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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その1)

パラリンピアン会社員、東京パラリンピックで金メダルに挑戦 福井 正浩(その1)

オートバイで走行していた時、自動車に衝突された事故で頸部を骨折したのは22歳の時です。その頃はアルバイトを掛けもちしながら250㏄クラスのバイクレーサーとして夢を追いかけていました。 パラスポーツとの出会いはリハビリテーションで入院していた国立療養所村山病院(現村山医療センター)。職員や先輩患者から陸上競技に誘われました。首のケガについて専門的に治療している病院ですが、そこで健康増進のために陸上競技をはじめました。 全国障害者スポーツ大会に東京都代表で出場したことは懐かしい思い出です。陸上競技用車いすは中古を譲ってもらい、東京都多摩障害者スポーツセンターやサイクリングロードで練習していました。 スポーツで知り合った仲間と一緒に車いすの重度障がい者が参加しやすいツインバスケットボールも始めました。とにかくスポーツはいいですよ。障がい者が本気で競い合えるところが魅力です。 障がい者になった時、スポーツは生活復帰のために、なくてはならないものでした。スポーツをすることで、自分と同じ障がいの人と知り合えます。その人たちが自宅に戻ってから、どういった生活をしているのか、すごく興味がありました。仕事をしているのであれば、どういった業務を担当しているのか教えてもらいました。車いすで乗降しやすい車高はどの車種なのか相談したり、試乗もさせてもらいました。 病院では、専門的なサポートを受けました。障害が出ていない残存機能を使って生活するための指導もありました。ただ障がい者の目線からのアドバイスはとても実感がこもってるので頼りになしました。 いまの会社を紹介してくれたのは、スポーツで知り合った先輩です。私が就職活動をしていると聞いて、スポーツをするほど元気なら正社員として働けるだろうと言ってくれました。昨年まではビル管理のグループ会社に出向していました。テナント様との交渉のために物件へ出向くことも日常的にありました。車いすで移動できない場所がある時は、同僚が介助してくれるので問題ありません。車いすの社員が働いていることは、社員が自社のホスピタリティを意識するきっかけになると思います。それは不動産事業をしている会社にとって大切なことです。建物や地域のバリアフリーを検証してほしいと私が呼ばれることもあります。
青空の下 ゴルフはやっぱり心地いい!(その2)

青空の下 ゴルフはやっぱり心地いい!(その2)

38歳の時に脳出血で片マヒになった村田信廣さん・44歳は、ゴルフに熱中するあまり、今ではゴルフ場に勤務。  「片マヒになってから、この障がいがどういうものか徹底的にインターネットで調べたんですね。そしたら、片マヒゴルフのこと、DGAのことに出くわしたんです。ゴルフなんてできると思ってなかったし、両手じゃないとできないと思っていたから、片手でドライバーを持ちボールを打つ動画を見た時は衝撃で、その動画を繰り返し見たんです。もう夢中でした。それからいっきに道具を揃えて、ゴルフにはまって。とにかくうまくなりたい一心で、今はゴルフ場で働いています(笑)。大会には片マヒになった翌年から参加しています。プレーをすることも楽しいですし、同じような境遇の友達ができるのがうれしい」  前夜祭で協会長の佐藤成定さんが、次のようにおっしゃった。  「ゴルフを楽しんで、片マヒを、障がいを乗り越えましょう。とにかく、ゴルフを楽しむことに尽きる」  時おり初夏を思わせる日差しのなか、一日中ボールを打ち続けた参加者たち。障がいをもつことで、多少の不自由を感じながらも心からゴルフを楽しむ姿に、悲壮感はまったくなかった。思い切りよくドライバーを振り、芝を読みラインをつなぐ。そこには、ゴルフに対して前向きな人々の姿があった。 写真・文/編集部  協力/日本障害者ゴルフ協会
誰もが走れる未来を目指して 遠藤 謙【エンジニア】(その2)

誰もが走れる未来を目指して 遠藤 謙【エンジニア】(その2)

開発の手順は、形状や重さなどの基本仕様は遠藤氏が設計し、東レ・カーボンマジックがカーボンの種類、積層などを考え、いろいろなオプションのなかから最終的に遠藤氏がチョイスをするというもの。  東レ側が体制を整えて開発が始まり、試行錯誤を繰り返しながら1年でスポーツ用義足、サイボーグジェネシスが誕生した。しかし、スポーツ用義足は開発の歴史が浅く、未知の部分が多い。このモデルも最終形ではなく、まだまだ改良する余地はある。  「外国のメーカーのスポーツ用義足と肩を並べるところまでは来たと思うのですが、答えが未だにわからないんです。どうやったら速くなるのか正直わからない。答えがないところを、自分たちで仮説を作って検証していくプロセスが、スポーツの最高峰だと思うのですが、それはパラスポーツも同じ。足がない選手が、どういう練習をして、どんな義足を履いたら速く走れるか、仮説を立てて実証実験しているのが我々がやっていること。カーボンはとくに難しい素材なので、開発にお金と時間がかかり、製造するのも時間がかかる。それを効率よくやるのは、すごく難しい」。  サイボーグのラボがあるのは、東京の江東区、新豊洲ブリリアランニングスタジアム。ここは60m陸上競技トラックを備えた、全天候型の施設。ラボに併設されているので、プロダクトをすぐにテストすることができ、サイボーグの選手の練習場所としては、これ以上に理想的な施設はない。
青空の下 ゴルフはやっぱり心地いい!(その1)

青空の下 ゴルフはやっぱり心地いい!(その1)

 日本障害者ゴルフ協会(以下、DGA)が主催する障がい者ゴルフ競技会「片マヒ障害オープンゴルフ選手権」。今回で17回目を迎えた大会は、青森県青森市にある緑豊かなゴルフコース「青森カントリー倶楽部」で開催された。脳梗塞や脳出血で身体の左右どちらかにマヒの症状が発生した人を中心に、車いすや義手、義足を使用するプレーヤー、知的障がい者も参加する大会は、障がい者ゴルファーの社交の場として親しまれ、全国各地から参加者が集まる。  この大会の競技規則は、原則として日本ゴルフ協会(JGA)の競技規則とローカルルールに従うものとし、これに重度障がい者特別ルールを加え、どのような障がいをもったプレーヤーでも公平に楽しくプレーできるように考慮されている。  果たして、実際のプレーを見て感じたことは、健常者の大会と何ら変わらないということ。パーで各ホールをこなす人もいれば、ダブルボギー、トリプルボギーを叩く人もいて、その光景は障がい者だからといって特別な印象を受けることはない。  参加者の多くが、普段からゴルフを楽しんでいる人がほとんどだが、ことさらDGAが主催する大会に参加することを心待ちにしているという。廣田和実(ひろたかずみ)さん・72歳も、そんな参加者のひとりだ。  「脳出血で片マヒになったのが2005年の1月。60歳の時。自分の人生や家族への不安と同時に、会社の仕事も重要な時期にあり、仕事がどうなるのかというのが大きな不安でした。でも、会社は片マヒになった私を受け入れてくれて、最終的に67歳まで仕事をすることができました。片マヒになる以前に楽しんでいたテニス、スキーなどは諦めましたが、リハビリで通っていた病院にDGAのポスターが貼ってあって、『ゴルフだけはできそうだ!』となり、改めて片マヒゴルフに挑戦すべくDGAに入会しました。最初は全然ダメでしたけど、最近はどうにか形になって来て、いつかDGAの大会でタイトルを獲ることが目標です」と、話す。
誰もが走れる未来を目指して 遠藤 謙【エンジニア】(その1)

誰もが走れる未来を目指して 遠藤 謙【エンジニア】(その1)

「誰もが自由に走ることができる社会を作りたい」   そう熱く語ってくれたのが遠藤謙氏。スポーツ用義足、ロボット義足の研究者だ。  遠藤氏は、2008年のオスカー・ピストリウス選手の北京オリンピック出場に関する一連の騒動により、健常者よりも速く走れる可能性を秘めたスポーツ義足に興味をもち、12年にアメリカから帰国後、スポーツ用義足の開発を始めようとする。しかし、当初はなかなかうまくいかなかった。  「最初は、自分たちで会社を立ち上げることは考えておらず、どこかの義足メーカーと協力してやろうと思っていたのですが、実績もお金もないのでどこも相手にしてくれない。そんな状況下で、おもしろそうだから一緒にやろうと言ってくれたのが、為末大(※)だったんです。そして協力してくれる会社が現れて1年共同研究をしたのですが、カーボンが私の手に負えなかった。そんな時、私が所属しているソニーコンピューターサイエンス研究所に、たまたま東レの副社長が来て、紹介してもらって始まったのが東レとの共同研究なんです」  東レは、カーボンファイバーをはじめとする炭素繊維複合材料分野における世界でも有数の企業のひとつで、共同研究をする相手としてはこれ以上のものはない。  実際に義足を製作するのが、東レ・カーボンマジック。この会社は、もともとレーシングカーを製作していた会社で、カーボンの成形技術に関しては、長年蓄積されてきた膨大なノウハウをもっている。   ※為末 大(ためすえ・だい) 2001年と2005年の世界選手権、男子400mハードルで、陸上短距離種目の世界大会で日本人として初のメダル(銅)を獲得。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。 写真・文/辻野 聡
GS優勝をめざして 大谷桃子【車いすテニス】(その3)

GS優勝をめざして 大谷桃子【車いすテニス】(その3)

リターンの強化と、フォアのスイングを改善し、より戦術的に試合を組み立てたいと目論む。 「自分としては男子のプレースタイルが好き。とはいえ、腕に力が入らないから実際にはパワーが少ないんです。上地選手の戦い方はすごく参考になる。どう効果的に打つか、日本人だからこその強みをどう生かすか。一方で、世界の選手がどう上地選手を相手に戦うかを見ることも、とても勉強になります」 テニス経験の豊富な大谷の武器は、サーブだ。麻痺している右腕でも、思い切り振り切って、パワーのあるサーブを打ち込むことができる。 「サービスエースはもちろんですが、リターンのミスを誘うなど、こちらの展開にもっていくようなゲームが自分のもち味。そこをさらに磨いていきたいです」 現在、シングルスの世界ランキングは40位。今年中に20位くらいまであげていきたいという。 「でも、まだ取り組むべきことが多い。試合も大事ですが、じっくり練習にも時間をかけたい」 目指すのは、グランドスラムに出場し優勝すること。 「そして、東京パラリンピックで金メダルを取ること。たくさんある課題をクリアして進んでいきます」 おおたに・ももこ 1995年8月24日、栃木県出身。エイベックス所属。西九州大学2年。兄の影響で小学3年の時に地元のテニスクラブで硬式テニスを始める。中学3年で関東ジュニアに出場。テニス推薦により作新学院高校に進学し、3年の時インターハイのダブルスに出場。卒業後、病気により身体に麻痺が残る。16年に車いすテニスを始め、9月の大阪オープンに初出場し、2位になる。17年6月現在、シングルス世界ランキング40位   (写真/吉村もと 取材・文/宮崎恵理)  
人との繋がりがカーリングの魅力 岩田 勉【車いすカーリング】

人との繋がりがカーリングの魅力 岩田 勉【車いすカーリング】

車いすカーリングが冬季パラリンピックの正式競技になったのは、2006年のトリノ大会から。車いすカーリングは、ストーンを投げた後のスピードや方向を調節するスウィーピングは禁止されているものの、その他のルールは、ほぼ一般のカーリングと同じだ。 今年の5月に行なわれた、第13回日本車いすカーリング選手権大会で、北海道の北見フリーグスが優勝し2連覇を達成。そのチームのセカンドとして安定したショットを放ち、優勝に貢献したのが岩田勉さんだ。 「車いすカーリングは、私が車いす生活になった時に身体を動かす機会がなかったので、何もしていないよりはましだと思い、軽い気持ちで始めたのですが、やってみたらすごくおもしろかった。私の周りは、真剣かつ楽しんで車いすカーリングをやっている人が多く、サポートしてくれている方も含めて、みんな仲がいい。私は人と話をしているのが好きなので、いろいろな人と繋がっているカーリングが大好きなんです」 来年は平昌冬季パラリンピックがあるが、日本は世界ランキング上位ではないので出場権はない。 「目標はパラリンピックで金メダルを穫ることなんですが、パラリンピックに出ないことには始まらない。チームは日本選手権で3連覇する実力はあると思っているので来年3連覇して、まずは世界選手権に出場するのが今の目標です」 北見市といえばLS北見が有名だが、今後は北見フリーグスの活躍にも注目してみよう。 いわた・つとむ 1974年生まれ、北海道北見市出身。33歳の時に仕事中の転落事故により脊髄を損傷し車いす生活に。北見フリーグスの今のキャプテンに誘われて35歳で車いすカーリングを始める。株式会社エスプールヒューマンソリューションズ北見募集受付センター勤務   (文/辻野 聡)
再生、昇華。東京の頂点を目指す 香西宏昭【車いすバスケットボール】(その3)

再生、昇華。東京の頂点を目指す 香西宏昭【車いすバスケットボール】(その3)

ドイツでプレーすること4シーズン。毎年ヨーロッパのクラブナンバー1を争う大会もある。ドイツだけでなくスペインなどのリーグには、アメリカ、カナダなどの強豪国の代表選手が多数在籍する。世界レベルのなかでプレーしていると、本当に強い選手のあり方が見えてくる。 「世界でもトップクラスの選手にはしっかりした裏付けのある判断力が備わっているんですよ。今、誰にパスを出すべきか、崩れた体勢でもシュートを打つべきか。僕にまだ足りないのはそこだと痛感している」 的確な判断力、周囲を冷静に見る視野。そして仲間から本当に信頼されるリーダーシップ。目指すべき姿は明確だ。 「ゲーム全体を考えながら瞬時に判断し、それをプレーとして実現するためには、ベストな状態で40分間戦い抜く身体とココロ、すべてを鍛えておかなくてはいけないから」 だから、チーム香西一丸となって理想を追い求めていくのだ。 「子供の頃から、練習によって少しずつでも自分が成長できることが喜びだったし、今でも車いすバスケを続けている大きなモチベーションになっています」 パラリンピックという大舞台で最高のパフォーマンスを出し切りメダルを獲得する。3年後の東京パラリンピックの前哨戦となる世界選手権が、来年ドイツで開催される。 「今年行なわれるアジアオセアニア選手権で1位をもぎ取って、世界選手権でベスト4。そうして、3年後にはメダル獲得を実現させます」 こうざい・ひろあき 1988年7月14日、千葉県生まれ。NO EXCUSE所属。先天性両下肢欠損(膝上)。小学6年で車いすバスケットボールを始め、高1でU23の日本代表選手に選出。2006年に初の世界選手権に出場。08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロパラリンピック出場。イリノイ大学卒業後、ドイツ・BG Baskets Hamburgに4年間在籍。来季よりLahn-Dillに移籍。クラス分けは3.5     (写真/高須 力、甲斐 啓二郎 取材・文/宮崎 理恵)
「負けん気が元気の源」 別所キミヱ【卓球】(その3)

「負けん気が元気の源」 別所キミヱ【卓球】(その3)

東京2020パラリンピックの話題になると、「生きていたら行けるけど、いつ死ぬかわかりませんから(笑)」と冗談まじりではぐらかす。パラリンピックの重みを知っているからこそ、軽々しく言うことはできないのだそうだ。当面の目標は、来年の世界選手権に出場してメダルを取ること。それが次につながっていく。 そんな別所さんの大切なパートナーが日本郵政。 「日本郵政さんは、13年からサポートしてもらっています。最初はコールセンターで働いていたのですが練習との両立が難しく一度辞めたんです。でも、リオ2016まで一緒に行くと約束してたから、もう1回一緒にやりましょう、と言ってくださって、今もお世話になっています」 まだまだお元気な別所さん。引退するのは先になりそうだ。   べっしょ・きみえ 1949年広島県出身。42歳の時に仙骨に腫瘍ができる病気にかかり、2度の手術の後、車いす生活になる。46歳で卓球を始め、アテネ2004大会、北京2008大会、ロンドン2012大会、リオ2016大会のパラリンピックに出場する     (写真・文/辻野 聡)
シュートで魅せる。原田翔平【車いすバスケ】(その2)

シュートで魅せる。原田翔平【車いすバスケ】(その2)

目標は日本選手権での優勝 「その時にはドリブルのインパクトや体育館の匂いなど懐かしさはあったけど、取り立てて車いすバスケがしたいとは思わなかったんです」 リハビリを終えて埼玉ライオンズに入団して、少しずつ気持ちが変化していった。 車いすバスケを始めた当初、もち点は3・0だった。病状が安定せず入退院を繰り返すなかで、障がいの状態が悪化したという。病状が落ち着き、プレーに集中できるようになったのは、5年ほど前だ。 「バスケの醍醐味は、なんといってもシュート。自分のもち味は、まさにそこだと思っています」 日本選手権で準決勝や決勝に進めば、レベルの高いチームとの厳しい試合が続く。いかに遠くからのシュートを決めるか、瞬時に自分のフォームで打てるかに注力してきた。 今年、日本代表として海外遠征に参加して、さらにシビアな決定率を求めるようになったという。 「代表ではプレータイムが限られる。コートにいる間に打つシュート本数は少ないわけです。2本しか打たないシュートで2本外せば確率は0%。これでは相手の脅威にならない」 帰国後、練習を見直した。これまでたとえば10本のシュート練習で確率を確認していたのを、5本に限定して練習する。 「5本のうち1本決めたら、確率は20%。もし10本あって、残りの5本を全部決めれば60%に上がります。でも、5本の追加ができない状況では、最初の5本で60%の確率がなければ意味がない」 シュートの精度そのものを上げる練習も必要だが、厳しい状況でシュートを決める集中力も重要だ。また、トレーニングで筋力がアップすれば、シュートタッチの感覚を調整する必要もある。常に自分のシュートに向き合わなければ、目標とする決定率を維持することはできない。 冷静に何をすべきかを見極める。 「幼い時から自分と向き合うことに慣れているというか。自分自身をスカウティングしていますね」 王者の背中は見えている そんな原田にとって、バスケ、車いすバスケの魅力とは。 「バスケって、誰もが主役になれるスポーツ。コートに5人、ボールが1個。そのなかでもとくに目を引くのがシュートですよね。車いすバスケでは、どうしても身体が大きく、動きのあるハイポインターに目がいきがちですし、プレーでもハイポインターにボールを集めることが多い。でも、僕がやりたいのは5人がそれぞれに活躍すること。選手のもち点なんか知らなくても、あの選手、かっこいいねというプレーがしたい。気づいたら、それは1・0の原田だった、というような」 そういうプレーを発揮して目指すところとは。 「日本一です。埼玉ライオンズの仲間と日本選手権で優勝すること」 しかし、それには大会9連覇中の宮城MAXという怪物が立ちはだかる。 「トーナメントで1試合も取りこぼさずに9年間。どんな世界だって思うけど、今は王者の背中が見えてきている。勝負できるところに来たという実感があります。いつ、その背中を追い越せるか」 虎視眈々と己の牙を研ぎながら、原田は最高のプレーを見せる日を心待ちにしている。   はらだ・しょうへい 1990年1月13日、埼玉県生まれ。埼玉ライオンズ、バカラ・パシフィック所属。小学5年でミニバスケットボールを始め、バスケで全国大会に出場したいと強豪の福島県立福島工業高校に進学。小学生の時からポジションはガード。16歳の時に脊髄腫瘍が見つかり、手術の後麻痺が残った。直後は立って歩くことができたが、病状の悪化に伴い車いす生活となった。リハビリ病院入院中に車いすバスケに出会い、退院後チームに所属。もち点は1.0   (写真/吉村もと 取材・文/宮崎恵理)
GS優勝をめざして 大谷桃子【車いすテニス】(その2)

GS優勝をめざして 大谷桃子【車いすテニス】(その2)

「大学に入ってから、去年、初めてジャパンオープンを見に行ったんです。たくさんの海外選手に交じって日本人選手が長い長いラリーをしていた。それを見て、ああ、こういう試合がしたいって、むくむくと闘志が沸き起こったんですね」 そこから、車いすテニスを指導してくれるコーチ探しが始まる。理学療法士の紹介で、現在の古賀雅博コーチに出会った。 「僕もテニスのコーチはしているけれど、車いすテニスの指導経験はない。先輩に相談したら、きっと君ならできると背中を押されて」(古賀) 選手とコーチの二人三脚。車いすテニスへの挑戦が始まったのだった。 「テニスのスキルはなんとかなる。でも、車いすの操作は未熟。だから、古賀コーチとの練習の1時間前にはコートに来て、一人で走り込みをしてました。でも、どういう練習をしたら効果的なのか、まったくわからない。テレビやインターネットの動画で参考になりそうなものを見つけては、片っ端から真似してましたね」 2016年9月、初めて大阪オープンに出場。 「2回戦で韓国の選手と対戦して、勝ったんです!」 この勝利が、大きなきっかけになった。大阪オープン、その1ヶ月後に行なわれた広島オープンで準優勝。11月に国内のトップ選手が出場できる選抜選手権(マスターズ)に出場し、決勝で上地結衣と対戦。第1セットで上地を追い詰めたが、惜しくも準優勝に終わった。 「広島オープンでは、大阪の決勝で負けた相手に、11月のマスターズでは広島オープンの決勝で負けた相手にリベンジできた。大会に出場することで、何を改善すべきかがやっと見えるようになりました」 1月のマスターズには、男子の先輩選手の競技用車いすを借りて出場した。自分専用のテニス車をオーダー、入手したのは、今年2月に入ってからだ。 「以前レンタルしていた車いすは背もたれやサイドが高くて、プレー中によく肘が当たってアザができていたんです。だからこれを低く設定して作ってもらいました。また、足が痙攣することがあるので、両足の前と後ろに固定するためのベルトをつけています」 マイ車いすとともに、今年5月、昨年は観戦していたジャパンオープンに出場。メインドロー2回戦でオランダのディード・デグルートと対戦し敗退した。デグルートは現在世界ランキング3位の選手だ。 「日本には世界ランク1位の上地選手がいますが、ディード選手は上地選手とはまったく違う球種や球筋。負けたけど、本当に世界を目指すための課題と目標が明確になりました」   (写真/吉村もと 取材・文/宮崎恵理)
再生、昇華。東京の頂点を目指す 香西宏昭【車いすバスケットボール】(その2)

再生、昇華。東京の頂点を目指す 香西宏昭【車いすバスケットボール】(その2)

「点差が拮抗している状態で、無理やり得点しようとしてカウンターを食らい、そのままズルズルと引き離されてしまったんです」 チームの要でありながら、自信を失う。戸惑い、葛藤、迷い。 「4年間練習を積んできたはずなのに全然足りなかったのでは、という後悔が頭をよぎった。そういう思いは、もう絶対にしたくない。全力でやりきってパラリンピックの舞台で悔いのないプレーがしたい」 リオパラリンピックは、香西の車いすバスケ人生において、真にリスタートの舞台となった。 リオパラリンピック以降、改めて取り組んできたのが肉体改造。新たにジャパンチームのフィジカルコーチに就任した有馬正人氏に、パーソナルトレーニングを依頼した。 「以前から体幹は意識して取り組んでいた。でも、無意識に腹筋の上部ばかりを使っていて腰に過度の負担がかかっていました。下部の腹筋を含め体幹を強化して適正に身体を使えるようにならないと」 ひとつひとつのトレーニングをするとすぐに車いすバスケの動作を行なって連動させる。今使った筋力を、どう車いすの操作やシュートに生かすのか。実際にボールや車いすを使って確認する。 「始めてわずか1ヶ月で、車いすでの姿勢が変わりました。無理やりいい姿勢にしようとするのではなく、いい姿勢でいる方が楽になった。ハードな合宿でも身体の痛みが出ない」 もちろん、香西が目指しているのは、己の肉体を強化することだけではない。トレーニングだけでなく、メンタル、栄養などあらゆる要素について、専門家に継続的に指導を受けられる体制を整える。チーム香西を構築させていくことなのだ。 「自己中心的に聞こえるかもしれないけれど、今は自分にすごく集中している。僕の成長が、ジャパンチームにとってすごく必要だと感じているからです」

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