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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

金メダルのために、走り続ける 官野一彦(その2)

金メダルのために、走り続ける 官野一彦(その2)

「車いすでぶつかり合うなんて、なんじゃこりゃとビックリした。世間では、車いすの人は守ってあげるものだと思われているがコートでは誰も僕のことを守ってくれない。でも自由に走り回れるのが気持ちよかった」 すぐに70万円の競技用車いすを購入した。決めたらすぐ行動するのが官野のスタイルだ。そして競技を始めた翌年には日本代表に選ばれてしまう。 「試合には出してもらえない名ばかりの代表だったけれども、遠征メンバーに選ばれた時は舞い上がったよ」 その後、代表落ちして本当の厳しさを味わうのだが、まだ競技の奥深さを知らぬまま、パラリンピック最終予選でシドニーの大会に参加した。そこで官野は衝撃の体験をすることになる。 「観客8000人の大歓声でとなりの人と会話もできないほど。その体育館での入場行進では鳥肌がたった。これほどの人たちを興奮させられるウィルチェアーラグビーに誇りをもつことができた。あの時のことを思い出すと、今でも胸がギュンとなる」 ウィルチェアーラグビーに人生をかけてもいいと思えた。とはいえ、簡単に代表に選ばれ、練習にも気持ちが入らないまま2010年には代表落ちの苦い経験もする。 「ふてくされている自分は相当恥ずかしいし、ダサいなと気づいた。今のままでロンドンパラリンピックに出られるわけない」 一所懸命に頑張り、それで代表に選考されなかった時は諦めようと覚悟を決めて練習を始めた。毎日10㎞、体育館で走り込んだ。煙草もきっぱりと止めた。そして体重を落とせたら乗れるように、小さいサイズの競技用車いすを購入。根性だけは、高校野球で身についていたから、自分を徹底的に追い込んでいった。そうして代表に復帰し、ロンドンパラリンピックにも出場することができた。 リオパラリンピックでは銅メダルを獲得。この経験が、官野を新たなチャレンジへと導いていった。 「銅メダルは成功と挫折を同時に味わうようなものだった。メダルセレモニーではうれしくて泣いたけれど、その横で優勝したオーストラリアの選手たちがでっかい声で国歌を歌っているのがすごくかっこよかった。東京で金メダルがとれて、観客と一緒に国家を歌えたらどれほどうれしいだろうか」 その経験をしてみたいという夢が、今の官野を突き動かしている。 「障がい者になって、健常者の時よりもよかったと思うことはないけれど、手足の動かない重度障がい者でも自分のやりたいことで飯が食えて、30代になった今でもたくさんのことにチャレンジできている人生はすごい」 家族に理解され、また多くの人たちに支えられている幸せを噛みしめながら、官野は金メダルのために疾走している。   取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、安藤啓一
金メダルのために、走り続ける 官野一彦(その1)

金メダルのために、走り続ける 官野一彦(その1)

昨年、官野は長年務めた千葉市役所を退職して本場のアメリカへ武者修行に旅立った。32歳という社会人として責任ある仕事を任されることが増える年齢で、人生をウィルチェアーラグビーに捧げる覚悟を決めた。 「(日本代表が)新しい監督になってから試合に出してもらえなくなった。このままでいいのかという危機感をもっている。アメリカに行って、厳しい環境で自分を鍛えたい」 これまで千葉市役所の職員としては異例の待遇を受けていた。車いすの街づくりを掲げている熊谷市長は、アスリート雇用としての就労環境を整備するために条例改正までして官野を応援してきた。日本代表の遠征は公務派遣扱い、週の半分はトレーニングに費やせることになっていた。 そうした職場のサポートも受けながらパラリンピックに挑戦してきたが、さすがに数ヶ月のアメリカ武者修行は休職扱いになってしまう。 「これでは続けられない。家族の生活にはお金が必要だし、ウィルチェアーラグビーのために仕事を失うのは本末転倒だから」 そして退職を決断した。 「僕は生活のためにスポーツをしている」 これが官野のスタイルだ。自分のやりたいことをして、家族と生活していく人生が理想だ。プロ野球選手になりたくて野球の強豪高校に進学したように、少年時代からの夢を今でも追いかけている。 東京で金メダルをとるためにアメリカ修行は譲れない。そのためにはアスリート雇用で転職をするしかない。そうした決意を周囲に伝えると、数社から誘いを受けることができた。面談をして、お互いのパラスポーツへの理念と条件が一致したダッソー・システムズ株式会社へ入社することにした。 練習環境が整い、昨年10月から約半年間の予定でアメリカのクラブチームに合流することができた。初めて海外チームでプレーしたことからは、東京に向けて多くの収穫があったという。 「自分のプレーが世界でも通用することを確認できた。そして彼らの強さは『ハート』だと気づいた」 官野は障がいの重い選手だ。そのため得点を取りに攻める障がいの軽い選手をアシストする役割を担っている。野球で例えると6番レフトだろうか。それでもコートではパワーのある軽度の選手にタックルをしかける果敢さが求めれる。そうすることで得点を狙う選手を牽制するのだ。アメリカでは自分よりもパワフルな相手にひるまず挑んでいく『ハート』を学んできたという。 「チームのために、もっと勝負していく選手になりたい」語気を強めてそう話す。 官野は22歳の時サーフィン中の事故で頸椎を損傷。車いす生活になる。そしてある日、近所のディーラーが開催していた福祉車両イベントに来てい来ていたウィルチェアーラグビー選手に誘われた。 「家に戻ってからパソコンで検索するとアテネパラリンピックに初出場したという記事が出ていた。僕も日本代表になれたら、かっこいいなと思って」 そういった軽い気持ちでウィルチェアーラグビーを始めてみたが、夢中になるまでにさほど時間はかからなかった。
誰もやっていないから面白い 石井康二(その2)

誰もやっていないから面白い 石井康二(その2)

「入所している人たちのコミュニティに入ることが目的だった」 それは友だちを作りたくて部活に入る高校生と同じだ。先輩から受験勉強や恋人のつくりかたを覚えていく高校生のように、国リハでもバスケの仲間たちが、就職や生活に必要な障がい者ならではの悩みを相談し合っていた。 石井は杖などを使えば、ゆっくりと歩くことができた。そのため本格的に車いすを使ったのはバスケが初めてだった。 「スイスイと走れる爽快感が気持ちよかった」 そのことを体感して、すぐさま自費で車いすを購入。しかもそれは日常用ではなく、バスケ用車いすだった。 その後、工業デザイナーとして一般企業に就職したが、社会人生活はストレスも多かった。 「会社の人たちや健常者の友だちといる時間は、どこかで疲れてしまう。自分が障がいをもっているから気を使ってしまうから。けれども車いすバスケチームでは、障がいを気にせず心を開放できる。障がい者のことをわかってくれる人たちだから安心できる。僕にとってスポーツはそういう場所」 そういったスタイルの石井だから、車椅子ソフトボールも日本ローカルな楽しみ方をしている。健常者との混合チーム制で普及をしているのだ。ちなみにアメリカは障がい者だけの、スポーツとして発展してきた。 石井はドライブ好きだ。 「運転する方法は特殊だけれど、クルマを走らせている様子はみんな同じだから、僕が車いすの人だと誰も気づかない。ソフトも車いすに乗ってしまえばみんな同じ。障がいを意識しない環境だから夢中になれる」 アメリカの車椅子ソフトの競技団体は、パラリンピック種目にしようと活動しているが、石井はこれからも健常者を排除することなく、スポーツの仲間づくりをしていくつもりだ。   取材・文/安藤啓一 写真/辻野聡、安藤啓一
誰もやっていないから面白い 石井康二(その1)

誰もやっていないから面白い 石井康二(その1)

「イェーイ」 大柄なアメリカ人選手たちが、陽気にハイタッチしている。ミスプレーした時も、ベンチには笑顔がいっぱい。心の底から楽しそうにスポーツしている。東京で初めて開催された中外製薬2017車椅子ソフトボール大会に招待されたアメリカ代表チームの男たちだ。 ベースボールの国アメリカで、車いすの人たちが楽しめるゲームとして誕生したこのスポーツを、日本に紹介したのが日本代表選手の石井康二たち。車いすバスケットボールをしていた仲間とアメリカの車椅子ソフトボールを体験しにいったのがきっかけだった。 「バスケのアメリカ代表選手も一緒にプレーしたけれど、バスケの時とは違って、のらりくらりと楽しそうにプレーしていた。草野球のようにヤジも飛んでくる。単純にワクワクした」 当時の石井はバスケの強豪チームに所属して、厳しい練習をこなしていた。そういったスポーツのストイックさとは正反対のソフトボールに強く惹かれたという。 帰国すると仲間たちが各地に車椅子ソフトボールチームを作っていった。そして今回の大会は石井が中心メンバーとなり、スポンサーへの営業活動や会場確保といった準備に奔走して実現にこぎ着けた。   石井は高校一年生の春、交通事故で両足に障がいを負った。一年間の入院を経て復学するものの、学校に馴染むことができず退学した。しばらくは自宅でゆっくりしていたという。「母親の送迎でゲームセンターに入り浸っていた」と当時のことを振り返る。 モータースポーツに興味があったこともあり、18歳になるとすぐに自動車免許を取得する。50年以上も前から身体障がい者の自動車教習をしてきた東園自動車教習所は、入所しながら免許取得をすることができるので、全国から車いすの人などが集まっていた。 そこで石井は、国立リハビリテーションセンター(国リハ)の存在を知った。職業訓練でセンターに入所する条件のなかに運転免許の取得があり、そのために教習を受けている人たちが多かったからだ。そのなかに車いすバスケ日本代表として活躍することになる佐藤聡たちもいた。 佐藤は運転免許を取得したら国リハで職業訓練を受けて、バスケをしながら就職先を探す。そして日本代表選手になるという夢を語ってくれた。 その時まで車いすバスケのことも知らなかった石井は、彼から誘われるように国リハへ入所した。そこの体育館では車いすバスケの強豪チームも練習しており、「僕も自然とバスケをはじめた」という。
「競泳」の魅力に迫る (水上真衣)

「競泳」の魅力に迫る (水上真衣)

3月、2018年パラ水泳大会春季記録会においてインドネシアで開催されるアジアパラ競技大会の推薦候補の標準記録を突破。東京2020パラリンピックを目指していくなか、今年は国際大会で結果を出さなければならない重要なシーズンだ。 「昨年は日本代表に選出されなかった。消極的だったと思う。もっと貪欲にがんばっていきたい」 アジアパラ強化指定選手に選ばれたことで、夢の実現に向けて大きなチャンスをものにした。 水泳は2歳の時から続けている。リハビリを期待して親が通わせたのがプールとの出会いだった。競泳は中学生の時から。 「2004年のアテネパラリンピックで成田真由美さんたちの泳ぎをみて、かっこいいなと思った」 2009年、アジアユースパラゲームズに出場して金メダルを獲得するなど、世界大会でも活躍するようになった。「中学生のころは、自分の障がいを隠していた」というが、いつしかパラスポーツの世界でスポットライトのあたる選手になっていた。 現在は東京ガスの社員として働きながらパラリンピック出場を目指している。 「社会人としての経験を積み、練習も仕事もがんばっていきたい」 中途半端なトレーニングでパラ出場が叶うとは思っていない。それでも自立した大人の女性としてパラリンピアンになることが水上のスタイルだ。 応援されることは選手としてのモチベーションになっている。 「試合会場には会社の皆さんが応援に来てくれた。アジアパラの候補に決まった時、周りにいる人たちの笑顔がうれしかった」 そして「パラ水泳の会場で私の姿を見てほしい」という。「地元の東京で開催されるパラリンピックだから絶対に出たい」と今日もプールで練習に励んでいる。   取材・文/安藤啓一 写真提供/一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟、東京ガス
「競泳」の魅力に迫る(小山恭輔)

「競泳」の魅力に迫る(小山恭輔)

「東京2020パラリンピックは水泳人生の集大成になる大会だ」 筋肉の発達以外にも、身体の残存機能を強化することでパワーアップするチャンスがあるパラアスリートは長競技生活が長い。それでも現在32歳の年齢から、東京大会は金メダルを獲るラストチャンスだと自分を鼓舞する。 2008年北京パラリンピックで銀メダルを獲得すると、周囲が次は金メダルだと期待した。そして4年後のロンドン大会は銅メダル、リオ大会は5位入賞だった。モチベーションが上がらず、練習に集中できない時期が続いた。 「リオ大会の時は、自分はここにいていい選手なのかと思っていた」 そのことについて「30歳の葛藤かな」という。そして、「みんなはみんな、自分は自分だ」と吹っ切れた今は、アスリート雇用の選手として自分と向き合い練習の日々をすごす。 「水のなかでは音が聞こえない。それが好き」 そして順位よりも自己ベスト更新にこだわる。3月のパラ水泳大会春季記録会では、50mバタフライで31秒75を出して今季の日本代表に選出された。 「リオ大会の31秒98を超えることが目標だった」 自ら設定した課題をクリアできたことで、東京へステップアップしていくためにも幸先のよいシーズンインとなった。 「アテネパラリンピックの時、半身まひで自分とおなじ障がいをもつ金メダリストが泳いでいるのを見て、自分もそうなりたいと思った」それが競泳を始めたきっかけ。それから10年以上がたち、自分が若いスイマーから目標とされる選手になろうとしている。 「かっこいいと思われるようなスイマーになりたい。東京大会ではファンとの交流が楽しみ」と笑顔で話してくれた。   取材・文/安藤啓一 写真提供/一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟、東京ガス
ハンドバイクをはじめよう!

ハンドバイクをはじめよう!

一般的な車いすは、その構造上行動範囲が非常に限られる。しかし、ハンドバイク、もしくはハンドサイクルといった補助用具を車いすに装着することで、劇的に行動範囲が広がることをご存知だろうか。 ハンドバイクは、自転車の駆動部分のシステムを利用した補助用具。自転車であればペダルを足で漕ぐことで推進力を生み出すが、ハンドバイクは手で漕ぐことで推進力を引き出して走るのである。ハンドバイクは、国産から外国製までいくつかメーカーがあるが、いずれも装着するのはそれほど難しくない。また、充電池を装着し電力のパワーを利用して走ることができる、いわゆる電動アシストタイプもあり、乗り手の嗜好に合わせてタイプが選べる。 野島 弘(以下、野島)は、普段からハンドバイクを利用するひとり。野島曰く、ハンドバイクを利用することでの楽しさは、車いすのそれとは比べ物にならないという。 「まずは、そのスピード。自転車とまではいかないが、それでも車いすで移動するより格段に速いスピードで走ることが可能です。だから、今まで見たことのない、感じたこともない、新しい世界に出会えます。乗り手がその気になれば、自転車ツーリングのように、車いすツーリングが可能。それこそ、1泊2日くらいの旅に出かけたくなります」 実際のスピードは確かに、自転車のそれに近いものがある。ただ、注意すべきことはいくつかある。まずはポジション。これが合っていないと、とても疲れやすくなる。 「ハンドバイクを選ぶ際のポイントにもなるが、装着しペダル部分を持った時にヒジが適度に曲がるのがベスト。伸び切ったり、必要以上にヒジを折りたたむようなポジションの場合は調整が必要になります」 今回は、ハンドバイク初心者の中島涼子さんと桐生寛子さんに、その試乗感を伺った。 「使うのは、今回で2回目。車いすより断然快適です。どこかに行きたくなります」(桐生) 「初めて電動アシストタイプを使用してみました。とてもラクで、少ない力でもしっかり進むので、女性やパワーに自信のない方にもオススメです」(中嶋) 気になる値段は、メーカーによって異なるのでそれぞれ問い合わせてみよう。もっと自由に出掛けてみたいと考える方に、俄然オススメしたい。ハンドバイクでいつもより遠くへ出かけてみてはいかがだろう。   写真/甲斐啓二郎 文/編集部
パラスポーツ選手、片手でクッキング

パラスポーツ選手、片手でクッキング

身体づくりのために食事にこだわるアスリートは多い。食事量、栄養バランスだけでなく、筋肉づくりにはトレーニング直後に食べるといいなど、食事時間も気にかける。そうした食事は自炊が理想だが、料理があまり得意ではないという選手も多い。 料理は作業のフルコース。持ち運ぶ、切る、盛り付けるなど、多種多様な動作を伴う。そのためリハビリテーションにつながる反面、片まひなどで手指に機能障がいがあると難しい調理もある。 そこで長年、片まひ料理教室を開催してきた横浜市リハビリテーション事業団と東京ガスは、コラボレーション企画で料理ブックを発行。今回はパラアスリートたちが片手でする料理を体験した。 東京ガス 東京2020オリンピック・パラリンピック推進部・原口聖名子さんは、「片まひになった社員から料理のサポート情報が少ないと聞いたことがきっかけ」とその経緯を紹介。横浜市リハビリテーション事業団・常務理事の小川淳さんは、「再び料理ができるようになるためのプロセスが大切。ちょっとした工夫やアイデアによって自信をもつことができる」と話した。 献立開発では簡単な味付けにした。片手の作業では調味料の準備が大変なためだ。また単純な工程であることや、自宅での再現しやすさもポイント。 料理体験では、片まひになった自分に料理ができたという達成感を重視。そのため料理初心者が参加する場合は、スタッフが道具の準備をしておき、参加者は食材を切るところから、炒める・煮る・味付けといった調理、盛りつけまでを体験する。片づけをするのも余裕がある参加者だけだ。 自分で料理することは少ないという選手たちも楽しく体験できて、これなら自宅でできると好評だった。   取材/安藤啓一 写真/石橋謙太郎
未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その3)

未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その3)

鈴木●もうひとつ、ぜひお聞きしたいことがあるんです。小椋さんは全日本選手権で5連覇されましたが、連覇がかかった大会に、どう臨まれたのでしょうか。 小椋●一番きつかったのが2連覇の時です。初めての連覇がかかった大会で、自分で〝連覇〞をすごく意識してしまったんですね。これが途切れたら、もう一度最初からやり直さなくてはいけないと思うとすごく怖くて。これをやったら負ける気がするというような、悪い意味のジンクスみたいなものに縛られていました。 鈴木●たとえば、どんなことを? 小椋●炭酸飲料が大好きだったんですけど、飲んじゃいけないと思って手をつけなくなったとか。 鈴木●ええ、そういうこと? 小椋●変な決まりをいっぱい作ってましたね。でも、オリンピック前のプレッシャーとは違うんです。やらなくてはいけないことがわからないくらい自分を見失う、ということではなかった。自分は一番強いという自信はありました。 鈴木●ああ、それはわかります。私も今はそう思っています。 小椋●自信はあるけど、弱気な自分もいるので、自信をわざと表に出してた。だから、「めちゃめちゃオーラが出てきたね」って初めて周囲に言われたのが、この2連覇の時だったんです。あの時には、絶対に負けないという強い気持ちがありましたね。 鈴木●全日本で連覇するのは本当にすごいです。 小椋●試合前日の夜は眠れなかったです。でも、あれを乗り越えたというのが、その後の人生、いい方向に向いていったと思う。あれで勝てたからこそ、オリンピックに出場できたと思います。 鈴木●それほどのものだったんですね。その後の競技人生を左右するような。 鈴木さんにとっては先日の町田の決勝も、まさにそういう試合だったのではないですか。 鈴木●ああ、そうかもしれません。 小椋●国際大会では、中国にいつも負けていたんです。いい試合だけど勝てない。ある日、今日負けたら、今までと何も変わらないなって思ったんです。それを試合中に痛感して、今日は絶対に勝とうって。 鈴木●試合中に、ですか? 小椋●もう、「いい試合したね」はいらない。もちろん、プロセスや試合内容は重要ですよ。でも、一番大事なのは結果です。いい試合だったとか、いい経験だったというのは大切だけど、それだけでは絶対にダメで、どういう形で勝ったかという勝ち方をどれだけ知っているかがすごく重要だって、思いますね。勝ちを意識するようになったら、負けなくなったんです。 鈴木●深いですね。 小椋●めっちゃダサい試合もしました(笑)。すごくいい試合内容で勝てば、選手としては気持ちいいです。華もあるしスカッとしますよね。でも、長いラリーが続いて相手のミスを誘って勝つみたいな勝ち方もある。 鈴木●ありますね、長いラリー。 小椋●そういう山を越えると、その時の経験がその後に生きてくるし、経験値が増えると試合中に余裕が生まれるんです。 鈴木●私も、町田の決勝で対戦した中国の選手に、それまでに2回負けてたんですね。だからここで負けたら、もう鈴木はこの中国選手には勝てないって周りに思われるだろうな、そう思われたら嫌だなって思ったんです。ここでどうしても優勝したい、金メダルが欲しいってすごく思って臨みました。カッコよく勝つ必要はないけど、とにかく1点ずつ得点を重ねていこうって。カッコよく決める1点と、ラリーして決める1点は実は、同じ1点だから。 小椋●まったく同じこと、思ってました。私はそれにプラス、相手がミスしても1点だって。自分のコートにシャトルを落とさなければ失点しない(笑)。 鈴木●本当! おっしゃる通り! 小椋●ネットを挟む競技って、そういう意味ではいろんな勝ち方、得点の仕方がある。バドミントンってこっちが息を吹き返してきたら相手が焦ったりする。その気持ちの波、流れやリズムが必ずあるんですよね。考え方を変えるだけで試合を変えることができる。 鈴木●対戦相手を見て、今ちょっと焦ってるのかなって思うこともありますよね。 小椋●それがわかるのはめちゃくちゃ余裕がある。焦っている時は無意識にいつも通りの癖が出てしまう。だから、相手が打ち込むコースがわかりますよね。 鈴木●反対に自分に余裕がなければ、やっぱりいつものコースに打ってしまいがちで、相手がどこにいるからこういう球を打とうという発想が生まれないですね。 小椋●バドミントンって、メンタルスポーツなんですよ。 * 幼い時からバドミントンを続けてこられたわけですが、そのバドミントンの魅力は何でしょうか。 小椋●すごく奥が深いところ、ですね。ひとつのショットにしても打つ体勢によって質や弾道が変わります。やっても、やっても、まだまだ先がある、奥がある、というのがプレーしていてすごくおもしろい。バドミントンって身体が小さくても勝てるし、頭脳や球際のセンスで身体の大きな選手を打ち負かすこともありますよね。勝つパターンもひとつじゃない。 鈴木●私もすごくそう思いますね。私は足は速くないですし、陸上競技選手だったら、パラリンピックに出場できない(笑)。身体が大きい人や、運動神経がいいというだけで勝つわけではなく、自分のショットを工夫して勝つことでやっぱり喜びがあります。自分の弱点をわかった上で、じゃあどんなショットだったら相手に勝てるかということを追い求めていけるんですよね。 小椋●そう、バドミントンってどんな人にもチャンスがあるんです。どこまでも追求できる。そこが魅力だと思いますね。 日の丸を背負う、ということで大切にしていることはありますか。 小椋●当時、「感謝」ということを口すっぱく言われていました。あなたが日本代表として日の丸を背負うことで、あなたのその場所に立ちたかった選手がたくさんいる。そういう人たちの気持ちも背負って戦いなさい、と。それを言われるようになってから、自分がどういう状況でも責任をもって試合に臨まないといけないと強く思うようになりましたね。海外遠征にしても、代表であれば国の税金を使わせてもらったり、あるいは会社が負担してくれているわけです。自分ひとりで競技を続けられているわけではないということを、自覚するようになりました。 鈴木●感謝は本当に大切ですよね。会社という組織のなかで練習の時間をいただけていること、体育館があることで、私が競技を続けていくための環境が整っている。すべてに感謝です。この環境がなければ今の私の結果は出せていません。それを感じつつ、自分がどこまで挑戦できるか。そこを目指して今も進んでいます。 鈴木選手の東京パラリンピックの目標は。 鈴木●やっぱり、金メダルが目標です。 小椋●鈴木選手には東京パラリンピックの舞台に絶対に立って欲しいって思っているんです。今、私が鈴木さんとこうやって北京オリンピックの頃の経験などをお話しできるのも、その場に立てたからこそ。鈴木選手が世界最高峰の舞台に立って初代チャンピオンになるところをぜひ見たいと思っています。
未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その2)

未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その2)

鈴木●小椋さんが北京オリンピックの出場権を獲得した前後で、どんな心境の変化がありましたか。 小椋●実際には当時、日本のなかで世界ランキングがトップだったので、おそらくオリンピックに出場できるだろうということは、ある程度わかっていました。でも、実際にオリンピック出場が決定した2008年の5月は、うれしいというよりもやっとスタートラインに立ったというホッとした気持ち。単にオリンピック出場だけならそこで達成ですが、その先にメダルを取りたいという目標がありましたから。でも、残り3ヶ月を考えた時にメダルを取れる位置にはいないよな、ということを痛感して身震いしていたという感じでした。中国の出場枠は3ペアでしたが、実際には4ペアも強豪が争っていたほどでした。 鈴木●4組ですか!? 小椋●プラス韓国とチャイニーズタイペイ。勝ったことがある選手もいたけど、10回のうち1回勝っても、それではほとんど負けてるようなもの。だからオリンピックまでにすごく自分を追い込んでいました。3ヶ月間に3回ぎっくり腰しましたから! 鈴木●3回も? 小椋●当時、誰も話しかけられなかったよってみんなから言われます。自分だけでなく周りの環境がものすごく変わるので、そこには引っ張られないほうがいいと思う。 鈴木●周りですか? どういう風に変わりましたか。 小椋●まず壮行会がめちゃめちゃあるんですよ。それに取材もすごく増える。もう、肌で感じるくらいオリンピックってこれだけの人が注目するんだって。実際、オリンピックで北京のコートに立っていても、日本で応援してくれているというのがすごく想像できる。オリンピックは本当に別物。日本だけでなく、世界中の人が注目する場なんだということを実感しましたね。 鈴木●世界選手権やアジア大会とオリンピックでは、どう違うんでしょうか? 小椋●4年に1度という月日の長さも違うし、それこそ中国や韓国は死に物狂いでくる。プレー中でも、他の大会だったら絶対に取れないでしょうという球をどんな体勢でも取ってくる。そういう想念みたいなものが強すぎて、反対にすごく優れた選手が空振りしたり、こけたりする。 鈴木●ええっ! 想像つかない。 小椋●それから、やっぱりオリンピックは世界一の大会だから、過熱報道にもなるんです。でも、それは日本だけではないと思う。 鈴木●そうなんですね。 小椋●他の国では金メダルの評価って、日本とは比べものにならないくらい高いところも多いですよ。東京オリンピック・パラリンピックが決定してメディアの関心はすごく高まってるでしょう? 鈴木●そうですね。先日、町田で開催された国際大会(ヒューリック・ダイハツ JAPANパラバドミントン国際大会)でもたくさんテレビや新聞の取材があって、どう自分が対応すべきか、勉強になりました。 小椋●2020に向けて、さらに注目度は上がっていきますよ。
未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その1)

未知の領域へ 小椋久美子さん・鈴木亜弥子さん(その1)

お二人がバドミントンを始められたのはどんなきっかけでしたか。 鈴木●両親がともにバドミントン選手で、年子の姉もバドミントンをしていたので、自然と始めました。小学3年の時です。 小椋●私は小学2年の時から。4人兄弟で姉、兄、私、弟なんですが、地元が住民1万人ほどの小さい町でスポーツ少年団で女子ができるスポーツがバドミントンとバスケだったんですね。兄弟4人が一緒に楽しめるスポーツということでバドミントンでした。 お二人とも高校時代にはインターハイに出場しています。競技者としての意識はいつ頃覚醒したのでしょうか。 鈴木●中学3年の時に関東大会のダブルスで優勝したんです。誰も期待してなかったので、あ、勝っちゃったみたいな感じでした。 小椋●高校はどこですか。 鈴木●埼玉県の越谷南高校です。インターハイ団体戦でベスト16。その後、JOC(ジュニアオリンピック)に出場して全国大会で2位になりました。 小椋●え、JOCの全国大会で準優勝? それはすごい! 鈴木●ダブルスで1回だけ。その大会で2位になったことで2004年の全日本に出場できたんです。 小椋●その全日本、大阪で開催された大会ですよね? 鈴木●そうです。その時、小椋さんが優勝されています。うわあ、こんなすごい選手がいるんだって、衝撃受けてました。 小椋●私たち初めての優勝だったからよく覚えてる。でも、無我夢中で何も見えないなかで戦っているような記憶だなあ。ただがむしゃらに頑張ってたという感じで。 鈴木●本戦に出場できたので、すごく思い出があります。 小椋●私は高校が四天王寺高校という強豪校にいて、2年の時にインターハイのダブルスで準優勝。普通、準優勝なら結果としては決して悪くないですよね。それなのに、次の日の練習からさらに厳しくなって、負けは許されないという空気でした。最初はすごく戸惑いましたけど、それが当たり前のなかで続けていたら、自分もやっぱり〝優勝したい〞と思うようになりましたね。卒業して三洋電機に入社してから、責任感が芽生えました。鈴木さんは今、実業団チームに所属されてるんですよね。 鈴木●はい、七十七銀行に。 小椋●お仕事もされてる? 鈴木●午前中はオフィスワークで す。 小椋●私も、週に2日、半日は仕事でした。ちゃんと制服に着替えて工場に行って。高校までは親にバドミントンを続ける費用は全部面倒見てもらっていた。でも、自分できちんと仕事としてお金をいただいてバドミントンを続けるというのは、責任感とか大きく変わりません? 鈴木●変わりましたね。優勝しなきゃって、すごく思います。 * 小椋選手が2008年北京オリンピックに出場された1年後、2009年に鈴木選手はパラバドミントンの世界選手権で優勝されました。 小椋●でも、2010年のアジアパラで優勝した後、一度現役を引退されたって聞いています。 鈴木●はい、2011年から2015年までの5年間、バドミントンから離れてました。 小椋●5年間! それは長い。 鈴木●2020東京パラリンピックでバドミントンが正式種目になることが決定して、それでもう一度やろうと思って、そう決めてから七十七銀行に入行したんです。 小椋●東京が決まってから復帰したんですか。やっぱり、東京はすごいパワーがありますね。 鈴木●2014年の10月に正式種目決定というニュースを聞いた後、1年間じっくり考えて復帰を決意したんですね。改めてラケットを握ったのは、復帰を決めてからでした。 小椋●復帰して最初、ラケットにシャトル、当たりましたか(笑)。 鈴木●姉とプレーしたんですが、クリア(注:相手コート奥に返球するショット)を飛ばすのもいっぱいいっぱいでした(笑)。 小椋さんがパラバドミントンを初めてご覧になった時の印象は。 小椋●鈴木さんと同じ障がいカテゴリーの豊田まみ子選手の取材したのが最初です。その時にちょっとだけラリーをしたんですよ。彼女は片腕がないのですが、この身体のバランスでこんな力強い球が打てるのかと。自分の身体を理解して、どう動かしたら打てるのかをすごく考えてるんだろうな、と感じました。 * 一般のバドミントンもパラバドミントンも、世界のなかでアジア、そして日本は強豪国です。その理由はどのようなことなのでしょうか。 小椋●パラバドミントンだと、アジアの強豪国ってどこですか。 鈴木●クラスによって違いますが、私と同じ上肢障がいでは中国、インドネシア、マレーシアなどですね。義足などのクラスでもインドネシアが強いです。車いすでは韓国。 小椋●そうか、一般のバドミントンと同じですね。中国は北京オリンピックを目指してシドニーやアテネの頃から強化が進んでいたんです。中国の場合は、優勝すれば一生保証される。それが大きなモチベーションになってますね。インドネシアやマレーシアはバドミントンが国技になっていて、町の公園みたいなところにネットがある。自然と小さい時からテクニックが身につくし、外でやっているから風にも強い。ブラジルのサッカーみたいな感じかもしれませんね。楽しみながら小さい時からバドミントンをやっている。 鈴木●環境は大事ですね。 小椋●日本でも、とくに最近は小さい時から楽しみながらやっていて海外選手を相手にしても怯まない。そこは私たちの時代と変わってきたなあって思いますね。それでいて、日本の伝統的な粘り強さが継承されているので、海外選手からいつも賞賛されています。一般のバドミントンでは、今ジュニア育成がすごく確立されていて、それが結果につながっていると思いますね。 鈴木●ジュニア育成はいつ頃から? 小椋●アテネ五輪が終わった後に朴柱奉(韓国の元バドミントン選手で、現在は指導者として活躍)さんが日本代表監督に就任されて環境が大きく変わりました。ジュニア育成で言えば、U 13というカテゴリーがあって、最近は小学生でも海外遠征に出かけたりしています。ジュニア世代で世界の戦い方、選手を知る経験は貴重ですよ。 鈴木●そこはパラバドミントンの世界とは違いますね。 小椋●私たちの時代って、オリンピックのバドミントンの試合も中継がなかったから、先輩たちがオリンピックでどういう戦いをしているのかは、せいぜい専門誌で写真と記事を見るくらい。でも、今の子供たちは日本人選手が世界で活躍している姿をテレビで見ることも多いから、自分たちも頑張ろうって具体的にイメージできるのかな。
感覚をフル活用し、ボールを操れ!(その2)

感覚をフル活用し、ボールを操れ!(その2)

OFF TIMEで感じたこと。人間が、普段どれだけ視覚からの情報を頼りに行動をしているかということ。目の前に広がる状況を判断する際に、人間は5つある感覚(視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚)のうち8割以上を視覚からの情報に頼っているといわれる。それをまざまざと実感。 そして、今回は参加者とコミュニケーションをとりながらさまざまなプログラムをこなしたわけだが、その際の声の重要性も痛感。目が見えない状況で、誰かに何かを伝える際にはまず声が大事。声の高さ、話すタイミング、言葉の選び方など、いろいろと考えながらのコミュニケーションが重要だと感じた。 あと、普段自分はそれなりに声を出してコミュニケーションをとっているつもりだったが、全然足りないなとも思った。そして、イマジネーション。見えない状況で、目の前にある空間をイメージし適切な動作を考える。感覚をフル活用しイメージを膨らませボールを追いかける。次第にこの作業がおもしろいなとも感じられるようになった。そして最終的に、あることに気づく。 「ブラインドの人たちは、こうした状況で、激しいプレーをしているのか!」と。思わず感嘆。 最初に企業が研修に利用しているとも書いたが、それも納得。コミュニケーション能力が問われ、課題を攻略するためにチームでベストな活路を見出す様は、まさに企業が目指すところ。またそれは、ひとりひとりの人間にも必要だとも感じた。五感をフル活用しイメージすることを怠らず、コミュニケーションをしっかり取る。日常生活を良好に過ごすうえで、いずれも大事なことだと思う。 OFF TIME。ブラインドサッカーを体験するだけでなく、いろいろな〝気づき〞を感じさせてくれる空間がそこにはあった。

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