル競技大会』(障がい者による最初の国際競技大会。パラリンピックのルーツと言われている)の母国でもあり、障害者スポーツを一般のスポーツとまったく同等に応援する、アスリートのパフォーマンスを心から楽しむという視点での取り組みでしたね」 ロンドン大会の前後から、世界の主要国では一般スポーツとパラスポーツの組織が統一されてきた。ただ、日本はまだそうなっていない。行政の組織、仕組みを変えることができていない。ようやくスポーツ庁ができて大きな流れは変わったが、それが地方行政では未だに教育委員会の流れと福祉の流れに分かれてしまっている。 「東京のレガシーは、そんな『仕組み』を変えていくことだと思うのです。 『共生社会』を目指そう、と旗は振られていますが、それを実現するためのプロセスや手法についてはあまり議論されずに、キレイな言葉だけが飛び交っているように感じています。『共生社会』は『排除しない』という観点なのです。一人一人がもっている個性があり、それを排除するには合理的な理由が必要で、それを常に問いかけていないといけない、そして共存を目指すというのが共生社会なのです。本質の部分や具体的な問題点に踏み込んでの議論が日本人は苦手なのです。 スポーツ庁ができて、一歩ずつ前進はしています。ただ正直もう4年くらい早ければよかったな、と思いますね」
- 新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その1)
新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その1)
- 「小学校の時、泳ぐのはもっぱら海でした。今のように学校にプールはありませんでしたし、海洋訓練のようなものがあって、『ここからここまで泳げたら水泳帽に線○本!』という世界です」 ご自身の水泳歴を語る櫻井さんは、笑顔に満ちている。高校の水泳部で活躍、偶然入った神戸市役所に水泳部があり、実業団選手としても活動、三〇回連続全国大会出場を果たしている。当時は1964年の東京オリンピックのレガシーでもある実業団チームが華やかなりし時代。鉄鉱、造船など重厚長大産業の会社が、いろいろなスポーツのチームを抱えていた。 また神戸市は1981年に神戸ポートアイランド博覧会を開催。埋立地に新しい都市を作るという動きのなかで、ポートアイランド博覧会で造った施設を使っていろいろなイベントを積極的に行なっていた。 その一環で1989年、フェスピック(極東南太平洋身体障害者スポーツ大会)神戸大会が行なわれた。櫻井さんは水泳部の監督をしていたので、福祉局から協力の要請があり、水泳部のメンバーで障がい者選手のクラブを指導しはじめたのが障がい者水泳に関わるようになったきっかけだ。 「選手がひとりで練習するよりも、チームで練習したほうがいい、であればクラブチームを作ろうということで『神戸楽泳会』というのを作りました。 それまで障がい者水泳はリハビリの視点からのアプローチが主でした。正直なところ、みんな自己流で泳いでいました。まさしく抵抗の多い泳ぎばかりをしていたんです。 楽泳会、という名前ですが、「楽しく泳ごう」という意味ももちろんあるのですが、競泳の考え方のほうが『効率的に』『楽に』泳げるのです」 クラブ結成後、フェスピック大会の前に行なわれた全国大会で、楽泳会の選手たちがリレーをはじめ多くの種目でメダルをとってしまった。全国から「なんでそんなに強くなったんだ?」と驚かれたという。 その後は、全国の障がい者スイマーにも指導をしてほしいということになり、技術委員という形で団体(日本障害者水泳連盟)に入り、1994年にマルタ共和国で行なわれた第一回IPC世界水泳選手権大会には日本代表チームの監督として参加。1996年のアトランタパラリンピックは監督として、2000年のシドニーパラリンピックにはヘッドコーチとして参加。世界のパラアスリートを目の当たりにすることになった。
- スポーツしやすい社会を目指して(その2)
スポーツしやすい社会を目指して(その2)
- 一方、世界に目を向けると、国際知的障害者スポーツ連盟(INAS)が普及振興の活動をしている。1986年にオランダの専門家たちによって14カ国で発足。それが現在、80カ国以上が加盟する国際スポーツ団体にまで発展した。 1996年のアトランタパラリンピックでは知的障がいクラスも実施された。1998年長野パラリンピックではクロスカントリースキーで知的障がいクラスが行なわれ、日本選手が銀メダルを獲得した。 しかし2000年のシドニーパラリンピックで、知的障がいのバスケットボールの金メダルチームに多数の健常者が偽って参加していたことが発覚。この事件を受けて、パラリンピックへの知的障がい者の出場ができなくなった。 問題は知的障がいとスポーツの競技力との因果関係の立証だった。そこで判定基準の方法が整備され、2012年のロンドン大会から陸上競技、水泳、卓球の競技への出場が再開されている。 またINASはグローバルゲームズという、パラリンピックのような国際総合競技会も開催している。そこに日本人選手も参加しているのだが、INASの国内版組織が存在しないというゆがんだ普及環境にあった。そのことを野村さんらは解消したいと考えている。 活動を始めるANiSAは、各競技団体に加盟を要請するとともに、理事としても活動に参加してもらう考えだ。 おもな活動として、4つの事業を予定している。 1 育成 知的障がい児・者の健全な育成を目的とする事業/スポーツを通じた社会的活動(とくに重度障がい児・者への理解・啓発促進) 2 スポーツ支援 知的障がい児・者、関係団体及びスポーツ団体へのスポーツ支援を図る事業/情報の提供・翻訳業務・助成金申請の助言等 3 教育・指導者養成 知的障がい児・者、スポーツ指導者に対する教育と指導者養成を図る事業 4 国際大会への派遣および支援 知的障がい児・者、スポーツ団体の国際大会への派遣及びその支援を図る事業/ INAS への選手登録及びグローバルゲームズなどの大会への派遣手続き 知的障がい者のスポーツ参加にも心配なことがある。 「競技ごとに普及団体が活動しているものの地域的な偏在がある」と野村さんは指摘する。さらに、「知的障がいのことを理解した指導者も必要だ」という。 知的障がい者はコミュニケーションのしにくさがあり、言語指示が伝わらないと事故などのリスクが高まる。 また軽度の知的障がい者のなかには、一般の競技団体で選手登録しているケースもあるが、認知理解のスピードがゆっくりなので、健常者への指導についていくことが難しいなど、配慮が必要になる。 「知的障がい者も運動することで健康的な生活ができる。またスポーツの経験や出会いは自立生活の窓口となる」 ANiSAはトップアスリートだけでなく、これまでなかなか機会がなかった、重度・重複障がいのある知的障がい児・者にも、日常生活の中で運動・スポーツを行なえる環境整備や、そのための理解・啓発のための事業を展開していく予定だ。 文/安藤啓一 写真/安藤啓一、編集部
- スポーツしやすい社会を目指して(その1)
スポーツしやすい社会を目指して(その1)
- 東京2020パラリンピックの開催が近づき、パラスポーツへの関心が高まっている。社会的には2015年にスポーツ庁が発足し、それまで厚生労働省の所管だったパラスポーツと文部科学省のオリンピックスポーツが移管された。そのことはメダルを目標としているアスリートたちにとって追い風となった。パラリンピック選手たちも国立スポーツ科学センター(JISS)の施設とプログラムを利用できるようなったからだ。 その効果は早くも現れており、平昌パラリンピックのメダリストたちは、オリンピック選手たちとともにJISSで厳しいトレーニングをして、結果を出している。 また各競技団体は財政的な支援も受けられるようになり、海外への選手派遣などもしやすくなっている。 ところが、こうした恩恵をすべてのパラアスリートが享受できているわけではない。パラスポーツは選手たちの障がいで、身体機能障がいと知的障がいに分かれ、現在、東京大会の恩恵を受けられているのはパラリンピック種目に限った選手たちなのだ。 現在、陸上競技と水泳、卓球の3競技では、パラリンピックに知的障がい者も出場している。ただその他の競技については、「世界大会への参加国数や競技人口、また競技レベルの問題」などの理由から参加が実現していない。 そこで障がい者スポーツの普及発展に取り組んできた日本体育大学教授の野村一路さんらは全日本知的障がい者スポーツ協会(ANiSA)を設立。国内の統括団体として、国際団体との連携や各競技団体のスポーツ支援をしていこうと動き始めている。 知的障がい者のスポーツはいくつもの課題を抱えている。 「パラリンピックが注目されているなか、知的障がい者スポーツが取り残されている」と野村さんも危惧している。 日本パラリンピック委員会(JPC)がパラリンピックに参加する時の窓口となっている。ところが国内において、知的障がい者スポーツを統括する団体が実質的には存在しなかったため、日本知的障がい者陸上競技連盟などは、JPCや日本障がい者スポーツ協会と連携することで国際大会への選手派遣などをしてきた。 「ドイツで開催された知的障がい者の柔道大会に日本選手がエントリーしていた。そこで主催者は全日本柔道連盟に選手派遣をしたのか照会してきた。調べてみると個人的な参加だった。そこで連盟内に知的障がい者柔道振興部会を設けることになった」 競技団体が整備されていないことでさまざまな不都合が生じている一例だ。
- 親子で楽しむチェアスキー教室
親子で楽しむチェアスキー教室
- 日本チェアスキー協会の野島 弘(以下、野島)が音頭を取り、日本チェアスキー協会が中心となり中外製薬のサポートのもと開催されたイベントは、2日間で参加者をすべれるようにするのが大きなミッションだ。ただ、この他にも、「チェアスキーを通じた大人との関わり合いのなかで、社会的な人間形成や、それこそ子供同士一緒になって目標に向け切磋琢磨することの大切さを育むことも目的」と、発起人の野島は話した。 今回の教室は、参加者のほとんどが初心者で、経験があっても数回しかすべったことがないといった状況だった。だからチェアスキーですべるという行為は、ドキドキのチャレンジとなった。 初日は、まず各人にチェアスキーのセッティングを合わせるところから始まった。 「実際に座るバケットシートの調整がチェアスキーですべる上でいちばんのポイントになります。バケットシートが身体に合っていないと、ストレスなくチェアスキーを操作することができないからです」(野島)。 セッティングができたら、すぐさまゲレンデへ。リフト乗車の前に開会式を行ない、ひとりのチェアスキーヤーに対して、大人のガイドがふたりサポートにつき、合計3名のチームでゲレンデへと飛び出した。 今回ガイドを担当したのは、日本チェアスキー協会のスタッフと中外製薬の社員ボランティア。教室の開催前日から現地に入り、ガイド講習を受け教室に備えた。ガイドはチェアスキーにつないだガイドロープ伝いに背後からスキーヤーにターンのコツを体感させ、最終的にはひとりですべれるようにしなくてはならない。そのためには、ガイドにも知識やコツが必要になるからだ。 2日目は、今回の会場となった舞子スノーリゾートのゲレンデ山頂から、初級コースを使いダウンヒル。そして、最後は、ひとりですべるお披露目タイムとスケジュールは進む。 このイベント、最後のお披露目タイムがとても重要なポイントになる。みんなの前で、自分がいかにすべれるようになったかを披露する場に向け、参加者たちは、2日間という短い時間のなかで努力し、またガイドと協力し合い、そして他のスキーヤーと切磋琢磨しながら自分のすべりを研くのである。 お披露目タイムでは、途中で転ぶ人もいたが、参加者の大きな声援のもと参加者全員が楽しそうにバーンをすべりきった。 「操作は簡単じゃなかったけど、ターンができて気持ちよかった!」とは、関西から参加した新倉百々花ちゃん。 彼女をはじめ、多くの参加者が心から今回のイベントを楽しむことができたようだ。なぜなら、それぞれの達成感がその笑顔に滲み出ていたからだ。 写真/樽川智亜希 文/編集部
- スポーツをしたいと思えるきっかけ作り 野島弘(その2)
スポーツをしたいと思えるきっかけ作り 野島弘(その2)
- 「やったことのないアルペン競技の大会だったけれど、おもしろそうだなと思い躊躇なく参加することにしました」。 練習すらしたことないレースに果敢にチャレンジした野島。初年度は惜しくも表彰台に及ばず4位(ただし、3位と20秒遅れ)。翌年も参加するも、またしても表彰台は遠く及ばず。 そこで、北海道へ武者修行に出る。向かったのはテイネハイランドスキー場(現・サッポロテイネスキー場)。世界的な冒険スキーヤーにして、レジェンドスキーヤーである三浦雄一郎氏が主宰する「ミウラ・ドルフィンズ(以下、ドルフィンズ)」の門をたたいたのだった。快く迎え入れられた野島は、ドルフィンズでの経験が、その後の人生に大きく影響したと語る。 「スキーを始めて3年目の頃でした。ドルフィンズのメンバーが中心となってSAJ(スノーエアジャンキー)という、スキームービーを制作した。北海道の旭岳で撮影したのですが、このメンバーに僕もいれてもらったんです。その当時、スキーブームの只中にあって、そうそうたるスキーヤーが名を連ねていました。そして、彼らは障がい者ということを気にも留めない様子で、普通に僕に声を掛けてくれました。ロープウェイを2基乗り継ぎ頂上へ行き、そこからスタート位置までは、首謀者でもあった熱血プロスキーヤーがハイクでボクを引き上げること40分。飲み込まれそうな絶景と吸い込まれそうな絶壁が視界いっぱいに広がり僕の心臓の鼓動は高鳴なりました。決してひとりではすべることができない大自然の急斜面を、特別な仲間たちのサポートで気持ちよくドロップイン。息ができないほどの雪しぶきを浴びながら、斜面をすべり降りたのです。この経験で、スキーを心底楽しいと思えたし、人との関わりというのはとても大切だなと思いました。こうしてスキーを愛し、人情にはまったあの経験がなかったら、今までスキーを続けていたかわかりません」。 旭岳の経験が野島を大きく変えた。自分がおもしろそうと思えるスポーツは、常にチャレンジすることにした。そして、それが楽しければ、精一杯の行動力で多くの障がい者に伝えたいと考えるようになった。スポーツは最初の出会いが大事。だから、まずは〝心から楽しい〞と思えるようにスポーツを伝えていきたい。うまくなるならないはその後だと話す。 チェアスキーに車いすゴルフ、カヤックにバドミントン、最近はパラグライダーに挑戦しようと、できるタイミングを探っている。このように野島は、自分がおもしろいと思えたスポーツを、全国のいたる所でたくさんの人たちと楽しんでいる。その光景は、野島のフェイスブックにあふれている。 「障がいをもっている人が、僕を見て〝一緒にいると楽しそう〞と思ってもらえればいい。誰かが外に出るきっかけになるような存在になりたいと思っています」 それにしても、彼のアグレッシブな行動力は半端ではない。「普通の人は、そんなに遊べないのでは? 時間を作るの大変だし」と、野島に問いかけてみたら、次のような言葉が返ってきた。 「正論ばかり並べていても、前には進めない。何かしたいと思ったら、まずは動かないとね(笑)」 写真/樽川智亜希 取材・文/編集部
- スポーツをしたいと思えるきっかけ作り 野島弘(その1)
スポーツをしたいと思えるきっかけ作り 野島弘(その1)
- 野島は、1998年の長野冬季パラリンピック、そして、2006年のトリノ冬季パラリンピックにおいて、アルペンスキー日本代表の経歴をもつ。栄光のパラリンピアンである野島のチェアスキーのスタートが、実はザウス(千葉県船橋市の湾岸エリアに建設された、当時世界最大にして史上最大の屋内ゲレンデ施設。2002年に閉館)だったことは、あまり知られていない。そしてそのスタートは、とてつもなくアグレッシブだった。 「義理の兄と弟が無類のスキー好き。とくにコブが大好きで、ずっとスキーに行こうと誘われていました。ただ、自分はそれほど興味がなくて、4年間断り続けていたんです。そしたら、弟が日本チェアスキー協会から借りてきたチェアスキーを、目の前に〝ドン〞と出されたものだから行かないわけにはいかない。それで、初めてすべりに行ったのがザウスだったわけです」 17歳で事故にあい、脊椎を損傷して車いす生活となったが、さまざまなスポーツを楽しんできた野島。それなりに運動神経に自信はあったが、スキーだけはそうはいかなかった。 「ゲレンデデビューで最初から、乗ったことのないリフトに乗って、兄と一緒にコブをすべろうとしたからもう大変。バンバンコブをすべる兄を真似しては何度もコブに弾き飛ばされました。コブはそれなりにスキーをしてる人でも難しいロケーションじゃないですか。健常者の時にスキーの経験はなかったのですが、スポーツは何でもこなしてきたほうだったから、根拠はなかったけどすべれる自信はありました。だから、『初スキーだからコブをすべれなくても当然』と、言われても納得いかず、悔しい思いでいっぱいでした(笑)」 これを機に、スキーに真剣に取り組むようになる。そして、弟がチェアスキーの大会の情報を見つけてきて、野島のアグレッシブな魂に火を付けた。
- 東京マラソン、51歳ベテランが初優勝!
東京マラソン、51歳ベテランが初優勝!
- 東京駅・丸の内がゴールとなった新コースで2回目の開催の東京マラソン。アップダウンが少なく抜きどころも減った高速コースで、レベルの高いレース展開が期待されていた。 今年の車いすの部男子は、51 歳の山本浩之と23歳の鈴木朋樹のふたりがレース序盤からトップを独走する一騎打ちの展開に。スプリント力のある鈴木をベテランの山本がゴール直前で抜き去り、そのままゴールスプリントを制して優勝を決めた。 「最初から速い展開のレースだった。事前の天気予報よりも暖かい気温で風もなかった。身体が動いていたから、積極的に走れた」 山本は序盤からふたりで逃げきる覚悟を決めた。ただ相手は息子のような年齢の若い選手だ。 「朋樹は自分よりも加速力がある。ラストスパートの勝負になると、追いつけないかもしれないから、早めに引き離したかった」 ところが自分の後ろにぴたりと着かれたまま、「何度かスピードを上げたけれど振り切れなかった」 鈴木は先頭交代にも応じない。ゴールスプリントに体力を温存する作戦だ。その様子をみて山本は「君の土俵で勝負してやろう」と腹をくくり、先頭を走り続けた。 丸の内のオフィス街に入ると、案の定、鈴木はスパートをかけてきた。山本は諦めず、ピタリと着いていく。そして鈴木に疲れの見えた一瞬の隙をついてスピードを上げると、そのままゴールに飛び込んでいった。 鈴木は、「ゴール前、左に曲がるところで左を見たら(山本が)いなかった。右を見たらもう抜き去られていた」という。完敗だ。 「レース序盤から先頭を走り続けて、疲れ切ってからのラストスパートだった。しかもスパート力のある若い選手に勝てた。会心のレースだった」 この優勝は、積み重ねてきたトレーニングと、入念な準備がもたらした。 「51歳にして、ようやくポジションとフォームが決まってきた」と山本。通常は年末から年明けにかけて、新しいシーズンへの準備をする。フォームの修正やグローブなど用具の調整をしてステップアップに取り組む。それが山本の、いつものパターンだった。 ところがこの冬は何も変更する必要がなかった。「マテリアルも固まった。トレーニングがしっかりできれば、いいレースができるだろう」と、このレースは狙っていた。 「フォームが安定して身体の力を車輪に効率よく伝えられる。少ない力で(車輪を)回すことができれば、持久力も上がる。瞬発力も出せるから、うまくいく」 車いすは、丸の内の石畳で振動吸収しやすい柔らかめのフレームを選んでいた。すべてをこのレースに合わせての優勝だった。 文・写真/安藤啓一
- どんな人でも海は楽しめる!~中谷正義~
どんな人でも海は楽しめる!~中谷正義~
- 中谷は、遅咲きのサーファーだ。出身は千葉県だが、サーフィンを始めたのは27歳を過ぎてから。友達のすすめだった。まるで何かに取り憑かれたかのように海に通うようになった。 波は同じようなシチュエーションで立つことはない。毎回、違う形、力をもった波と感覚を研ぎ澄ましながら戯れて楽しむサーフィンは、中谷を夢中にさせた。プロを目指したわけではないが、足繁く海へと通ったことでショップからのサポートを受けるまでの腕前になった。 中谷は、現在も仕事の合間をみては海へ向かう。ただ、向かう目的は現在と昔とではだいぶ変わった。サーフィンを始めた頃は、それこそうまくなりたい一心で海へと足を運んだが、50歳になった今は、それこそいい波が立つ条件の時は、自分のために海へ向かうが、波が小さいような時は、障がいをもった人々を誘い、海へと向かう。 「障がい者のほとんどが、海を楽しむことなんてとんでもない、絶対にムリ!と、思っています。でも、そんなことはありません。半信半疑な障がい者を海に連れて行き、サーフボードやカヌー、ボディーボードで海に入ると、それだけでみんなとても喜びます。ロングボードを使いタンデム(ふたり乗り)で波に乗ろうものなら、心の底から楽しい!といった表情を見せてくれます。そんな表情を見ていると、とても幸せな気持ちになります。それが、今の活動の原動力になっています」。 中谷が、障がい者を海へと導く活動を始めたきっかけは東日本大震災まで遡る。普段、建設業に従事する中谷は、震災時に、仮設住宅の建設の仕事で、宮城県の仙台市や多賀城市に出むいた。それは震災直後の4月だった。衝撃的な光景を目にしながら仕事をしつつ、手の空いた時には被災地の知人に支援物資を送り被災者のサポートを行なっていた。しかし、そのサポートも行き詰まり、もっと自分らしい活動ができないかと考えた時に、サーフィンを教えていた知人から、脊髄損傷の人たちを海に入れる活動をしている団体を紹介される。 「ボランティアのみなさんと時間を共有し、自分が得意とするサーフィンで障がい者の方々が笑顔になる場面に出くわすと、えも言われぬ感覚を覚えたわけです。あの瞬間があったからこそ、今の自分がある。障がい者の方々に海の楽しさを伝えることをライフワークにしようと覚悟を決めました」。 現在、千葉県を中心に活動を行なう中谷は、これまで脊椎損傷をはじめ、義足や義手、脳性麻痺、弱視、全盲の障がいをもった人々と海をともにした。その人数は、のべ500人ほどになる。 「基本、どんな障がい者でも海に連れていくのが僕のモットー。いろいろと問い合わせがありますが、たとえば右手がない人だったら、僕自身が右手を使わずにサーフィンをしている動画を撮影して、それを見てもらい不安を解消し参加してもらいます」。 とはいえ、障がい者を海へ入れることは、なかなか難しいとも話す。障がい者が乗っているサーフボードのコントロール、周りのサーファーへの配慮などを考えると、サーフィンのスキルの高い人材のサポートが求められるからだ。今後の活動に、上級者のサポートが増えることを願っている。 写真/長谷川義行 取材・文/編集部
- グランドスラム優勝、そして東京2020へ 国枝慎吾(その2)
グランドスラム優勝、そして東京2020へ 国枝慎吾(その2)
- 転機は昨年11月の全米オープンの時にやってきた。6-4、4-6、3-6で初戦敗退という結果。その時の相手は世界1位のヒューイットだった。彼のポジションは、国枝にとってはかつての定位置。それが今は追いつき、そして追い越すべき目標選手だ。 この試合では完敗。数字的にはいいところはなった。 「ショットを打つ時、入らないかもしれないとの思いがあった」 自信をもてないままコートに立っていた。それでも、だいぶよくなってきたと新しいバックハンドの手応えは感じていた。 帰国して自宅マンションのエレベータに乗り、そこの鏡を使ってシャドースイングをしていた時のことだ。 「あることが閃いて、急激にこのスイングの意味が分かった気がした。翌日にコートへ出て打ってみたら、おもしろいように入った」 新生・国枝慎吾が誕生した瞬間だった。 これは世界最強のバックハンドをもつヒューイットと実戦で打ち合ったからこそ掴めたスイングなのかもしれない。 「強い相手と対戦した時は、練習ではできないような実力以上のショットを打てる時がある」 これは別の試合について振り返った時の国枝の話だが、今回の全米オープンにおけるヒューイット戦も同じだったのだろう。 今年の1月、そろそろ結果を出せるのではないかと期待しつつオーストラリア遠征に旅立った。 全豪オープン直前、シドニーオープンの決勝で、ヒューイットに6-4、6-4のストレートで勝つことができた。 「全豪をとれる実感が高まった。自信を得られた」 全豪で優勝できるまで何%の仕上がりなのか、冷静に自分を見極められるようになっていた。 その10日後、全豪オープンで優勝。最強国枝が復活した。 「グランドスラム大会に勝ったことで、気持ちはとても楽になった」 強気で知られる国枝だが、この3年は思い通りのテニスができない不安との戦いを続けていた。金メダルを獲ると言葉にすることで自分を鼓舞しながらも、苦しい日々を過ごしていた。その本心が全豪の優勝で垣間見えた。 「まだ100%とはいえない。進化の途中だ。伸びしろを感じている」 国枝はかつて以上の強気で自信満々に話す。 「これまでよりもパワーがついた。誰よりも試合を組み立てる能力があるから、これで僕の戦術に相手を落とし込める。ショットの完成度を上げることが今の課題だ」 国枝は9歳のころ脊髄腫瘍を発病し、車いすを使うようになる。大好きだった野球ができずふさぎ込んでいた時、母親のすすめで車いすテニス教室に通いはじめた。かつてのインタビューで、こう振り返っている。 「最初の試合は負けて悔しかったけれども、勝負するドキドキがたまらなく楽しかった」 その思いは今でも続いていて、全豪オープン優勝をも引き寄せた。そして勝ちへの思いは東京パラリンピックへの原動力ともなっている。国枝慎吾の最強伝説第2章は始まったばかりだ。 取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、ヨネックス提供
- グランドスラム優勝、そして東京2020へ 国枝慎吾(その1)
グランドスラム優勝、そして東京2020へ 国枝慎吾(その1)
- 今年1月に開催された全豪オープン、国枝慎吾はステファン・ウデを4-6、6-1、7-6(7-3)で下し、3年ぶり9回目の優勝を果たした。第三セットはタイブレークまで持ち込み掴み取った渾身の勝利だった。 かつては無敵を誇っていた国枝だが、グランドスラム優勝は2015年の全米オープン以来。2016年のリオパラリンピックではダブルスで銅メダルを獲得したものの、シングルス三連覇を逃している。3年という長いトンネルから、この全豪優勝でようやく抜け出すことができた。 「勝利の味を思い出した。次は全仏での優勝。その先には東京パラリンピックがある」 グランドスラム優勝から長らく遠ざかっていた理由は右肘のケガ。いわゆるテニスエルボーだ。強烈なバックハンドで世界に君臨してきた国枝だが、その代償として右肘は悲鳴を上げた。リオパラリンピック前には2度目の手術。肘関節のクリーニングをしたものの、痛みが引くことはなかった。 「リオはきつかった」 痛み止めを打ち出場した、当時のことをつぶやくように振り返る。 「ケガさえなければまだ勝てる自信はあった」 それは右肘の故障を抱えたままでは、もう一度グランドスラムで優勝はできないことを意味する。 リオ後の11月からテニスは完全休養。出場を予定していた大会はすべてキャンセルした。4ヶ月間、一切ボールを打たなかった。ケガの不安を抱くことなくコートに立てることが目標だった。 そして翌年2月下旬、もしかしたら完全に痛みが消えているかも知れないと期待して、久しぶりにラケットを握りコートへ出た。しかし、淡い期待はもろくも崩れた。 「右肘の痛みは残っていた」 そしてこの痛みこそが国枝に最後の決断をさせた。フォームの改造だ。 今までと同じフォームを続けていたら、休養して痛みが治まっても再発する可能性がある。そこでトップ選手たちのバックハンドを研究した。リオパラリンピックで金メダルを獲ったアルフィー・ヒューイット(以下、ヒューイット)は、国枝とは違うグリップのバックハンドで攻撃的なテニスをしている。車いす選手に限らず、高めのボールを狙って打ち込める攻撃的なバックハンドは現在のテニスの主流。これまでバックハンドを武器にしてきた国枝は、この新しいバックハンドを手に入れて、ボールの威力を強化したいと考えた。 同時に右肘への負担を減らそうとした。これまでのバックハンドはインパクトの瞬間に手首が曲がり肘の外側にストレスがかかっていた。そこで手首を曲げないグリップに変更。トレーナーとも相談して、痛みのメカニズムを理解したうえで改造に取り組んだ。 それは新しいフォームにしていいのか迷いながらのチャレンジだった。 「昨年11月まで、古いフォームを捨てきれなかった。1歩下がって2歩進むような改造だった」と国枝は振り返る。 一気にグリップの握り方を変えるのではなく、少しずつずらしながら新しいフォームを試すような日々。順位ポイントのプレッシャーがある試合に出場しながらの改造だった。そのため思い切った変更ができなかった。新しいグリップでも、スイングの軌道は昔のままという中途半端な状態だった。