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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

Road to 平昌~アルペンスキー~(その3)

Road to 平昌~アルペンスキー~(その3)

女子スタンディングは日本体育大学スキー部の本堂杏実が優勝。女子シッティングで優勝した村岡桃佳は男子入賞者を上回るタイムだった。速報掲示を見た村岡は「スピードが出ていると感じていた」と言い、今シーズン取り組んできた練習の手応えを感じていた。 最終日は大回転2戦目。男子シッティングは狩野が優勝。男子スタンディングは三澤が連勝した。女子スタンディングでは本堂が前日に続き勝った。 3月下旬の大会では、気温上昇で柔らかくなった雪のため、思い通りのすべりをしにくくなることが多い。今大会でも好天、雨交じりの降雪、霧と、レースコンディションがめまぐるしく変化した。こうした環境に対応するスキーテクニックもアルペンレーサーには求めらる。そこは世界トップレベルの日本代表選手たち。状況に合わせてすべることで結果を出したのはさすがだ。 今回のジャパンパラ競技大会では若い選手たちの活躍が目立った。次世代育成選手として高橋、本堂、チェアスキーの佐藤林平(飯山高校スキー部)が代表合宿や一部の海外遠征に参加している。 本堂はU 18ラグビーの日本代表に選抜された経験があり、ラグビー部で日本代表を目指していたところ、スキー監督にスカウトされた。 日体大スキー部部長の竹越誠氏は、「体力測定で運動能力が優れていた。スキー経験があると聞いて、実際にすべらせたところ可能性を感じた。目標はパラリンピック」と期待する。 長野県在住の佐藤は、代表選手が拠点としている県内スキー場で代表チームの練習に参加してきた。「先輩(森井大輝)から丁寧なエッジングをするようにとアドバイスをもらった」と言い、世界チャンピオンの背中を追いかける。 今年はいよいよパラリンピックシーズンだ。ワールドカップ総合優勝を通算3回、世界選手権でも優勝しているメダルコレクターの森井が、手にしていないパラリンピックの金メダルを獲ることはできるのか。また着実にランキングを上げてきた村岡のすべりからも目が離せない。 写真/高須力、安藤啓一 取材・文/安藤啓一
Road to 平昌~アルペンスキー~(その2)

Road to 平昌~アルペンスキー~(その2)

ここでアルペンスキー競技の種目について説明しておこう。ターン半径が大きくてスピードの速い種目から、滑降(DH)、スーパー大回転(S G)、大回転(G S)、回転(SL)がある。またパラリンピックではスタンディング、シッティング、視覚障がいの3カテゴリーに分かれて競技が行なわれる。スタンディング(立位)は四肢切断や手足のマヒといった障がいの選手たち。シッティング(座位)は下肢などの障がいがありチェアスキーを使用する。視覚障害には弱視の選手も含まれる。 大まかなカテゴリーなので、スタンディングでも片足切断、片腕切断、両下肢マヒといったさまざまな障がいの選手たちが一緒にレースをすることになる。当然、障がいの状態はタイムにも影響してくる。そこでカテゴリー内でも障がいごとの細かいクラス分けが行なわれている。さらに、それぞれのクラスごとでハンデとして付与される係数を実測タイムに乗ずることで計算タイムを算出。計算タイムで順位が決まる。複雑ではあるが、このような工夫によってフェアにレースが行なわれている。 大会初日の回転は、ワールドカップからの帰国が間に合わないトップ選手たちが不在のなか行なわれた。男子スタンディングで優勝した高橋幸平は盛岡農業高校スキー部所属のジュニア選手だ。 大会2日目の大回転から日本代表選手も参戦。男子スタンディングでは片足切断の三澤拓が圧倒的な速さで優勝。2位は高校生の高橋だった。 三澤は「同じカテゴリーに後輩選手が出てきて、うれしいですね。彼が強い選手になるまで、自分は高いレベルに居続けて見本となりたい」と話していた。 男子シッティングは鈴木猛史が優勝。2位狩野亮、3位夏目堅司の日本代表選手が表彰台を独占。世界レベルのすべりを見せつけた。
Road to 平昌~アルペンスキー~(その1)

Road to 平昌~アルペンスキー~(その1)

日本アルペンスキーチームが絶好調だ。昨シーズンは、チェアスキーの森井大輝がワールドカップ総合優勝。しかも連覇だ。同じくチェアスキーの狩野亮も種目別ランキングで滑降2位に入った。 国際パラリンピック委員会(IPC)公認のアルペンスキーワールドカップは全7戦の総合成績で競われる。昨シーズンは平昌冬季パラリンピックのプレシーズンということで、そのテストレースも兼ねた最終戦を韓国で開催。それに合わせて、3月上旬に白馬八方尾根スキー場で白馬大会が行なわれた。2007│ 08シーズン以来という久しぶりの日本開催だ。 白馬大会では長野オリンピック女子滑降コースを使用して、大回転とスーパー大回転の2種目が行なわれた。この大会でひときわ輝いていたのが、女子チェアスキーの村岡桃佳だ。 日本の男子チェアスキーには森井のほか、狩野亮、鈴木猛史など、世界大会で優勝経験のある選手が多い。村岡はキャリアの浅い大学生レーサーだが、雪上で男子選手らと一緒にトレーニングをすることで、世界最速のテクニックを身につけてきた。そして今回の白馬大会でついにワールドカップ初優勝。 「ランキング上位の選手たちが出場していたこのレースで勝てたことがうれしい」と村岡。電光掲示板にレース結果が表示されるとヨーロッパの選手たちからも祝福されていた。 大会後、日本チームも韓国大会へと移動。その後、3月下旬に再び白馬で開催された2017ジャパンパラアルペンスキー競技大会でシーズンを締めくくった。 ジャパンパラ大会は国際大会で活躍する選手強化を目的とした、国内最高峰の大会だ。この大会の成績により日本代表に選考され、ワールドカップやヨーロッパカップへ出場するチャンスをつかむことができる。また、パラリンピックを目指すレーサーの登竜門でもあり、世界チャンピオンの森井も、この大会でその才能を見いだされた選手だ。
ハンドバイク琵琶湖一週チャレンジ(その2)

ハンドバイク琵琶湖一週チャレンジ(その2)

スタート地点の米プラザを深夜に越え琵琶湖の南側に進路を取り、比叡山の麓を走る頃には誰もが睡魔に襲われた。ハンドバイクを進めるのもままならない状態に。それでも、1日かけて走り切ることを目標に、脳みそをだましだましハンドルを漕ぐメンバー。ただ、最終的には安全運転を考え、チャレンジ唯一の仮眠をとることにする。 「100㎞を過ぎてから、持病の手首の痛みと手のひらにできたマメの痛みが加わって、なかなか生きた心地がしなかった。さらに睡魔が襲ってきて。とにかく精神的に厳しかった」(青木) 「飲み水はなくなるし、お腹も空いてクラクラ状態に。コンビニに辿り着くまでとても辛かったです」(松本) しばしの休息を取り、改めてハンドルを漕ぎ出す。東の空が少しずつ明るくなり、再び広大な琵琶湖の光景が目の前に広がる。メンバーは、元気を取り戻したかのようにラストスパート。 午前6時半。スタートとは逆の東側から琵琶湖大橋を渡り始めた。ひと漕ぎひと漕ぎ、路面から伝わる振動を感じながらスピードを維持する。午前7時。ひとりの脱落者もなく、無事にビワイチゴール。走行時間20時間半。走行距離187㎞。誰もが、疲労困憊のなか何とも言えない達成感を味わっていた。そして、ハンドバイクだからこそ味わえる爽快感を、野島が次のように語った。 「クルマでは気づかないこと、味わえない感覚をハンドバイクは楽しませてくれる。太陽の熱や風、花や木々の香り、朝日に包まれる光景、昼間の強い太陽、夕焼け。自然を、四季をダイレクトに感じられ生きていることを実感できる。だから、ハンドバイクは楽しいし、チャレンジがやめられない」 障がいがあってもチャレンジすることを恐れない姿を示した彼ら。最後に、野島がこう宣言した。 「試練が多いほどゴールをしてからの感動、そして達成感が大きい。だからまた新たなチャレンジをします!」 次は、何処へ! 写真/甲斐啓二郎 文/編集部
ハンドバイク琵琶湖一週チャレンジ(その1)

ハンドバイク琵琶湖一週チャレンジ(その1)

ハンドバイクとは、駆動も操舵も手で行なうことができる三輪車。クランクとハンドルが一体化した一輪車を車いすに取り付けることで、三輪車状態にするシステムもある(今回使用)。通常の車いすより高いスピード域で走ることができ、ロングライドも可能だ。ハンドバイクを手にしてからというもの、野島 弘は車いすでさまざまなチャレンジをしてきた。富士五湖走破、東北200㎞横断、佐渡島一周、八丈島一周、しまなみ海道走破。そして、新たに目指したのは琵琶湖一周。それも昼夜をかけて一気に走り切るというもの。このチャレンジに帯同したのが、青木 大と松本 亘。そして、松本の職場の同僚・松永万澄が、サポートとして自転車で参加した。 7月1日(土)、気温が30度を超える高温多湿のなか、道の駅「びわ湖大橋米プラザ(以下、米プラザ)」を午前10時半にスタート。琵琶湖大橋を渡り、時速20㎞を保ち順調に走る。途中、休憩をとりつつ湖の東岸を走り北を目指す。 「ロングライドは、疲れた時にいかにメンバーのやる気を出させるかがポイント。それぞれの自尊心を傷つけずに言葉で、そして走りで引っ張っていく必要がある」とは、野島。今回のチャレンジの発起人でありリーダーは、常にチームの先頭をキープし、仲間たちのペースを考えながら走りをリード。ちなみに、チーム164ハンドバイカーズの164はヒロシ(野島)の当て字。 今回のチャレンジは、タイヤのパンクやマシントラブルがなく、終始順調にハンドバイクを走らせることができた。しかし、そのなかでもハイライトと言えば、湖の北側から米プラザまで戻ってくる夕方から夜間にかけての走行だ。とくに道の駅「湖北水鳥ステーション」から、賤ヶ岳(しずがたけ)にかけての走行は、ちょうど夕方から夜にかけての走行となり、ここで懸念していた雨が降り出した。さらに、長い坂道が続き、メンバーたちの体力と気力を一気に奪った。 「峠越えは厳しかったですね(笑)。辛かったわけじゃないけど、とにかく長かった。雨でタイヤもすべるし、いつ終わるのかと。でも、進まないわけにいかないし」と、笑いながら松本は話した。そして、峠から米プラザにかけての道で、唯一道を間違える。 「道を間違えたというのと、真っ暗闇のなかを走る恐さ、幽○みたいな人とも遭遇して、みんなで妙にハイテンションになってかっ飛ばしたのがやけにおもしろかった」とは、青木。
オーダーメイドが生み出す揺るぎない信頼感 山田 賀久【エンジニア】(その2)

オーダーメイドが生み出す揺るぎない信頼感 山田 賀久【エンジニア】(その2)

現在、日進医療器のスポーツ用車いすのラインナップは、バスケットボール、テニス、レース用、チェアスキーの4種目のモデルを用意。 レース用モデルには、軽量で剛性が高いカーボンをメインフレームに使ったモデルとオールアルミのモデルがある。軽ければいいというものではなく、素材によってモデルの特性が変わるのだそうだ。 「選手用モデルは選手の身体に合わせないといけないのですが、フルカーボンは作ったあと、5㎜動かしたくても動かせない。アルミだと手直しができるので、カーボンはメインフレームだけに使っています。また、カーボンは振動吸収性が高いのでトラック競技よりもマラソンのほうが向いているという人もいますが、逆にアルミのほうがいいという人もいます。柔らか過ぎるとパワーが逃げてしまい、硬過ぎると身体への衝撃が大きくなってしまう。種目によって向き不向きがあり、選手の好みによって選べるようにしています」 もちろんスポーツ用モデルでも、注目はオーダーメイドモデルだ。 「多くのメーカーは、標準仕様のモデルがあって、そこから寸法などを選ぶといった方法です。日進は標準仕様のモデルもありますが、フレームのいろいろな部分を曲げたり、その選手に合わせた形を作っていくフルオーダー方式のモデルもあります。多くのメーカーは、ここまで極端なオーダーはやっていません。日進は一般向けの車いすでもオーダーメイドが得意の分野なので、スポーツ用車いすでも選手が納得のいく車いすを作っています」 フルオーダーだと、選手の体格などに合わせて、すべての部品を製作しなければならなくなる。そうなると各分野のエキスパート、熟練した〝職人〟の技の見せ所だ。とくに溶接の技術には定評があり、耐久性の高さは使用した選手のお墨付きだ。アルミフレームの加工技術にも優れ、パイプの円形を保ちながら曲げる技術は、職人芸といっていいだろう。 車いすを作り続けて50年以上の歴史を誇る日進医療器。次はどんな車いすを開発するのか、今から楽しみだ。   写真/高須 力、辻野 聡 文/辻野 聡
レーシングカー開発で培われたカーボン成形技術 東レ・カーボンマジック株式会社(その2)

レーシングカー開発で培われたカーボン成形技術 東レ・カーボンマジック株式会社(その2)

競技用義足を開発するうえで難しいのは、人間の身体の一部になるということ。バネ=筋肉と構造=骨の機能を、板バネだけで賄わなければならないからだ。 「違和感なく使えて、地面を踏み込んだ時の上向きの力を、いかに前向きの力に変えるか。選手によって、走り方、体格、筋肉の付き方が異なるなかで、どれだけ人への適合性を見いだせるかで、どこまで義足の性能を引き出せるかが変わってきます」 健常者よりも速く走ることは、技術的には可能なのだろうか? 「理論的には人間の筋肉のバネ性よりも高められると思います。しかし、いくら義足の性能を高めても、それを装着した人間が使いこなせないと何にもならない。競技用義足は、人の脚力に応じて積層構成を変えるのですが、いちばん踏み込んだ時に100㎜以上たわんでいます。カーボンコンポジット素材を、ここまで限界に近いところまでたわませて使うというのはそうはない。究極の使い方かもしれません」 このようにカーボンコンポジット素材の性能を極められるのは、東レ・カーボンマジックが「オートクレーブ法」という製造方法を得意としているから。 オートクレーブ法とは、型にプリプレグ(カーボンシート)を何層にも張り合わせ、型をバッグフィルムで覆って空気を抜いて密着させ、オートクレーブで加熱・加圧して硬化させる成形法のこと。 手間とコストがかかり大規模な施設が必要な反面、成形の自由度が高く複雑な形状のものも作ることができ、ある方向への強度を高めたり、変形量を制御したり、材料の物性を設計することができる特長をもっている。 東レ・カーボンマジックは、近年の目覚ましいカーボン技術の進歩により、求める性能を引き出せるようになり、また15年にタイに第2工場を建設。生産能力を拡大し、さらなるコストダウンを実現。 これらの理由により、カーボンコンポジット製品が広く使われるようになってきた。 しかし、製法は依然として手作業に依存しているので、高い強度を保ったまま量産化できるような技術が開発されれば、さらにコストダウンが可能になり、カーボンコンポジット製品が今まで以上にもっといろいろな用途に使われるはず。カーボンには、まだまだ可能性が秘められているのだ。 近い将来、義足使用者の誰もがカーボン製の競技用義足を使用して走れる日が、きっと訪れるに違いない。   奥 明栄(おく あきよし) 1956年生まれ。79年に株式会社童夢に入社し、レーシングカーなど約30機種の設計・開発を担当。カーボンコンポジット製法も考案。13年に東レ・カーボンマジックの取締役副社長兼CTOに就任。現、東レ・カーボンマジック株式会社 代表取締役社長
オーダーメイドが生み出す揺るぎない信頼感 山田 賀久【エンジニア】(その1)

オーダーメイドが生み出す揺るぎない信頼感 山田 賀久【エンジニア】(その1)

今から53年前の1965年から、車いすの製造を行なっている日進医療器。老舗の車いすメーカーだ。 64年に創業者の松永和男氏が、東京オリンピックの後のパラリンピックで、障がいのある選手が車いすを自在に操作する姿に感動。これから車いすの需要が高くなると考えたのが、車いすを作り始めたきっかけ。現在では業界のシェア30%を占めているトップブランドだ。 常に革新的なモデルを開発し、時代をリードしてきた。87年にはチタン製、88年にはカーボン製の車いすを開発。04年には世界初の4輪駆動電動車いすを世に送り出すなど、あらゆるニーズに対応すべく、さまざまな種類の車いすを生み出している。 日進医療器が得意とするのはオーダーメイド。体型や障がいの場所、程度が異なる障がい者のすべての人が使いやすい製品にするためには、既製品では不可能なのだ。オーダーメイドに限定すると、業界のシェアが60%にもなり、圧倒的な人気を誇っている。 「重い障がいをもったお客様のための車いすは形が複雑なのですが、無理だと決めつけて断ってしまっては何も始まりません。最初は苦労しますが、開発や製造にいろいろなノウハウを蓄積することができ、後々の車いすの開発時に生かすことができるからです」 このオーダーメイドの技術は、スポーツ競技用車いすの開発に大いに役立っている。スポーツ用車いすは、会社の草創期から手がけ始め、81年から本格化。選手によって体格や好みが異なるので、オーダーメイドの技術は欠かせない。 「とくにレーサー用モデルは、身体にぴったりと合っていなければタイムが出ません。幅や前傾角度など、選手から聞いたことを、きちんと形にすることが私たちの仕事です。選手からの要望が細かいので、どうしてそうしたいのか理由まで聞かないと、意図したものが図面にできないし、こちらから別のアプローチもできません。できたものがミリ単位でズレていてもダメです。若い頃にバックサポートシートの張り具合を勝手にいじってしまい、選手から大変なお叱りを頂いたこともあります。動きに制約がある選手にとって、少しでもポジションが変わると大問題。すごくシビアに気を使って製作しています」
レーシングカー開発で培われたカーボン成形技術 東レ・カーボンマジック株式会社(その1)

レーシングカー開発で培われたカーボン成形技術 東レ・カーボンマジック株式会社(その1)

軽量で高い強度をもつ素材として、さまざまな用途に使用されているカーボン。身近なところでは、ゴルフのシャフトや釣竿、テニスラケット、自転車のフレームなどがあり、最先端分野では、レーシングカー、航空機、宇宙ロケットにまで使用されている。 一般的にカーボンと言われている素材は、正式名称を炭素繊維強化プラスチック(CFRP)といい、樹脂に炭素(カーボン)繊維を組み合わせたシート状の複合材(プリプレグ)を型に張り合わせ、さらに加熱加圧することで製造される。製造工程は、ほぼ手作業で行なわれ、成形加工を行なうには大規模な施設が必要なため、時間とコストがかかり、他の素材よりも高価なのが特徴だ。 このカーボンの成形加工において、国内でも屈指の技術力を誇るのが、東レ・カーボンマジックだ。元々はレーシングカーを開発していた「童夢」が2001年に設立した「童夢カーボンマジック」という会社だったが、13年に東レの傘下になり現在の社名に変更された。 長年にわたるレーシングカー開発で培われた、優れた軽量化設計技術とCFRP成形加工技術により、現在ではさまざまなカーボンコンポジット製品を製造している。 多くのノウハウが蓄積されている東レ・カーボンマジックだが、15年より始まったサイボーグ社との競技用義足の共同開発は、それほど簡単なものではなかったそうだ。 そのあたりのことを社長の奥氏に聞いてみた。 「パラスポーツの原動力は、あくまでも人力なので、与えられるエネルギーが小さい。そのためディテールが大事となり、一般的な製品より非常に緻密な開発が要求されます。それに加え、これほど弾性変形を伴う製品は稀で、経験が不足していました。 また、通常は、いろいろなリスクを織り込まないといけないので、性能に余裕をもった製品になりますが、アスリートが使用するものは高い要求を満たすシビアな性能、バランスが必要です。しかも、その製品をアスリートの成長に合わせてタイムリーに開発しないといけないので非常に難しかったですね」
バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その2)

バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その2)

「たとえば、センターの中心部では、ちょっとした記者会見ができるスペースを設けてあります。ある競技団体が記者会見を開催したとします。すると、そこで何をしているかが丸見えになります。また、その記者会見の様子がテレビで放送されたり、記事としてさまざまなメデイアに掲載されると、行動したことによって生まれた成果をリアルに体感できるわけです。記者会見でどんなことをすればいいのかリアルに体感できるわけです。記者会見でどんなことをすればいいのか、効果がどういう形であらわれるのかを知ることで、それまで記者会見などをしたことがなかった競技団体が『自分たちもやってみよう』と行動へと移すことができるようになります。そして、これまで経験がないことであれば、パラサポや周囲の団体に質問を投げかけ、人同士のコミュニケーションも生まれます。結果として、物理的なバリアを取り払うことで心のバリアも取り払われるといういい効果が生まれ、これがチームパラリンピックとしての空間をつくっていくのです」(渡邉) オリンピック種目の競技団体のように大きな枠組みで活動できないところがまだまだ多いパラリンピックの競技団体。しかし、パラサポや関係団体とともにさまざまな課題に取り組むことで、確実に力をつけていることもまた事実。そして、ここに「よくできている」の真意があると言えるだろう。 徐々にそして確実に進化するパラリンピック競技団体。この先、パラスポーツをどう盛り上げていくのだろう。そして、20年の東京は、どのようなパラリンピックになるのか、期待せずにはいられない。   写真/甲斐啓二郎 文/編集部
パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その2)

パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その2)

スポーツは陸上競技で1992年のバルセロナパラリンピックの出場を目指していました。 まだ国内ではパラリンピックが知られていませんでしたが、ソウル大会に出場した先輩からオリンピックと同じような世界大会であると聞かされていました。 バルセロナ大会は代表選手に選ばれませんでしたが、今度はウィルチェアーラグビーで世界に挑戦してきました。 ある時、アメリカには四肢マヒ障がい者が車いすでぶつかり合うコンタクトスポーツがあると知りました。それがウィルチェアーラグビーだったのです。そしてフロリダで開催されたマラソン大会に出場した時、アメリカのウィルチェアーラグビーチームを訪問するチャンスがありました。その時この競技が96年のアトランタパラリンピックで公開種目となり、2000年のシドニー大会からパラリンピックの正式種目なるという情報を聞いたんです。 それで帰国後、97年に仲間と国内組織を立ち上げ、私は選手としてプレーしながら、競技普及や選手強化に取り組んできました。もう一度、パラリンピックに挑戦できると夢中になり、給料の多くをウィルチェアーラグビーに費やしました。 競技にはとてもお金がかかります。海外遠征では競技用車いすの運賃もかかるので、1回出かけると50万円ほどかかりました。私は会社員でしたが、なかには保険金を切り崩しながら競技を続けていた人もいたようです。最近はアスリート雇用でパラリンピック選手をサポートする企業が増えてきたことはうれしいことですね。 日本チームはついに2004年のアテネ大会でパラリンピック出場の夢をかなえました。ウィルチェアーラグビーと出会ってから8年目です。そしてこの大会を最後に私は現役を引退しました。 燃え尽きました。妻にはとても負担をかけていたと思います。週末はいつもラグビーだったので、いいかげんにしてよと怒った妻に、競技用車いすを私の手の届かないところに片づけられたこともありました。懐かしい話です。 しばらく日本代表チームとの関わりはなかったのですが、東京パラリンピックに向けてアシスタントコーチになってほしいと誘われました。そのことを会社に相談すると、応援していただけることになり、本社広報部に異動となりました。今は合宿に参加できるように業務を調整してもらっています。 会社は「東京2020 ゴールドパートナー」や日本ウィルチェアーラグビー連盟のオフィシャルパートナーになっています。私はアスリート雇用ではなく一般社員ですが、障害者が競技や仕事を続ける先例としてお役に立てればいいなと思っています。   ふくい・まさひろ(51) ウィルチェアーラグビー日本代表チーム・アシスタントコーチ。22歳の時、交通事故で受傷。知人らと日本にウィルチェアーラグビーを紹介した。日本チームがパラリンピックに初出場したアテネ大会で選手を引退。2017年4月から現職。三井不動産株式会社で働きながらトップアスリートとして挑戦してきた
バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その1)

バリアをなくして導き出すチームパラリンピックのムーブメント(その1)

2016年ブラジルのリオ、18年韓国の平昌、20年の東京パラリンピックにおいて正式競技となっている競技の、日本の競技団体のオフィスが並ぶのが日本財団パラリンピックサポートセンター(以下、パラサポ)。建物のワンフロアを使用したセンターは、28の競技団体と日本パラリンピック委員会、パラリンピアンズ協会、そしてパラスポの共同オフィスとなっている。このようにパラリンピックの競技団体が一堂に会す施設は、他に例を見ない。センターはとても広々としていて、フロアはフルフラット。バリアフリーのアイデアが随所に見られ、車いすユーザーもストレスフリーだ。競技団体同士の間には間仕切りがなく、非常に風通しのいい空間となっている。 「フロア内は、ふたつの会議室以外はとくに仕切るものはありません。センター内で何が行なわれているか誰もがわかるような状況は、さまざまなものをフリーにします。たとえば、競技団体の枠組みを越え、情報の共有化、さまざまなノウハウの共有化にひと役買っています」と話すのは、センターの広報部・プロジェクトリーダー渡邉昭子。 15年にこのセンターを立ち上げるにあたり、パラサポでは各競技団体にヒアリング調査を行なった。そこで見えてきたのが、競技団体の多くが専従スタッフがいない非常に小規模な形態で運営を行なっているということ。広報活動や記者会見などを行なうノウハウやリソースがない競技団体がほとんどだった。それをふまえたうえで、パラサポがこのセンターでの役割として担っているのが、各競技団体の組織基盤や広報力の強化と自立にある。

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