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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

パラアスリートたちの軌跡① ドリーム対談2/2

パラアスリートたちの軌跡① ドリーム対談2/2

前回に引き続き、義足ジャンパー マルクス・レーム選手、レーサー(陸上競技車いす) 伊藤智也選手のドリーム対談をお届けします!(2018年10月発売号掲載) https://psm.j-n.co.jp/?p=2237&preview=true ↑前回の記事はこちらからチェック★ ̶ ̶パラリンピックの金メダルの意義とは、なんでしょうか。 伊藤智也(以下、伊藤) 自分を支えてくれた人への恩返しができたことです。でも、私は金メダルを取るまでより、獲得後こそパラアスリートとして果たすべき責任が生まれるのではないかと思っています。勝つための努力よりも、負けるまで全力を尽くし続ける努力が重要で、自分の競技人生であれほど辛いものはなかった。 マルクス・レーム(以下、レーム) ロンドンでの銀メダルは、その責任が果たせたということになるのですか。 伊藤 はい。全力で走って負けましたから。 レーム 最初にロンドンで金メダルを取った時のことはとてもよく覚えています。表彰台の一番高いところに上がって、国旗が掲揚され国歌が流れる。私の人生で、あれほど感動したことはありませんでした。でも、これは私一人で成し遂げられたものではない。家族をはじめいろんな人に連れてきてもらったようなものです。その後は非常に大きなプレッシャーがありましたね。まわりから勝てて当たり前だと言われてきました。リオパラリンピックでは、前半3回の試技で失敗し、その時点で順位は3位以下でした。うまく跳ばなくてはいけない、うまく見せなくてはいけないと思いながら跳んでいたんです。後半が始まる前のインターバルでそれではいけないと考えを変えて、後半の跳躍に臨んだら、やっとうまくいきました。 伊藤 2度目の金メダルを獲得した姿を、僕は解説者としてスタンドから見ていました。 レーム 自分のモチベーションは、時とともに変化しています。10歳の義足の男の子がリオパラリンピックの時に「ブラジルには行けないけど、テレビの前で応援しています」と言ってくれました。彼のお母さんは、私が彼の前向きに生きるモチベーションになっていると言っているけれど、実は反対で、彼こそが私にとって大きなモチベーションになっているんですよ。 伊藤 その少年は、マルクス選手が義肢装具士として担当されているお子さんですか。 レーム そうです。彼は7歳の時にトラックに轢かれて両足を切断しました。当時、もう歩くことは難しいと言われていましたが、今は学校に義足で通学し、レバクーゼンで水泳の選手として競技に取り組んでいます。ドイツにはカーニバルがあってハロウィーンのように衣装を身につけるんですが、彼は海賊になりたいと言うので、私は彼に木の義足を作ってあげて、それでパレードに参加しました。 伊藤 キャプテンクックみたいですね。 レーム そうです。彼はカーニバルでは主役級の人気者でした。 伊藤 それは素晴らしい! マルクス選手の優しさが伝わってきますね。 レーム 人は自分にないものばかりに目がいってしまうものです。自分にあるものへの感謝を伝えていきたいですね。 伊藤 日々、ベストを尽くす姿を見てもらうことで、子どもたちに何かを感じてもらいたいね。   ̶ ̶レーム選手は、 15年の世界選手権で8m 40㎝という世界記録をマークし、16年のリオ五輪出場を希望されていましたね。しかし、義足の優位性がないことを証明しなくてはならず、実現しませんでした。2020年の東京でも、オリンピック出場を目指していますか。 レーム オリンピック出場は、とてもチャレンジングなことです。今でも国際陸上競技連盟とは、ずっと話し合いを続けています。リオ大会後もあらゆる調査や協議を進めてきました。ただ、重要なのは、私はパラリンピアンとして誇りを持っているということです。オリンピック出場を目指していたころ、いろんな噂が流れました。マルクスはもう、パラリンピックには興味がなくオリンピックだけに出場したいのではないかと。それは完全に間違いです。私がオリンピックに出場したいのは、パラアスリートがここまでできるということを証明したいことが一番の理由です。オリンピックは素晴らしいスポーツの祭典です。でも、パラリンピックも同様です。私たちパラアスリートは、それを体現しているのです。 伊藤 それはまったく同感ですね。 レーム 将来的なビジョンとして、オリンピックとパラリンピックはもっと近づいたらいい、と思っています。今私が夢見ているのは、オリンピックが終了する日にリレーをすること。4x100mで2人はオリンピアン、2人はパラリンピアンのミックスリレーです。これをオリンピックとパラリンピックをつなぐ新種目にできないか。さらに、オリンピックの聖火をそのままパラリンピックの聖火台に灯して開幕することができたら、と強く思っています。 伊藤 つまり、オリンピックの閉会式と、パラリンピックの開会式をつなぐということですか。それが実現したら、すごいなあ。 [caption id="attachment_2258" align="alignnone" width="300"] 2018年7月に開催されたジャパンパラ競技大会。世界新を更新し、レームは気軽に大会ボランティアの学生たちとの記念撮影に応じた。競技者として愛される要因は、この気さくさにもある[/caption] レーム そうです。私は、オリンピックとパラリンピックを完全にひとつにするということはありえないと思っています。オリンピックとパラリンピックでは価値や意義が異なります。 パラリンピックとして存続することはとても重要なのです。統合することがゴールではありません。ただ、オリンピアンもパラリンピアンも「スポーツを愛する者」というところでは、同じだと思っています。だからこそ、オリンピックからパラリンピックにつなぐ、開催時期を含めた距離をもっと近くすることができればいいな、と思っているんです。もし実現したら、私はスタジアムの観客の一人として自分の夢がかなったと、涙を流すことでしょう。 伊藤 私もその時には一緒に泣きたいですね。その夢に一番近いのがマルクス選手なんです。オリンピックとパラリンピックの架け橋になれる、稀有な存在ですよ。その彼が、パラリンピアンであることを誇りに思い、すべてのパラアスリートをリスペクトすると言う。そういうマルクス選手を、私は心から誇りに思います。同じ舞台で戦う人間として、今日また心新たに、これから競技に邁進できると感じました。ありがとうございます。 レーム こちらこそ、ありがとうございます。2020年の東京パラリンピックのスタジアムで、最高のパフォーマンスを世界に見せつけましょう! 2018年7月8日、ジャパンパラ陸上競技大会の男子走り幅跳びは、跳躍種目の最後に行われた。6回目の最終試技。レームが、体を大きく後ろに反らせた体勢から助走をはじめ、ぐんぐんスピードを増していく。義足の右足で踏み切ると、体が放物線を描き、8mを大きく超えて着地した。勢いで体がそのまま砂場の枠外に転がるようにして出た。 「ウォー!」 スタンドから大歓声がはじけた。8m47㎝。日本で飛び出した3年ぶりの世界新である。 跳躍後、レームはスタンドの声援に両手を振って応えると、そのままレフェリーや記録を担当するスタッフに駆け寄り、一人ひとりに感謝を伝えていた。 「パラリンピアンであることを誇りに思い、パラアスリートが限界を超えていくことを証明したい」 伊藤、レームのように人生の途中で障がいを負い、そこからパラスポーツに取り組む人は少なくない。今ある自分の体を見つめ、磨いていく。その先に、栄光がある。 心揺さぶる珠玉の言葉の数々と、進化を遂げるパフォーマンス。パラアスリートたちの生き様が伝えてくれるメッセージは、とてつもなく大きい。 伊藤智也/いとう・ともや 1963年、三重県生まれ。 バイエル所属。T52クラス。1998年、多発性硬化症を発症し車いす生活となる。2001年に大分国際車椅子マラソンでデビュー、03年にパラ陸上の世界選手権に初出場、400m、1500m、車いすマラソンで金メダル、800mで銀メダル。パラリンピックはアテネに初出場し、北京では400m、800mで金メダル、200mで銅メダル。ロンドンでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得し、現役を引退。2018年に復帰、ジャパンパラ競技大会では200m優勝、400m、800mで2位。     [caption id="attachment_2242" align="alignleft" width="300"] マーク・レーム/Markus Rehm 1988年、ドイツ生まれ。バイエル04所属。T64クラス。14歳の時、ウェイクボードの練習中にボートのスクリューに右足を巻き込まれ切断。2009年にパラ陸上にデビュー、初出場したロンドンパラリンピックでは7m35㎝で金メダル、4x100mリレーで銅メダル。14年、一般の陸上競技のドイツ選手権に出場し8m24㎝をマークして優勝すると、競技用義足の優位性について議論が巻き起こる。16年のリオデジャネイロパラリンピックでは8m21㎝で大会2連覇を達成。2018年8月、8m48㎝で世界記録を更新した。[/caption]                         取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/バイエル ホールディング株式会社
パラアスリートたちの軌跡① ドリーム対談1/2

パラアスリートたちの軌跡① ドリーム対談1/2

世界中で猛威を振るう新型コロナウィルスの影響でオリンピック、パラリンピックともに来年の延期が決まり残念でなりませんが、命に代えられるものはありません。楽しみが先に延びたと前向きに考えて、まずは自分と周りの人を大切に、手洗い・うがいを徹底したい今日この頃です。 皆様が少しでも前向きな気持ちになれるよう、『パラスポーツマガジン』はバックナンバーからパラアスリートたちの言霊をプレイバック! 第1回は義足ジャンパーのマルクス・レームと、レーサー(陸上競技用車いす)を使用するスプリンターの伊藤智也のドリーム対談を2回に分けてお送りします。(2018年10月発売号掲載) スタイルは違うが、ともにパラリンピックの金メダリストである二人。 障がいを負ってから始めた陸上競技の魅力とは。トップを走り続けるパラアスリートの使命とは。それぞれの想いを語ってもらいました。     2018年8月25日。ロンドン、リオパラリンピックの金メダリスト、ドイツのマルクス・レームは、ベルリンで開催されたヨーロッパ選手権の走り幅跳びで8m 48㎝を跳び、1カ月前に日本で3年ぶりに出した8m47㎝の世界記録を更新した。 伊藤智也は、2008年北京パラリンピックで4000 m、800mで金メダル、12年のロンドンパラリンピックでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得したが、その後現役を引退。その伊藤が2018年夏、復帰した。 レーム選手はウェイクボードの練習中にボートのスクリューに右足を巻き込まれて切断。伊藤選手は20年前に多発性硬化症を発症して車いす生活に。ともに障がいを負ってから陸上競技の選手としてパラリンピックに出場されていますが、なぜ、陸上だったのでしょう。 伊藤智也(以下、伊藤) 私の場合は、入院中に間違えてレーサー(競技用の車いす)を買ってしまったというのがそもそもの始まり(笑)。障がい者スポーツがあることも知らなかった。かっこいいという理由でレーサーを買ったことで陸上を始めました。 マルクス・レーム(以下、レーム)ははは、面白いエピソードですね。私の場合は、子どもの頃に陸上競技をしていた時期がありました。切断後、水中で使える義足を使ってウェイクボードをしたり、トランポリンなども挑戦していました。ある日、イベントでトランポリンを披露したら、バイエル04レバクーゼンというスポーツクラブの人が、私を招待してくれたんです。それで事故後初めて陸上をやりました。     義足で、あるいはレーサーで初めて陸上をやってみた印象はどんな感じでしたか。 伊藤 初めてレーサーに乗ったのはまだ入院中でしたね。田舎だから車も少なく自由に走ることができました。ある日、自転車に乗るおばあさんを追い越したんです。病院用の車いすでは、自転車を追い越すことは難しい。その体験で、走るの面白い、と感じました。 レーム 初めて義足をつけて走った時には、顔に風が当たるという感触を味わえたことが印象的でした。コーチに言われて、試しに走り幅跳びをしたら5m15㎝。日常用の義足でしたが、ドイツ国内の記録を超えていると言われて、自分には走り幅跳びのポテンシャルがあることを実感したのです。伊藤さんが復帰を決意されたきっかけは、なんだったのですか。 伊藤 埼玉県にある工業デザイン工房「RDS」が「チーム伊藤」を結成し、体やフォームにぴったり合った特製の専用車いすを開発してくれる、というオファーをいただいたことがいちばんの理由ですね。もともとモータースポーツの技術開発に携わるRDSが、パラスポーツの開発環境に寄与しようという。前代未聞ですよ。そこに意義を感じて、やったろうかい! と。 お二人は、義足とレーサーという競技用の用具を使用しています。その用具に体を適応させるためにいろんな努力をされていると思いますが、使い方を含めて、どんなことに力を入れているのか、教えてくだい。 伊藤 レーサーは、人間の体の進化を凌ぐ速さで進化します。真摯に挑戦すれば、少しずつでも人間の進化、タイムにつながっていく。その探求を怠ってはいけないと思っています。 レーム おっしゃる通りです。私たちにとってテクノロジーは不可欠です。義足を装着せず1本足で8m超の記録を出すことはできません。同時に私たち障がい者にとっては、義足は体の一部なんです。レーサーや義足だけに注目されがちですが、アスリートがそれを自分の体として受け入れて、初めて使いこなすことができる。私が特に力を入れているのは、義足でバランスを取ること、義足から受ける感触を自分自身がしっかり受け止めること。ジャンプすることで感覚を確認しています。 (続く) 引き続き、二人が語るパラリンピックで金メダルを目指すことの意義についてお届けします。   マーク・レーム/Markus Rehm 1988年、ドイツ生まれ。バイエル04所属。T64クラス。14歳の時、ウェイクボードの練習中にボートのスクリューに右足を巻き込まれ切断。2009年にパラ陸上にデビュー、初出場したロンドンパラリンピックでは7m35㎝で金メダル、4x100mリレーで銅メダル。14年、一般の陸上競技のドイツ選手権に出場し8m24㎝をマークして優勝すると、競技用義足の優位性について議論が巻き起こる。16年のリオデジャネイロパラリンピックでは8m21㎝で大会2連覇を達成。2018年8月、8m48㎝で世界記録を更新した。 伊藤智也/いとう・ともや 1963年、三重県生まれ。バイエル所属。T52クラス。1998年、多発性硬化症を発症し車いす生活となる。2001年に大分国際車椅子マラソンでデビュー、03年にパラ陸上の世界選手権に初出場、400m、1500m、車いすマラソンで金メダル、800mで銀メダル。パラリンピックはアテネに初出場し、北京では400m、800mで金メダル、200mで銅メダル。ロンドンでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得し、現役を引退。2018年に復帰、ジャパンパラ競技大会では200m優勝、400m、800mで2位。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/バイエル ホールディング株式会社    
スピードと華麗なチェアワークで魅せる!車いすバスケットボール

スピードと華麗なチェアワークで魅せる!車いすバスケットボール

パラリンピックの花形競技のひとつ、車いすバスケットボール。観戦してもプレーしても楽しい車いすバスケットボールの魅力をお伝えしよう! 車いすバスケットボールを漫画やドラマから知った、ファンになったという人も多いのではないだろうか。巧みに車いすを操作して、左右にジグザグと走り回る選手たち。そして攻守攻防は転倒するほど激しく一見難しいと思われがちだが、車いすに乗れば誰でもプレーできるといった、ユニバーサルなスポーツでもある。   車いすバスケは通常のバスケットボールと同じコートとゴールリングが使用される。そして選手は車いすに座っているのだから、立位でいるときよりも相対的にリングは高くて遠い。しかも足で踏ん張ったり、ヒザのバネも使えないまま、腕力と少しの腹筋背筋だけではうまくボールを投げられない。プレーしてみるとそれはよくわかる。   まず、ゴールを見上げた時にその高さには驚くはず。リングめがけてボールを投げるけれども、届かない! それなのに、トップ選手たちは、7メートルほど離れた3ポイントラインからシュートを決めるほどの運動能力だ。車いすを走らせるチェアワークも車いすバスケの魅力だ。左右の車輪を互いに反対方向へ漕いで回転したり、腰や上肢のひねり動作も使い、自由自在にターンしながら走る。相手選手をかわしながらドリブルする華麗な技。ある選手は、「車いすバスケと出会って、ほんとうに自由の翼を手に入れた」と話していたほどの動きをする。 車いすユーザーではない健常者のチームもあるほど人気なスポーツであるのにもかかわらず、これまで健常者の選手には日本一決定戦の「天皇杯日本車いすバスケットボール選手大会」に出場することが許されていなかった。 それが2019年に行われた第47回大会では、健常者の選手枠が新たに設定された。これは車いすバスケがユニバーサルスポーツとして広がっていく大きなニュースであり、運動能力で勝る海外の強豪国を越えるための、日本代表チームの強化としても貴重な経験となったことだろう。 車いすバスケガイド 一般のバスケとほぼ同じルールだが、障がい程度による持ち点制は独特だ。 選手起用の戦略にも関わってくる。中度選手を厚くするのか、それとも軽度の得点力で勝ち抜くのか。点数からチームの特色が見えてくる。その特色を見分けるためにも車いすバスケットボールにしかない独自のルールを知っておこう。 【1.男女混合、健常者もプレーする】 性別や障がいの有無に関わらず試合する大会が広がっている。男子の日本チャンピオンを決める国内最高峰の大会である天皇杯にも女子選手や健常選手の出場枠が用意されるようになった。女子選手にとっては、フィジカルの強い海外強豪国との対戦を想定した経験のできる選手強化のチャンスとなっている。また、女子選手はマイナス0.5点として男女の運動能力差が補正される。この点数を戦略的に使うことも勝敗を左右する。そのため、女子選手の活躍は大会の見所といえる。 【2.障がいによるクラス分け】 車いすバスケットボールには「持ち点」制というルールがある。選手には障がいの重い方から順に1.0点から4.5点の持ち点が与えられている。そしてコート内でプレーする選手の合計点の上限は14.0と決められている。そのため障がい程度の軽い4.5点や4.0点の選手ばかりの選手起用はできない。チームごとに障がいの程度を揃える公平なルールだ。勝つために障がいが軽い選手ばかり出場させてはスポーツとしての公平さを欠く。選手たちの障がい程度について合理的に配慮することはパラスポーツの特徴だ。 【3.転倒】 選手同士が直接接触するフィジカルコンタクトは認められていない。相手選手の腕や身体をつかむようなプレーは反則だ。しかし、攻守の展開が激しくなると、車いすの車体が激しくぶつかり合う。その衝撃で車いすは跳ね上がり、飛ぶ。勢い余り、片輪走行しながらシュートする選手もいるほどだ。そして、ときには転倒することも。鍛え抜かれた選手は自ら起きあがり試合に合流する。   【4.激プレーでパンク】 急ブレーキ、急回転……。その激しい車いす操作から、パンクなどの故障も試合中に発生する。そうしたときに活躍するのが「メカニック」たちだ。チームでは予備タイヤを準備して試合に臨む。そしてパンクや車体の破損といった車いす故障が起こると、すぐさまタイヤ交換。ゲームの流れを止めないように、素早く対処する。   【5.コートサイズ】 使用するコート、リングの高さ、ボールは一般のバスケットボールと同じだ。またドリブルは、車いすを2回漕ぐごとにしなければならず、ボールを保持したまま3回漕ぐとトラベリングのファールとなる。また車いす走行の特徴上、ダブルドリブルの反則ルールは設定されていない。そのほかは一般のバスケとほぼ同じルールだ。         取材・文・写真/安藤啓一
「オレ、終わってないぞ」下半身不随のライダーの新たなスタート

「オレ、終わってないぞ」下半身不随のライダーの新たなスタート

<前回までの記事> 1998年、レーシングライダーとして活躍が期待されていた青木拓磨さんはマシンのテスト走行中に事故に遭い、下半身不随となる。 下半身が使えなくなったため体全体を使う必要があるバイクに乗ることは絶望的となった。しかし、彼は決してあきらめなかった。「クルマのレースがあるじゃないか」と気持ちを切り替え、4輪レースという新たな挑戦をはじめたのだった。時には障がい者だからという偏見・差別に苦しむこともあったが、周りの人々に支えられ乗り越えていった。 その一方で、彼の原点であるバイクには「クルマならひとりで乗れるけど、バイクは無理だからね。乗りたい気持ちはもちろんあったけど、むずかしいだろうなって思ってた」と、決して挑戦しようとはしなかった。 ここまでのエピソードを詳しく知りたい方は前回の記事をCheck!↓ https://psm.j-n.co.jp/?p=2045&preview=true 写真左から兄・宣篤さん、弟・治親さん、拓磨さん。マシンはHONDA CBR1000RR SP そんなストッパーを外してくれたのが、兄弟の存在だった。拓磨さんには、兄の宣篤さん、そして弟の治親さんがいる。全員が世界グランプリで戦い、「青木三兄弟」としてその名を馳せた。 現在はオートレーサーとして活躍している弟の治親さんが、2年前、動画配信サイトで障がい者によるバイクレースを観たことが転機となった。「これならタクちゃんもバイクに乗れる!」 兄の宣篤さんを巻き込み、すぐに動き出した。治親さんの思いはひたすらに純粋だった。「もう1回タクちゃんがバイクに乗るカッコいい姿を見たい」。それだけだった。下半身不随でもバイクに乗れるシステムを海外から取り寄せ、宣篤さんと一緒にバイクに組み付けた。   左)シフトチェンジは左ハンドルに装着したスイッチでおこなう 右)バイクのステップとブーツには自転車用のビンディングを使用した 毎年7月末に行われる鈴鹿8時間耐久ロードレースは、日本最大のバイクレースイベントだ。その決勝前、多数の観客が固唾を飲んで見守っていたのは、レーシングスーツを着込み、ヘルメットをかぶり、最新鋭のスーパースポーツバイクCBR1000RR SP2にまたがる青木拓磨さんの姿だった。 温かく、大きな拍手に包まれてバイクに腰を下ろすその姿に、兄・宣篤さんと弟・治親さんは感涙ですっかりぐしょぐしょになっていた。そんなふたりをよそに拓磨さんはあっさりと走り出し、力強く鈴鹿サーキットを周回した。 「転んだらどうしよう」なんて、まったく考えていなかった。バイクは拓磨さんにとって「乗って当然のもの」だった。 そして、それ以上に「こんなにたくさんの人たちが見てくれてるんだし、ある程度のペースで走らないとカッコつかないよな……」と思っていた。「まわりの支えがあれば、そしてその支えを自分が受け入れる勇気があれば、誰だって何でもできるってことを伝えたかった」と拓磨さん。走行を終えピットに戻った拓磨さんのバイクを、兄と弟がしっかり支えた。支える人の勇気、そして支えられる人の勇気が合わさった瞬間だった。 それは確実にサーキット中の誰にも届いた。実際、下半身不随でバイクをあきらめていた人から、「僕も挑戦します」という声もかけられた。 しかし、拓磨さんは、「バイクのレースは、まだ考えてないなぁ」と言う。「クルマのレースなら、オレだって健常者の人と勝負できる。でもバイクはなぁ……。まだ勝負にならないからなぁ……」世界の頂点をもぎ取ろうとした男の、決して捨てることのない健全なプライドが覗く。 青木拓磨(あおき・たくま) 1974年、群馬県生まれ。幼少期よりバイクレースで頭角を現す。1995~1996年、2年連続で全日本ロードレース・スーパーバイククラス王者に。1997年には世界GP最高峰クラスに参戦。1998年開幕前の事故で下半身不随となった。現在は4輪レースに参戦しながら、イベント主催などに積極的に取り組む。     文/高橋剛 写真/真弓悟史、大谷 耕一 協力/ RIDERS CLUB 編集部
「オレ、終わってないぞ」下半身不随のライダーの挑戦

「オレ、終わってないぞ」下半身不随のライダーの挑戦

「周囲のサポートとそれを素直に受け入れる自分がいれば、誰だって何だってできる!」多くの人にそのことを伝えたいという気持ちとともに、鈴鹿のサーキットを駆け抜けた元世界GPライダーの挑戦に迫る。 世界の頂点に手を掛けようとしていた。遠い夢でも届かない憧れでもない。具体的な現実として、それは青木拓磨さんの目の前にあった。2輪レースの最高峰、世界グランプリ(現MotoGP)は、各国選手権を勝ち上がったレーシングライダーだけが参戦できる最高の舞台だ。 そこに参戦した拓磨さんは参戦初年度の1997年には年間ランキング5位につけ、さらなる活躍が期待されていた。しかし翌1998年シーズン開幕前、マシンのテスト走行中に事故に遭い、下半身不随になった。 バイクに乗ることは、想像以上の全身運動だ。特に下半身で車体を押さえることは、ライディングの基本中の基本とされる。さらに右足で後輪ブレーキをかけ、左足でシフトペダルを操作してギアを変える。 下半身が動かない拓磨さんはバイクに乗れなくなったが、モータースポーツをあきらめるつもりはなかった。「クルマのレースがあるじゃないか」と、すぐに気持ちを切り換えていた。だが、障がいを理由に国内で4輪レースに出るためのライセンスがなかなか下りなかった。やむなく海外でレースに参戦したが、「日本ではなぜダメなんだ……」と意気消沈した時期もあった。 そんな折りに、元F1ドライバーで下半身不随のクレイ・レガッツォーニさんと出会った。免許取得すら困難だった時代の話を聞き、「オレよりがんばってきた人がいる。オレももっとやらなきゃ。この人を超えなきゃ」と、気合いが入った。約5年をかけた懸命な働きかけが功を奏し、日本国内でもライセンスが発給された。 現在は国内外の4輪レースやラリーに積極的に参加している。今年はルマン24時間レース併催の「ロード・トゥ・ルマン」で完走を果たした。来年はルマン24時間レースに参戦する予定だ。「人生は、チャレンジし続けなくちゃいけない。チャレンジしている限りは、『オレ、終わってないぞ』と思えるんだから」4輪レースに取り組む一方で、拓磨さんはバイクに乗ろうと思ったことはほとんどなかった。 「クルマならひとりで乗れるけど、バイクは無理だからね。乗りたい気持ちはもちろんあったけど、むずかしいだろうなって思ってた」ふたつの車輪で走るバイクの姿は颯爽としてダイナミックだ。だが止まっているバイクは、自立できない。スタンドか、人の支えが必要だ。「迷惑をかけちゃいけない」と、拓磨さんは自分の心にストッパーをかけていたのだった。 スクーターや、3輪バイクの「トライク」などに乗る機会は多少あったけれど、本格的なマニュアル操作のバイクからはずっと遠ざかっていた。チャレンジを重視する拓磨さんでさえ、「バイクは無理だ」と決めつけていたのだ。 つづく  青木拓磨(あおき・たくま) 1974年、群馬県生まれ。幼少期よりバイクレースで頭角を現す。1995~1996年、2年連続で全日本ロードレース・スーパーバイククラス王者に。1997年には世界GP最高峰クラスに参戦。1998年開幕前の事故で下半身不随となった。現在は4輪レースに参戦しながら、イベント主催などに積極的に取り組む。     文/高橋剛 写真/真弓悟史、大谷 耕一 協力/ RIDERS CLUB 編集部
【仮面女子】猪狩ともか 主演映画に初挑戦!

【仮面女子】猪狩ともか 主演映画に初挑戦!

車いすで活躍するアイドル・猪狩ともかさんが主演を務める映画 『リスタート:ランウェイ~エピソード・ゼロ』が、Amazonプライムビデオで絶賛配信中。 舞台挨拶の場で取材した様子をお届けするとともに、この作品の魅力についてご紹介しよう! 「仮面女子」の猪狩ともかさんが、初めて主演を演じた映画『リスタート‥ランウェイ〜エピソード・ゼロ』が制作され、amazonプライムビデオで配信中だ。 猪狩ともかさんが演じるのは、交通事故で車いす生活となった車オタクのひきこもり女子・ヒナタ。物語は、彼女が一台のスポーツカーに出会ったことをきっかけに、車いすからクルマへと乗り換え、カーレーサーだった父親の背中を追う。バラバラだった家族の再生の物語を描く、ヒューマンドラマだ。       映画に込める想い 主演を務めた猪狩ともかさんは、「車いす生活になったことで仕事の幅が広がったようなところもあるので、それをマイナスではなく、ケガの功名のようにとらえて、求められていることに全力で応えていこうと思います」と話す。 手塚理美さんや、忍成修吾さんをはじめとした他キャストに助けられながら、初主演をやり遂げたという。 「喋り方の稽古をするときは、バリアフリー対応のカラオケボックスで練習することもありました。ヒナタは暗いキャラなので、誰にでもある内面の闇みたいなものを監督に引き出してもらいながら、指導してもらったりしました」       猪狩さんのおかげで、アットホームな雰囲気に包まれたと話すのは、同じく車いす生活を送る俳優の日置有紀さん。 「猪狩さんは、すべてを自然にやっている印象がありました。ありのままの猪狩さんと一緒に演技するなかで、『ああ、私もがんばろう』って、思わせるような力強さを感じてましたね」       監督を務めた帆根川廣さんに、映画の見所について聞いた 「車いすの方の出演と知って、メディアには『障がいをテーマにした映画をつくっている』と取り上げられますが、そうではありません。心のバリアフリーをテーマに、いろんな題材を通して、問いかけていきたい気持ちを込めています。障がいの他にも、人種とか世代、性別など、いろんな部分でバリアってありますよね。障がいに特別なスポットを当てるのではなくて、誰にでも共通して問題提起できるような作品を目指しました。そこをわかりあうことで幸せになれることもあるはずです」と話す。   年始めにぜひご覧ください。 取材・文/編集部 写真/編集部、バリアフリー・フィルム・パートナーズ  
「東京ウィンターチャレンジャーズ」の魅力!

「東京ウィンターチャレンジャーズ」の魅力!

前回に引き続き、フロアホッケー日本一を目指す「東京ウィンターチャレンジャーズ」を特集! 前回の記事はこちらをチェック!↓ https://psm.j-n.co.jp/2019/12/30/1952/ フロアホッケーについて三回目となる今回は、実際に選手を指導するフロアホッケー認定コーチ、選手たちを紹介しよう! スペシャルオリンピックス日本フロアホッケー認定コーチ/フロアホッケープログラム江東会場主任コーチ 森本利彦さん(59 歳) 一人ひとりが居場所を見つけ、役割を果たそうとしてくれる ご子息がフロアホッケーを始めたその日から、競技自体を楽しんでいる様子に感銘を受け、コーチとして関わるようになった森本利彦さん。 練習ではプレーヤー以上に走り、笑顔を輝かせていた。 「知的障がいがあると、チームスポーツはむずかしいだろうと言われていましたが、みんなで続けていく中で、仲間のためにがんばろうという意識が育ってきます。全部ができるプレーヤーでなくてもいいのです。 一人ひとりの特徴を見極め、速い選手、パスのうまい選手、体の強い選手などをラインの中でうまく組み合わせれば強いチームになる。それが醍醐味ですね」 Qフロアホッケーの魅力とは? はじめてでもすぐできることがあってどんな人にでも楽しめる競技だということです。 Qチームのメンバーにとってフロアホッケーの意義は? 自分の居場所を見つけ、自信をもてるようになることを感じます。チームのために自分の役割を果たそうとする姿を見ると、うれしくなりますね。 Qコーチングで気をつけていることを教えてください すぐにできなくても、続けていれば必ずできるようになると確信して接しています。うまくなる人はどんどんうまくなってくれればいいし、そうでない人もそのままで楽しめればいいと思っています。それでも試合では役割を果たせます。その中でいいところを伸ばしていけばいいですよね。   キャプテン 渡邉大輔さん Qチームの練習に初めて参加したときの印象は? いろいろな人がいておもしろいな、と思いました。今も、いろいろな人と一緒にチームとして戦うことが楽しいです。 Qキャプテンとしてのおもしろさはどこにありますか? みんなに指示することはむずかしいのですが、試合でどうやって勝つかをコーチやみんなと考える作戦会議は楽しいです。次の大会でも優勝が目標です!                 大森裕明さん Qむずかしいプレーと好きなプレーを教えてください。 レシーブの時にパックの穴にスティックを入れるのがむずかしいです。今でもたまにミスしてしまいます。パスがつながったときやゴールが決まったときはうれしいです。 Q協力してプレーするために心がけていることは? 声をかけ合うことです。そして仲間を信じること。そのために、練習や試合の準備や片付けもみんなでしています。             加藤抄弥さん Q得意なプレーを教えてください。 フェイントでキーパーと駆け引きして、ゴールの隅やキーパーの股の間にシュートするのが楽しいです。 Q今の目標は? 次の大会にチームがひとつになって勝つことです。たとえ優勝できなくても、みんなの涙やはげましがあって笑顔になれれば、メダルと同じくらいの価値があると思います。 インタビューでは、「チーム」「仲間」「みんな」という言葉が多く出てきた。 チームスポーツだからこそ、自分の足りないことを補ったり、自分だけの強みを発揮することできる。 ここは彼らにとって新たな自分を発見できる場所なのかもしれない。 取材・文/長沢潤 写真/編集部 協力/日本フロアホッケー連盟、スペシャルオリンピックス日本・東京、勇気の翼インクルージョン
ボクらは日本一を目指す「東京ウィンターチャレンジャーズ」!

ボクらは日本一を目指す「東京ウィンターチャレンジャーズ」!

自分と仲間を信じて全力でプレーし、全員で勝利を目指す! 今回取材した「東京ウィンターチャレンジャーズ」の練習は、スペシャルオリンピックス日本・東京の活動にもなっている。 スペシャルオリンピックスは知的障がい者にスポーツの機会を提供するだけでなく、その成果を発表する場として4年に一度ナショナルゲームと世界大会を開催している。 2017年の冬季世界大会オーストリアには、このチームから多くのアスリートが派遣された。また、全日本フロアホッケー競技大会には、アスリートだけの「東京ウィンターチャレンジャーズ」とコーチを中心とした「東京Bonds」が異なるディビジョンで出場し、ともに優勝している強豪だ。 障がいのあるなしや、障がいの違いによる競技力の差はある。それでも誰もが一緒に試合や大会に参加できるのは、ディビジョニングという考え方があるからだ。スペシャルオリンピックスでは、可能な限り同程度の競技レベルのアスリートが競えるように性別、年齢、競技能力によって、グループ分け(ディビジョン)が行われる。だからこそ全員が楽しめる。チームスローガンの「自分と仲間を信じて、全力でプレーし、全員で勝利を目指す!」で勝利に向かってひとつになっていた。 チームスローガンの「自分と仲間を信じて、全力でプレーし、全員で勝利を目指す!」で勝利に向かってひとつになっていた。 Qスペシャルオリンピックスってなに? 「知的障がいのある人たちにスポーツのトレーニングの機会とその成果の発表の場である競技会を提供する国際的なスポーツ組織」がスペシャルオリンピックス。 日本ではスペシャルオリンピックス日本という団体が日常プログラムと競技会を開催している。フロアホッケーは1968 年の第1回スペシャルオリンピックス国際大会から実施されてきた主軸の競技だ。     NPO 法人スペシャルオリンピックス日本・東京 事務局次長 増田絵里さん 「スペシャルオリンピックス日本の下で、スペシャルオリンピックス日本・東京をはじめとした地区組織が各種スポーツプログラムや文化プログラムの活動を実施しています。こうした活動を知っていただくこととともに、参加アスリートを増やすこと、ボランティアを増やすことに取り組んでいます。興味を持たれた方はぜひ、私たちのホームページで詳細をご覧ください!」 http://www.son-tokyo.or.jp 取材・文/長沢潤 写真/編集部 協力/スペシャルオリンピックス日本・東京
スペシャルオリンピックス冬の公式競技「フロアホッケー」に注目!

スペシャルオリンピックス冬の公式競技「フロアホッケー」に注目!

知的障がい者のスポーツの祭典「スペシャルオリンピックス世界大会」で、冬の公式競技として第1回大会から実施されている「フロアホッケー」。 障がい者スポーツとして生まれ、発展したが、今では誰でも楽しめるユニバーサル・スポーツとして普及が進んでいる! スポーツが苦手でも誰でも楽しめる新しいホッケー「フロアホッケー」は、長い棒(スティック)を使ってフェルトでできたドーナツ状の円盤(パック)を床の上で運び、ゴールに入れれば1点というスポーツだ。 特徴は、とにかく誰にでもすぐできること。その理由はまず、ルールが簡単だから。パックを手で投げたり、足で踏んだりしてはいけないという決まりはある。だが、こうしたマイナーファウルには罰がない。一方でスティックを肩より上に上げたり、相手のスティックを上から叩いたりする、もしかするとケガにつながりかねない行為はマイナーペナルティで、1分間退場しなくてはならないといったルールなのだが、すぐに覚えられるものばかりだ。 もうひとつの理由は、誰でもすぐにプレーできる!こと。パックの中心は穴になっているので、床の上でそこにスティックの先を挿し込んで進んでいく。 穴に挿しているので、初めての人でもそのまま進んでいける。簡単には奪われないのだ。ほうきで掃くように動かせばパスもできる。つまり簡単に攻撃に参加できて「チームに貢献するプレーができる」という実感がもてるのだ。 試合ではアイスホッケーさながらに周囲にバウンダリーが設置される さらに、これが最大の特徴ともいえるが、参加しているメンバーの誰もがほぼ均等に出場しなければならないというルールもある。だから誰もがコートに立ち、「出ただけ」などではなく「プレーした満足感」が得られる。これまでチームスポーツや球技に苦手感をもっていた人でも、きっとスポーツの楽しさを味わえる競技なのだ。 取材・文/長沢潤 写真/編集部 協力/日本フロアホッケー連盟、スペシャルオリンピックス日本・東京、勇気の翼インクルージョン
エンタメの力で可能性を広げる!

エンタメの力で可能性を広げる!

  現在、さまざまなメディアで活躍中の葦原 海(みゅう)さん。 16歳の時に車いすユーザーとなり、18歳でモデル・タレントデビュー。 そんな葦原さんをゲストに招き、主な活動内容と今後の展望について伺った。   少々奇抜なカラーのヘアスタイルに、エッジの効いたネイルアート。変幻自在なファッションセンスと卓越した話術の持ち主。多数のファッションショーをはじめとし、TV、ラジオ、グラビア、企業広告モデル、講演会、MCなど幅広いジャンルで、マルチな活躍を披露し、最近では、車いすユーザーに向けた着物のプロデュースもこなす。 「普段から着物を着ていると、いろいろと課題が見えてくるんです。 車いすユーザーである私の目線から、さらに可愛くおしゃれに、機能的に着られる着物があれば、と思いました。和装時には、障がいによってさまざまな不具合が生じることがあります。 それらを解消するための工夫や、手持ちの振袖をリフォームして使えるようにする技術の開発などについて、着物専門店の『三松』さんと一緒に研究を重ねています。 成人式を迎えた車いすユーザーの女の子の中には、『着られる振袖がない』ことを理由に、式典に出たがらない子もいます。 それはとても残念。成人式にワクワクしながら参加できる女の子たちがひとりでも増えてくれると嬉しいんです」   ファッションもヘアもネイルも好きなテイストはさまざま。その時の気分でコロコロ変わる。モットーは至ってシンプルであり、「他人とカブりたくない」それだけ。 「ひとつのスタイルに凝り固まりたくないし、他人とカブってしまうのが一番嫌い。基本的に行く場所に沿って、その風景に合うファッションでいることを楽しんでいます。多い時には車の中などで着替えて、1日に2〜3回服装が変わることも(笑)。ネイルは、サロンへは行かないセルフ派です。インスタグラムなどで気に入ったネイルアートを見つけたら、大抵は自分の手で再現できます」 そんなみゅうさんには、講演会の依頼も多数。テーマには、バリアフリーや福祉についてもあるそうだが、みゅうさんは主に人生観を語ることが多い。 「私は車いすユーザーであって、バリアフリーや福祉の専門家ではないんですね。16歳で足を失いましたが、一度も落ち込んだことはないです。 16歳で車いす生活になり、18歳でモデル・タレントとしての活動を開始しました。まわりからは『復活が早過ぎない!?』と言われましたが、私にとっては落ち込んでいないので、復活も何もありません。普段通り生活しているだけです。なので、講演会では、当事者である私の私生活のことをお話ししています」 「モデルという職業は、一般的にいうとファッションモデル。私の職業であるモデルは『お手本』という存在で居続けること」。そんな持論を持つみゅうさんは、さらにこう続けた。         「エンターテイメントの力を通じて、いろいろな障がいをお持ちの方と健常者の垣根を壊していきたい。そして、車いすユーザーの子でも、例えばモデル・タレント・女優の仕事に憧れを持って、その職業を目指せる環境に変えていきたい。最初からあきらめずに、捉え方ややり方次第で、将来の選択肢を大きく広げることができるってことをみんなに伝えていくことが夢であり、目標でもあります。それこそが、私の使命かな、と思っています」   あしはら・みゅう/1997年生まれ、愛知県出身。16歳の時の事故により、車いすユーザーに。2016年、TV番組の出演をきっかけに、モデル・タレントとして活動を開始。ファッションショー、TV、ラジオ、グラビア、企業広告モデル、講演会、MCなど幅広いジャンルで活躍中。「2020年東京オリンピック・パラリンピック」公式イメージ動画にも出演 https://myu-official.com   取材・文・写真/宇田川大輔(M-3)
全国初の障がい者限定 eスポーツ大会開催に密着!

全国初の障がい者限定 eスポーツ大会開催に密着!

株式会社ワンライフ主催の「第1回障害者eスポーツ大会2019 GUNMA」が8月に開催された。 障がい者の新たなチャレンジの場として創られた今大会には、全国から20名が参加し、優勝を争う。「eスポーツ×障がい者」の理解を深めた注目のイベントを取材した。 本大会は、群馬県伊勢崎市を拠点とする株式会社ワンライフ(※注)が運営を手がけた。偏見のない社会を創って障がいの「カタチ」を変えることを理念に、就労支援を中心とした障がい者の福祉サービスを多角的に展開する企業だ。 群馬県のビエント高崎ビッグキューブにて開催された今大会には、「League of Legend」というゲームタイトルが採用された。5対5のチーム戦で競うルールだが、参加者は個人で申し込みをした後、障がいの重さやゲームの経験年数などで実力差が生まれないよう、各選手をチームに振り分けられる方式がとられた。 こうして集まった20名4チームが、会場では実力拮抗の激戦を繰り広げた。試合中は頻繁にチームメイトで声を掛け合ったり、メモ帳を使用してコミュニケーションを図る一面も見受けられた。決勝戦は、初戦の相手を圧倒的なプレイングで退けた「ファーストアタッカーズ」と、群馬を制すために関西から参加した「ウォールブレイカーズ」との一戦。30分におよぶ熱戦は、シーソーゲームの展開。後半のわずかな隙を突いた「ウォールブレイカーズ」が押し切り、優勝を飾った。 優勝チームには100万円のボードが手渡され、5人で一斉に掲げて喜びを表した。観客も立ち上がって拍手を各選手に送り、会場内のeスポーツに向ける眼差しが、ぐっと熱くなったのを感じた。同時に、「eスポーツ×障がい者」の今後の可能性にも、さらに注目するべきだろう。チームでうまく連携を図り、戦略を練り、勝った喜びを仲間と共有する。 障がいを抱えている人こそドンドン足を踏み入れて、新たな夢を見つけてほしい。 ※株式会社ワンライフ/2014年設立。群馬県を中心に子供から大人までの障がい者の方を対象とした障がい福祉サービスを展開している企業。14の事業所を持ち、生活介護や就労支援にも取り組む。   取材・文・写真/編集部    
「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えてほしい 【有重 哲 副社長インタビュー】~JXTGエネルギー株式会社~(3)

「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えてほしい 【有重 哲 副社長インタビュー】~JXTGエネルギー株式会社~(3)

“ENEOS”ブランドのサービスステーションで、一般の方にも馴染みがある「JXTGグループ」。 CMや各種障がい者スポーツ団体への支援など、パラスポーツへのサポートが注目されている。 パラ競技会イベントなどにも先頭に立って参加している有重 哲副社長に、同社の考え方や将来への展望をお聞きした。 当社は、JXTGグループの行動基準のひとつである「健全な職場環境の確立」に基づき、社員一人ひとりがダイバーシティ&インクルージョンの重要性を理解して、相互に尊重し、協力し合い、成長しあう組織風土の醸成に取り組んでいます。 本社をはじめとして、全国の事業所(製油所・支店など)でも障がいのある社員が働いており、その障がいに応じた就業に配慮をするとともに、障がいのある社員とそうでない社員がともに気持ちよく働くことのできる職場環境づくりを目指しています。そのような職場環境の実現には、社員一人ひとりの意識が重要です。 東京2020パラリンピック競技大会を機に、パラスポーツに触れることで、楽しく、皆で一緒に盛り上がりながら、まわりの方に「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えて欲しいと思います。 企業対抗のパラスポーツ大会にも積極的に参加。「スポーツなので、負けると純粋に悔しいです!」   パラスポーツの応援やパラアスリートとの交流を通じて、社員の視野・考え方の幅が広がっていくといいなと思いますし、その変化も感じています。さまざまな個性をもった社員同士が相手の立場や状況を思いやり、自然に協力し、手を差し伸べられる、そのような暖かみのある職場環境づくりにもつながっていくのではないでしょうか。   また、当社は、スポーツの振興や次世代の育成を積極的に推進しています。社会人チームとして野球部・女子バスケットボール部を運営しており、スポーツを通じた社会貢献活動を推進しています。先ほど申し上げました「ダイバーシティの推進」および「社会貢献活動の推進」の一環として、(NPO)日本身体障害者野球連盟(2007年~)および一般社団法人日本車いすバスケットボール連盟(2006年~)には継続的に協賛しています。いろいろな大会に社員が応援に行って、当社オリジナルの応援グッズを配布するなど積極的に動くことで、大会の盛り上げに協力しています。 特に社員の応援では、2016年から、パラスポーツの応援に参加する社員を「応援観戦サポーター」と名付け、積極的に参加を募っています。現在までにのべ500名以上の社員が応援観戦に参加しました。応援観戦サポーターは、年々増えており、2020年のパラリンピック競技大会では、これまでで一番多くの社員に参加してほしいと考えています。 また、社内においても、東京2020大会に向けて、「知る・観る・参加する」をキーワードに、パラスポーツをより深く理解し、体験する活動を展開しています。社内のレクリエーションとして、ボッチャ大会を開催したり、企業対抗のパラスポーツ大会(オフィス de ボッチャ)に参加したりして、多くの社員がパラスポーツを楽しんでいます。   「パラアスリートの河合純一さんに社内講演会に来ていただき、『目標を持って進んでいくことの大切さ』を改めて実感。感動しました」   2020年の東京パラリンピック大会をきっかけに、パラスポーツの魅力に触れ、一生に一度の感動を味わってもらい、2020年以降もパラスポーツの応援観戦や大会の運営ボランティアへの参加を自発的に継続してほしいと思います。 そのようなところから生まれる、個人のちょっとした意識の変化が、「人権を尊重し、誰もが働きやすい職場環境」づくりにつながっていくのではないかと思います。   ありしげ・さとし JXTGエネルギー(株)取締役 副社長執行役員。山口県出身。1980年九州大学卒業、日本石油入社。2008年 新日本石油(株)CSR推進部長、2010年 JXホールディングス(株)総務部長、2012年 JX日鉱日石不動産(株)常務取締役、2014年JX日鉱日石ビジネスサービス(株)代表取締役社長、2016年 JXビジネスサービス(株)代表取締役社長、2016年 JX不動産(株)代表取締役社長、2017年4月より現職。       text:PSM  photo:Junji TAKAHASHI        

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