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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介
- 僕はずーっとパラスポーツ・サポーター! 香取慎吾さん独占インタビュー
僕はずーっとパラスポーツ・サポーター! 香取慎吾さん独占インタビュー
- 国際パラリンピック委員会の特別親善大使として、また日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーター、朝日新聞パラリンピック・スペシャルナビゲーターを務めるなど、パラスポーツの普及のために尽力している香取慎吾さん。残念ながら新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京パラリンピックは延期となったが、香取さんのパラスポーツへの思いはますます熱く高まっていると言う。 ※このインタビューは『パラスポーツマガジンvol.7』に掲載した記事から一部を抜粋したものです。 パラスポーツを好きになって自分の画に変化が ―香取さんは2015年にパラサポ(日本財団パラリンピックサポートセンター)のオフィスに壁画を描き、その後2017年にスペシャルサポーターに就任しましたが、パラスポーツや障がい者との接点は以前からあったのでしょうか。 「ほとんどないです。子どもの頃、学校に車いすの生徒がいたということはありましたけど、それくらいです。あとはコンサートで車いす用の席をつくるとか、そういう関わり方はしてきました。だから壁画を描くことになった時も、障がいを持つ方のことがよくわかっていなかったというのが正直な話です」 ―壁画のオファーを受けた時は、どんな想いでしたか? 「自分が趣味で描いている時は、この風景を描こうとかこの人物を描こうというのではなくて、頭の中のものが勝手に筆に向かって滑りだしていくというか、自分でもなんだかわからない中で描きあげていくことが多いんです。でも依頼を受けた場合は、依頼先からの話を聞いたり調べたりして描くほうです。で、パラリンピックと聞いた時、浮かんだのは車いすでしたが、参加しているのは車いすの方だけではない。義足の方もいれば視覚に障がいがある方だっている。それでまずはパラリンピックについていろいろ聞いたり調べたりしてみました。ちょうどその頃、行われていたのがロンドンのパラリンピック」 ―2012年ですね。 「今までのパラリンピックをくつがえすほど盛り上がっていて。ハートが気持ち良くなるようなステキな大会だったんです。東京も同じように魅力的な大会にしたいということだったので、これは車いすとかそういうことにこだわることなく描いてみようと。その結果、富士山や日本に海外からたくさん人が来るのをイメージして飛行機を描いたりと、日本に寄せた画になりました」 ―今年も青山学院大学に壁画を描かれましたね。 「学生たちから『人それぞれ考え方は違うけれど、みんなでひとつになって生きていこう』というテーマを提案されました。そうしたら、そこで車いすのようなモチーフや足がない方、腕がない方を普通に描けるようになっていたんです。2015年から5年間ずっとパラリンピックを応援してきて、パラスポーツを好きになったのが大きかったようで、車いすなどの画が自分の中ですんなり気持ち良く表現できるようになっていたんです。最初は本当に車いすの人にどう接したら良いのかわからなかった。僕はもともと握手したりハグなどを積極的にしていくタイプなんですが、車いすの方の場合、触れてはいけない箇所があるかもしれないからと躊躇していた。でもいろいろパラスポーツに挑んでいろいろ知っていくうちに、隔たりがなくなりましたね」 香取さんがパラサポの活動コンセプト「i enjoy!」をテーマに描いた壁画(縦2.6m×横6.1m)。香取さんとパラスポーツをつなぐ出発点となった(写真提供:日本パラリンピックサポートセンター) パラスポーツを自分で体験して伝えたい ―ちなみに一番ハードだと感じたパラスポーツは? 「今までに20種目弱くらい体験してきましたけど、ウィルチェアーラグビーは体に悪いのではないか(笑)と思うくらいハードでした。『なんでこんなことするんですか』と聞きたくなったくらい(笑)。『車いす同士でぶつかった時の音が快感じゃないですか』と言われましたけど、怖いし、痛いし。車いすバスケットボールに挑んだ時も、普通のバスケとゴールの高さが同じなので、全然シュートが届かないんですよ。あれもビックリしましたね。あと怖いと言えばゴールボール。選手のみなさんも痛くて怖いと(笑)。『そうだよね、僕だけじゃないよね』と思いました」 ―実際パラスポーツを体感して競技の見方は変わりましたか? 「変わりましたよ。自分がひとつでも多くパラスポーツを体験して、それを伝えられたらと思うようになりました。そうすれば、パラスポーツに興味を持ってもらえるかもしれないし。やっぱり知ることで感動だったり、どこかアスリートのみなさんから背中を押してもらえるというか。そういうこともあると思います」 ―新しい発見はありましたか? 「たとえば、カテゴリーとかランク。ひとつの競技でもそれが分かれたりしていると、なにかむずかしいような気がしてましたが、でもそこの知識を得て理解すると、さらにおもしろ味が増しましたね。あと結構、パラスポーツの選手の方って負けず嫌いが多いんです。それこそ子どもの頃から、いろいろなハンディを感じた悔しさとか、他人に手伝ってもらいながらももっともっとやりたいという気持ち。そういう思いを爆発させて、一等賞を獲得することに熱く貪欲にパワーを傾ける。僕はあんまり負けず嫌いではないほうなので、選手のみなさんの競技に対する熱い思いはすごく刺激になりますね。あとおろしたての靴を履いていて、それを褒められたらうれしいと思うことってありますよね」 ―カッコいいスニーカーだね、とか? 「それと同じで、車いすに赤いラインを入れていた選手に、『赤色お好きなんですか?』と聞くと『そこを触れてくれるとすごくうれしいですね』と言われたことがあって。そういう見方をしたことがなかったので、そういう話ができると、なんかいいんですよね。あとサポートの面で発見したことと言うと、まだまだスタッフも足りないし、自費で動かないといけない部分もたくさんある。システム自体がまだ充実していない面もある。協会自体もだんだんと大きくなってきているところですから。そういうところでも僕が何か発信することで、多少でも変化のお手伝いができたらいいなと考えているんです」 ―その発信というのは、SNSなどを駆使するということになるんでしょうか? 「もちろんSNSもひとつの方法ではあると思いますけど、正直発信に関しては何でもいいと思っているんです。だからこの取材のように呼んでいただけるのはうれしいですし。どこでもいいので僕が体験・経験したことを知らせていきたいですね」 ※この後、東京パラリンピック延期について、パラリンピックで楽しみにしていること、コロナ禍でかんばるパラアスリートへのメッセージなどをお話しくださいました。「東京パラリンピックを盛り上げることで、日本が変わる可能性もある」と言う香取さん。続きは『パラスポーツマガジンvol.7』をご覧ください。 これまで約20競技のパラスポーツを体験したという香取さん。身をもって知ることで、パラスポーツへの理解が深まっていったと言う 香取慎吾(かとり・しんご) 1987年にジャニーズ事務所に入り、翌88年にSMAPを結成。96年に日本テレビ系「透明人間」で連ドラ初主演を果たす。その後はドラマや映画、CMなど多数出演。また2000年には慎吾ママとして「慎吾ママのおはロック」を発売。「おっはー」が同年の流行語大賞にもなった。2016年12月にSMAP解散後、2017年から「新しい地図」の活動をスタートし、初の個展を開くなどアーティストとしても活躍。パラスポーツの普及のためにも奮闘している。1977年1月31日生まれ、43歳。神奈川県出身。 取材・文/横森文 写真/高橋淳司 スタイリスト/黒澤彰乃 ヘアメイク/石崎達也
- 【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法⑤
【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法⑤
- 新型コロナウイルスの流行で、災害時の対応に注意すべき点が増えました。補助器具(車いす、杖など)を使って自力移動ができる肢体不自由者の場合の防災方法を特集したこの企画、最終回の第5回目は「新型コロナウイルス影響下での避難生活の注意点」を紹介します。 ※アイキャッチ画像/piyo_piyoさんによる写真ACからの写真 新型コロナウイルス影響下での避難生活の注意点 新型コロナウイルスの感染の恐れのある現在の状況ではは、避難時でも、しっかりとした感染対策が重要。避難場所は、3密(密閉・密集・密接)の状況になりやすいので、特に注意が必要だ。 コロナ時代の避難は、どういうところに注意すればいいのか、「新型コロナウイルス避難生活お役立ちサポートブック」をつくった認定NPO法人全国災害ボランティア支援団体ネットワーク代表理事の栗田暢之氏に聞いてみた。 「コロナ禍での避難は、密を避けるために指定された避難所に限らない分散避難が言われています。特に障がい者は危険が迫ってからの移動が困難なので、自分がどこに避難するのか、事前に決めておくことは重要です。そのためには、まず自宅がハザードマップのどこにあるのか確認しましょう。自宅が安全な場所にあるなら移動しないのがいちばん。浸水被害が想定される地域でも、マンションの上層階なら避難しないほうがいい。ただし、備蓄を十分しておくのが条件です。 もうひとつは、普段から交流のある知人、友人、親戚宅。障がいのことを理解してくれている人がいたほうが安心。また、自宅近くのビジネスホテルという選択肢もあり、いざというときにはホテルのスタッフが対応してくれるので安心です。 このように、いちばん心地よい避難場所はどこなのか、事前に考えておくことは重要です」 いずれにせよ、自分に必要なものはしっかり用意して、非常時に対応できるようにしたい。 知っておくべき5つのポイント ※内閣府(防災担当)発表 1 避難とは「難」を「避」けること。安全な場所にいる人まで避難場所に行く必要はない 2 避難先は、小中学校・公民館だけではない。安全な親戚・知人宅に避難することも考えてみる 3 マスク・消毒液・体温計が不足している。できるだけ自ら携行しよう 4 市町村が指定する避難場所、避難所が変更・増設されている可能性がある。災害時には市町村ホームページ等で確認する 5 豪雨時の屋外の移動は車も含め危険。やむを得ず車中泊をする場合は、浸水しないよう周囲の状況等を十分確認する 取材・文/辻野聡 協力/岡野善記(車いすインストラクター)、神奈川リハビリテーション病院 参考資料/新型コロナウイルス避難生活お役立ちサポートブック(認定NPO法人全国災害ボランティア支援団体ネットワーク、避難生活改善に関する専門委員会)
- 【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法④
【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法④
- いまの日本、災害時にどのように命を守るかは、喫緊の問題となっています。補助器具(車いす、杖など)を使って自力移動ができる肢体不自由者の場合の防災方法を特集したこの企画、第4回目は「災害発生時の対応」を紹介します。 ※アイキャッチ画像/八木迷々さんによる写真ACからの写真 災害が起こったら 自宅で大きな揺れの地震が起こった場合、まず自分の身を守ることを優先しよう。車いすの場合は勝手に動かないようにどこかにつかまって揺れが収まるのを待つ。 そして、火の始末をし、家族の安全を確認し、テレビやラジオで情報を入手する。ひとり暮らしの場合は、支援者に連絡し避難の準備を始めよう。 また、大雨などで警戒レベル2が出たら、いつでも避難できるように準備をしておく。 避難所へ向かう時の支援 杖を使用している人の場合は、必要な支援を聞いて、歩行スピードに合わせてサポートする。 車いすの場合は、まず、どんなサポートが必要か、車いすのどこを持てばいいのかなど(頑丈な部分)支援の際に必要なことを聞く。車いすを押す場合は、ユーザーが恐怖心を抱くことがないよう注意する。下の写真のような避難器具があれば便利だ。 牽引式車いす補助装置/本来車いすは後ろから押すことしかできなかったが、「じんりき」は前から引っ張ることを可能にしたもの。必要な時にワンタッチで取り付けることができる 階段の登り降りが必要なところでは、運搬方法を聞いて、安心できる方法でサポートする。階段を登り降りするには、2人以上のサポートが必要だ。 電動車いすの場合は、人を含めると100キロを超える場合がある。車いすごと持ち上げるのが困難な場合は、車いすと利用者を別々に運ぶ選択肢もある。 避難所での支援 体育館のような広い避難所では肢体不自由者は出入口近くの場所が便利。奥になってしまうと、通路が狭く車いすが自由に通行することがむずかしくなる。 避難所に多目的トイレがない場合は、仮説の施設を速やかに設置し、施設のバリアフリー化に務める。また、体育館の床は、冬だとかなり冷えることもあるので、個室を用意したり、毛布などを優先的に配布する。 取材・文/辻野聡 協力/岡野善記(車いすインストラクター)、神奈川リハビリテーション病院 参考資料/NHK災害時障がい者のためのサイト
- 【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法③
【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法③
- 被災した際、最初の3日間をしのぐことができれば、救助などの状況が良くなると言われています。補助器具(車いす、杖など)を使って自力移動ができる肢体不自由者の場合の防災方法を特集したこの企画、第3回目は「避難時に持っていくもの」を紹介します。 ※アイキャッチ画像/beauty-boxさんによる写真ACからの写真 自分の生活に必要なものを用意 いざ避難というときに、何を持って行っていいかわからないと、困ってしまう。事前に必要なものをリストアップして、避難用袋などに入れておこう。 一般的な避難生活に必要なものについては、防災マニュアルなどで確認してそろえておく。 実際の避難生活では、以前に比べて障がい者に対しての理解が進んでいるものの、特別な支援は期待しないほうがいい。自分に必要な物は、すべて自分で用意しておいたほうが安心だ。 電動車いすの利用者は、予備のバッテリーや充電器も必要。停電が続くことも考えられるので、避難所に発電機があるかどうか事前に確認し、ないなら自分で用意しておいたほうがいい。介助する人がいるなら手動式車いすも選択肢のひとつだ。 在宅避難で必要なもの 在宅避難は、自宅や親戚、知人の家を避難所にする方法。障がい者が快適に過ごせる環境を考えると、在宅避難は選択肢のひとつになる。 ただし、在宅避難は避難場所が安全であることが条件。事前に地域のハザードマップで確認しよう。マンションだと耐震性が高いことが重要だ。 在宅避難は救援物資を当てにできない。必要なものは備蓄しておくことが条件だ。 避難場所が自宅以外の場合 自宅以外を避難場所にする場合、いろいろな救援物資の恩恵に預かることができるという観点では、避難所が比較的過ごしやすいと言える。 避難所以外で考えられるのが、自家用車や公園などに張ったテントに避難する方法だ。ただし、車は狭く快適とは言えず、テント泊は必要なものがさらに多くなる。また、どちらも外気温に影響されやすく、体調管理がむずかしくなることを知っておきたい。 取材・文/辻野聡 協力/岡野善記(車いすインストラクター)、神奈川リハビリテーション病院 参考資料/NHK災害時障がい者のためのサイト
- 【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法②
【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法②
- 補助器具(車いす、杖など)を使って自力移動ができる肢体不自由者の場合の防災方法を特集。2回目は「避難への備え」と「家族や支援者の災害時の対応」について紹介します。 ※アイキャッチ画像/FineGraphicsさんによる写真ACからの写真 災害への備え ~②避難への備え~ もしも自宅が災害に見舞われる恐れがあるなら、安全な場所に避難しなければならない。 避難の判断基準になるのが、水害・土砂災害で出されている各市町村の避難情報。次のように5段階の警戒レベルになっている。 警戒レベル1 早期注意情報 警戒レベル2 洪水注意報・大雨注意報等 警戒レベル3 避難準備・高齢者等避難開始 警戒レベル4 避難勧告・避難指示(緊急) 警戒レベル5 災害発生情報 通常は警戒レベル4で避難を開始するが、障がい者は避難に時間がかかるので、高齢者と同じ警戒レベル3が発令されたら、直ちに避難を開始しよう。 ここで問題となるのが避難場所と避難経路。初めてだと道がわからなかったり、通れると思っていた道路が通れなかったり。避難場所、避難経路は事前に必ず確認しておきたい。さらに、各自治体に避難時の障がい者への対応も確認しておこう。 災害への備え ~③家族や支援者の災害時の対応~ 災害発生時、同居している家族が必ずしも一緒にいるとは限らない。障がい者本人がひとりで外出している場合や、家族が外出している場合が考えられるからだ。お互いの安否が心配で、どうにか連絡を取りたいと思うに違いない。 通信インフラが被害を受けていなければ、かかりが悪くなることはあるが、何とか連絡ができるかもしれない。携帯各社が行っている災害用伝言板サービスも活用することができる。 問題は通信インフラが被害を受けて、連絡が不可能になった場合。こうした場合は、あらかじめ避難場所を決めておき、そこで落ち合う段取りをつけておこう。 また、日常生活で介助や介護を必要とし、ヘルパーや支援者に支えられている人は、災害が起こった場合(ヘルパーが被災してケガをした、亡くなったなど)、同等のサービスが受けられなくなるかもしれない。ヘルパーを派遣している事業所や家族と相談しておくといい。 取材・文/辻野聡 協力/岡野善記(車いすインストラクター)、神奈川リハビリテーション病院 参考資料/NHK災害時障がい者のためのサイト
- 【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法①
【障がい者のための】被災後3日間を耐え抜く防災方法①
- 阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震などの災害の他、台風や大雨による災害が多発している近年の日本。誰もが何らかの災害に遭遇する危険性がある。いざというとき困らないように、しっかりと備えをしておきましょう。今回は、補助器具(車いす、杖など)を使って自力移動ができる肢体不自由者の場合の防災方法を特集。初回は「自宅での備え」について紹介します。 ※アイキャッチ画像/DragonOneさんによる写真ACからの写真 災害への備え ~自宅での備え~ 災害は、いつ起こるのか、まったく予想をすることはできない。だからこそ、いつ起こってもいいように、普段から万全の備えをしておきたい。 障がい者だからといって、何か特別なことをしなければいけないのかというと、そうではい。基本的な災害への備えは、一般健常者と同じだが、そこに自分の障がいに合わせた、必要な備えを加えるようにすればいいだろう。 まず大切なのは、自宅で災害が起こったときのための対策だ。ここで想定されるのは地震。家具が倒れたり、棚から物が落ちてしまうと、下敷きになったりケガをする恐れがある。倒れそうな家具はしっかり固定し、棚にはあまり物を置かないようにしたい。また、部屋の中に物が散乱してしまうと、車いすが通れなくなってしまう。日頃から整理整頓を心がけ、不要なものを通路などに置かないようにすることも大事だ。 避難時に必要な、車いす、歩行補助具は、被害を受けず、すぐに取り出すことのできる場所に置いておく。車いすは日頃のメンテナンスをきちんと行い、いざという時に故障が起きないように注意したい。 自宅で備えること ◆家具を転倒防止具などで固定し、食器棚などのガラスには飛散防止 フィルムを貼る ◆車いすが無理なく通れるように通路を片付けておく ◆車いす、歩行補助具は、避難の際に持ち出しやすく、かつ被害を受けにくい場所に置く ◆車いすの空気圧、電動車いすはバッテリーに問題がないかチェック 他の障がいの場合 ※視覚障がい者/白杖、ラジオ、携帯電話などを常に身近な場所に置く ※聴覚障がい者/補聴器、スマートフォンなど情報を得るためのツールを、常に身近な場所に置く。情報を得るための通信機器は、予備を含めて複数確保しておく アウトドアキャンプを体験しておくと、防災時に役立つことが多い(写真提供/神奈川リハビリテーション病院) 取材・文/辻野聡 協力/岡野善記(車いすインストラクター)、神奈川リハビリテーション病院 参考資料/NHK災害時障がい者のためのサイト
- パラアスリートの軌跡⑰ ゴールボール 欠端瑛子
パラアスリートの軌跡⑰ ゴールボール 欠端瑛子
- パラアスリートの軌跡 第17回目となる今回は…ゴールボール 欠端瑛子選手のインタビューをプレイバック!(2019年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 高速グラウンダーやバウンドボールなどスローのレベルが上がり、世界のゴールボールは今、点の取り合いになる試合も増えている。守備力に定評ある日本女子の中で、ポイントゲッターとして期待されるのが欠端瑛子だ。世界と伍して勝つために今、心がけていることとは? ―ゴールボールは高校入学後、お友だちに誘われたことがきっかけでしたね? 欠端瑛子(以下、欠端) はい。実はスポーツはあまり好きではなかったんです。走るのは嫌いだし、弱視なのでボールも見えにくく怖いので球技も苦手でした。でも、ゴールボールは目隠ししてするスポーツなので、条件が皆一緒になる。そんなルールも含めて、「私に合っているスポーツだ」と感じました。 ―そうして始めて、約10年?日本代表としてパラリンピックも2回出場しています。 欠端 ゴールボールに出会って人生が変わったなと思います。もし始めてなかったら、「自分は今、何をしていただろう」と考えるときもあります。スポーツはやっていないかな。出会えてよかったと思っています。でも、始めてすぐに、2011年のユース大会に日本代表として出場しましたが、最下位に終わって悔しかったことを覚えています。翌年にはロンドンパラリンピックの代表にもなれて、私も予選ラウンドなどで何度か出場機会もありました。でも、決勝の中国戦は先輩3人が中心で戦い、私はベンチから応援しました。団体競技としては日本初と言われるパラリンピックの金メダル獲得は先輩たちのおかげです。やっぱり悔しくて、「いつか自分で獲りたい」と、強く思った大会でした。 ―続くリオ大会はレフトウィングとしてスタメンもまかされるようになりました。 欠端 でも、順位は5位。準々決勝の中国戦で「私のあの失点がなかったら」など、また悔しさが残ってしまいました。私がゴールボールを続けている要因は悔しさかもしれませんね。 ―東京大会は代表に選出されれば、3度目になります。どんな大会にしたいですか? 欠端 もちろん、金メダルを獲って悔しさを晴らしたいです。それともう一つ、日本開催なので大勢の人に会場で見てもらい、ゴールボールの魅力を伝えて知名度を上げたいです。そのためにも今、代表に選ばれるようにがんばっています。 ―主にどんな点を強化していますか? 欠端 ディフェンスです。日本は以前から守備力の高いチームですが、世界のボールは圧倒的に速くバウンドも高い。そして、相手の嫌なところに繰り返し当ててくるコントロールの良さもある。そんなむずかしいボールをしっかりキャッチする守備力が重要です。それが良い攻撃にもつながっていきますから。 ―欠端さんはポイントゲッターとして水平に一回転して投げる「回転投げ」を武器に得点力も期待されています。プレッシャーにはなりませんか? 欠端 いえ、応援は本当に力になりますし、期待に応えてもっと得点できるようになりたいです。回転投げは遠心力でボールの(中の鈴の)音が聞こえにくくなるのでどの位置から投げ出されたかがわかりにくくなる効果があって、守備のふいをつく攻撃ができます。ようやく体に動作がしみ込み、球速も増してきた手ごたえがあります。 今はさらに、バウンドボールを改良しています。これまでより短い助走でボールを床に投げて高さを出すことが主な目的です。勢いがつきにくいので失速しやすく投げ出すタイミングもむずかしいですが、大小のバウンドボールの組み合わせとグラウンダーの使い分けで、武器を増やそうとしています。 ―課題はありますか? 欠端 コントロールの精度です。狙ったところに投げることで作戦が遂行できますから。(拡充された)ナショナルトレーニングセンターには東京パラリンピックと同じ床材のコートが敷かれているので、そこでバウンドやグラウンダーの感覚を磨いています。会場によって床材が異なりプレーにも影響しますが、東京大会のコートはボールが速く転がりバウンドも弾みやすく攻撃側に有利な床だと感じています。そこで練習ができるのは守備の強化にもつながります。 ―会場環境がプレーに影響するんですね。床材の他にもチェックポイントはありますか? 欠端 「音の聞こえ方」ですね。広さや天井の高さによって音の反響が異なりますし、観客の人数でも違います。歓声はうれしいですが、仲間の声も聞こえにくくなるので注意が必要です。それに、ゴールの形も多様なので、しっかり触って凹凸や支柱の位置などを確認し、「あそこ引っかかるから注意」といった情報もチームで共有します。 ―なるほど。それにしても、横になって守り、立ち上がって投げ、また横に……。体力が必要ですよね。 欠端 息切れすると、(音を聴く)集中力も利かなくなります。持久力や筋力トレーニングは欠かせないし、メンタルの強さも鍛えないと……。仲間や応援の声が力になりますね。 ―改めて、東京大会への思いを教えてください。 欠端 選手も、観客も楽しめるような試合にして盛り上がればいいなと思います。ボールの軌道も見ながら、両チームの戦略にも注目してください。「あの選手を狙っているのかな」「こう投げたから、次はこう投げるだろう」など、選手になった気分で戦略を考えながら観戦するのもおもしろいでしょう。ぜひ、会場にいらしてください。 欠端 瑛子/かけはた・えいこ 1993年2月19日神奈川県出身。(株)セガサミーホールディングス所属。先天性白皮症による弱視(B3)。ゴールボールは高校時代、友人に誘われて始める。2011年世界ユース選手権で国際大会初出場以来、日本代表ではレフトウィングとして活躍。12年ロンドンパラリンピック金メダル、16年リオパラリンピック5位入賞にも貢献。17年アジア・パシフィック選手権、18年アジアパラ競技大会、優勝。持ち味は165.5cmの体格を活かした力強いスローの攻撃力。17年リトアニアの国際大会では得点女王に輝く あとがき 17回にわたってお送りしてきた「パラアスリートの軌跡」も今回で最終回となります! 来たる東京パラリンピックで活躍してくれるであろう選手や関係者のみなさんの思いや情熱を、インタビューを通してお伝えすることができたのではないでしょうか? パラスポーツマガジンは、ご出演いただいたすべての選手、関係者さまの現在とこれからを追い続けたいと思います! 次回の更新もお楽しみに!! 取材・文/星野恭子 写真/堀切功
- パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談2/2 菊谷崇×池崎大輔
パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談2/2 菊谷崇×池崎大輔
- パラアスリートの軌跡 第16回目の後半となる今回も引き続き…ラグビー 菊谷崇選手とウィルチェアラグビー 池崎大輔選手のインタビューをお届け!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) お二人の日本代表として活躍することの思いと責任。コンタクトスポーツの魅力を語っていただいています! ―日本代表の桜ジャージを着ることの名誉をどのように考えていますか。 菊谷 あまり多くのことを考えすぎないようにしていました。もちろん期待されていることは知っています。勝たなければならないとも思っていました。 桜ジャージに袖を通すことができるのは、自分の周りにいる人たちのおかげなので感謝しています。そしてジャージを着るからには、ラグビーは危ないスポーツなので、再び戻ってこられないかもしれないという覚悟で試合に臨んでいました。 池崎 それはもう、所属チームでプレイすることとはまるっきり違います。日本代表として結果をださなければならないと、強く思っています。コンタクトプレーが激しいからこそ、命がけの覚悟がなければコートに立てません。だからチームメイトにも日本代表ジャージを気軽に着せたりはしません。代表に選ばれてもらったジャージを着て試合に出ることは特別です。 菊谷 代表戦は、相手チームの意気込みも特別です。テストマッチもそうですが、ワールドカップで対戦すると、さらに違います。 池崎 だからラグビー選手は試合が始まる前に泣きますよね。 菊谷 ウィルチェアーラグビーでは泣きませんか。 池崎 自分たちは半ベソ泣きです。わははは。知り合いのラグビー選手から、試合前に涙がでてしまうと聞いて、何のことだろうと思っていました。それが、パラリンピックのロンドン大会とリオ大会に出場したら、試合前のコートで君が代が流れてきたとき泣きそうになって、こういうことなのかと分かりました。強い覚悟と思いがあるから、試合が始まる前の君が代で泣いてしまう。 菊谷 ラグビーでは試合前に国歌が流れます。多くの競技で君が代を歌えるのは金メダルを取った人だけですから。今は、ユースの日本代表で高校生たちのコーチをしています。僕がエディーさんから教えられたように、彼らにも君が代は声を出して歌おうと伝えています。試合では恥ずかしがるだろうなと思って、合宿のときに歌う練習をさせてみたら、まだ桜ジャージをもらえていないのに、手を胸に当てて歌っている彼ら姿を見ていた僕が泣いちゃいました。 * ―ラグビーには多くのファンがいます。注目されていることを勝利につなげる方法はありますか。 菊谷 プレッシャーは絶対になくならないし、それを感じないようにすることはできません。そして自分たちに明確な目標とそこへと至るプロセスがあれば、プレッシャーを力に変えることができます。15年のワールドカップで有名になったメンタルコーチの荒木香織さんは、僕たちが日本代表としてどのように見られたいのか、どのような日本代表になりたいのかと考えて、それを全員で共有するプロセスを大切にしました。そのことでチームの柱ができてきました。 2020年までの3年間は長いです。僕が日本代表をワールドカップ前年の14年に降りてしまったように、その日までたどり着かない可能性もあります。さらに大きな怪我をするかもしません。そういう時にも明確な柱があると、チームはぶれません。 池崎 東京パラリンピックまで日々、世界一になるための努力をしていきます。そのための環境づくりもしなければなりません。学校訪問やラグビー体験会に参加して、みなさんとコミュニケーションすることも自分の役割です。 自分たちがどれだけ頑張ったとしても、観客がいなければモチベーションが落ちてしまいます。試合をやるからには、たくさんの人に見てもらいたいです。 菊谷 観客がゼロでは、練習試合と同じですね。皆さんの期待を背負っているからこそ自分たちのモチベーションは上がります。注目されることは、選手にとってとても嬉しいものです。ラグビーは15年のワールドカップで人気が出ました。それを継続させることが重要です。大会で結果を出さないとニュースにしてもらえません。だから日本代表は結果を出すことが使命だと思います。 * ―話は変わりますが、ラグビーの魅力として語られるタックルはお好きですか。 池崎 車いす同士がぶつかるウィルチェアーラグビーでは肉体的なことよりも精神的に大きなダメージを受けます。僕たちのタックルは身体には当たらないから痛くありません。ちょっとした衝撃と音がうるさいだけ。けれどもその衝撃の強さによっては、もうこいつのタックルは受けたくないといった精神的なダメージを与えられます。そうすることで相手のパフォーマンスを落とすことができます。 菊谷 いやいや、半端ない衝撃ですよ。 池崎 測定器でタックルの強さを計測したら30Gだと言われました。 どんなものでも粉々にするだけの破壊力があります。 菊谷 うははは。 ―最初は競技用の車椅子で体験したのですか。 池崎 そうです。そのマシンも汚い。フレームは黒くて傷だらけ。すごく暑いのにグローブまでして、ボールもバレーボールだしと、冷ややかに思ってました。 菊谷 わははは。 池崎 身体障害のために握力がなくても、滑り止めのついたグローブで力を補っていると説明してもらいました。ボールも皮がざらざらとした滑りづらい専用球を使っています。よく考えられているなと思いました。小ぎれいな競技ではないけれども、泥臭さにも惚れこみました。 菊谷 バスケからラグビーに転向して、よかったですか。 池崎 まさかアスリートとしての人生を歩むことになるとは思っていませんでした。自分にこのような取り柄があって、それを開花させてくれた人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。自分1人では、ここまで来られませんでした。良い出会いに恵まれ、良い環境にも巡り会えたことで今の自分があるわけです。ウィルチェアーラグビーの体験会は、僕にとって試合開始のゴングでした。 ―菊谷さんはうれしそうにタックルしてくると聞きました。 菊谷 長い年数、ラグビーをしてきたけれど、タックルはすごく嫌い。ボールを持って走る方が好きでした。ポジションはFWですが、ステップを切って相手をかわすようなプレーが好きです。 タックルなんて怖いじゃないですか。それを克服するには、フィジカルだけでなくメンタルも鍛えること。ここ数年は、俊敏に動くアジリティが落ちてきたから、タックルが好きになってきました。ウィルチェアーラグビーの車いすは傷だらけで、戦うマシンというイメージですね。 池崎 傷跡が残っている車椅子がかっこいいから、ぴかぴかの新車は恥ずかしいですよ。早くぶつかって傷を作りたいってなります。 菊谷 根っからのコンタクト好きなんですね。 池崎 海外の試合では、タックルで相手を吹っ飛ばすと盛り上がります。それが日本だと、障害者にぶつけて、大丈夫なのかと心配されてしまいます。 池崎 菊谷さんがおっしゃるように、フィジカルとメンタルの両方が大切です。気持ちで負けたら、試合には絶対勝てません。向かってくる相手には、こちらから向かっていく。強豪国のアメリカやオーストラリア、カナダの選手たちは身体がでかいけれど、その体格は生まれ持ったものだからしょうがない。けれども気持ちはみんな一緒です。そこは絶対、強く持っていなければ勝てません。 菊谷 コンタクトスポーツだからこそ、仲間と深い関係になります。そして思いが強いから、試合前に泣いちゃう。 池崎 仲間との深い絆はボディーコンタクトがあるからこそ。東京パラリンピックに向けて頑張ります。 菊谷 崇/きくたに・たかし 御所工業高校から大阪体育大学。卒業後は実業団のトヨタ自動車で13シーズン、プレーした。2014年にキヤノンとプロ契約。現在までキヤノンイーグルスでプレーする。日本代表では、05年のスペイン戦で初キャップ、08年のアメリカ戦から主将。11年のワールドカップ・ニュージーランド大会でも主将。一旦は日本代表を退くが、エディー・ジョーンズ新監督から代表復帰を要請され、14年までプレーする。トップリーグでは9月に150キャップを達成。今季限りでの現役引退を表明している。 池崎大輔/いけざき・だいすけ 岩見沢高等養護学校の出身。車いすバスケットボールから、30歳のときに転向。2008年にウィルチェアーラグビーと出会い、2009年から北海道ビッグディッパーズでプレーする。2010年に3.0クラスの日本代表に選出され、現在までチームのエースとして活躍。ロンドンパラリンピック(2012年)、リオパラリンピック(2016年)に出場。リオ大会では強豪カナダを下して銅メダル。手足の筋力が低下する難病。三菱商事社員。3人の子育てをしながら東京パラリンピックでの金メダルを目指す。 撮影/水谷たかひと、安藤啓一 構成・文/安藤啓一
- パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談1/2 菊谷崇×池崎大輔
パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談1/2 菊谷崇×池崎大輔
- パラアスリートの軌跡 第16回目を迎える今回は…ラグビー 菊谷崇選手とウィルチェアラグビー 池崎大輔選手のインタビューを二回にわたってプレイバック!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 日本代表の中心選手として活躍してきた二人だからこそ知っている、ナショナルチームでプレーすることの歓びと重責。そして東京パラリンピックで金メダル獲得の期待。コンタクトスポーツの魅力を語っていただいています! ―ラグビーと名の付くスポーツで日本代表チームを牽引してきたお二人に、今日はラグビーの魅力を語っていただこうと思います。よろしくお願いします。 菊谷 社会人ラグビーを始めて16シーズン目です。日本代表でも長くプレーさせてもらったなかで、将来はラグビー指導者を目指したいと考えるようになりました。そのためにはコーチングの勉強をしなければなりません。けれども社員選手はオフシーズンになると会社の仕事をします。それではコーチングの勉強時間が充分にとれないから、3年前にプロ契約のできるキヤノンに移籍しました。また3年前からユース世代の日本代表チームでコーチをしています。 ―アスリートとしての高いレベルでプレーしたいという思いからプロ契約する選手が多いなか、菊谷さんは選手のセカンドキャリアを考えてプロ選手になったのですね。 菊谷 そうです。本来、プロ選手になったり、チームを移籍するのはキャリアの早い段階にするものです。ところが僕はベテランになってから移籍したので、新しいチームで4年間はがんばろうと決めていました。そしてプロ生活を始めて4年が経った今シーズン限りで引退しようと決断しました。プロ選手なので、春先に会社と契約します。そのとき、「ラストイヤーでお願いします」と伝えました。たまたま先日の試合で150キャップを達成できました。いいタイミングなので、そこで皆さんに引退を発表させていただきました。 ―池崎さんはウィルチェアーラグビー日本代表のエース選手として、リオパラリンピック銅メダルに輝きました。東京パラリンピックでの活躍が期待されている注目の競技ですが、その魅力とはなんでしょうか。 池崎 ウィルチェアーラグビーでは頸椎損傷であったり、僕のように難病で手足に障がいのある人がプレーしています。重度障がい者にスポーツをする機会を与えようと、今から40年前、カナダで誕生した競技です。車椅子がぶつかり合うタックルの激しさから、マーダーボール、日本語では殺人競技と呼ばれることもありました。首を骨折して障がい者になった人たちが、ここまで激しい競技をしているのかと驚かれるし、呆れて笑われてしまうほどです。けれども車椅子がぶつかる音と激しさこそがウィルチェアーラグビーの魅力です。 私は三菱商事の社員ですが、北海道ビッグディッパーズの選手として北海道を拠点に活動しています。また今年からアリゾナ州ツーソンのワイルドキャッツというチームでもプレーしています。武者修行ですね。 * ―目標は3年後の東京パラリンピックですね。 池崎 金メダルを取りたい。しかも自分の現役時代に自国開催という大きなチャンスに恵まれました。なんとしてでも今回は結果にこだわっていきたい。そのために、これからの3年間は有効に使っていきたいと思います。 ―次は金メダルとの期待はプレッシャーですか。 池崎 日本代表としての誇りは意識するし、代表ジャージの重みも感じます。みなさんの期待は、背負っているものの責任を果たす力となっています。これをプレッシャーに感じてしまうと、失敗することの怖さにつながってしまうから、ポジティブにとらえています。 ―菊谷さんは2011年のワールドカップでは日本代表の主将としてプレーしました。プレッシャーはありましたか。 菊谷 プレッシャーを感じないように、あえてしていました。ファンのみなさんからの期待を楽しもうとイメージするようしていました。けれども当時のことを振り返ると、とても大変でした。 池崎 僕はキャプテンではなく、みんながエースと呼んでくれているだけです。キャプテンはチーム全員のことを見なければなりませんが、エースは自分の役割を果たすだけですから、辛いプレッシャーはありません。 リオでは自分だけでなく、支えてくれた人たち、リオまで応援しに来てくれた人たちと一緒に戦うことができたから、自分の持てる力以上のことを出せました。それが結果として銅メダルにつながりました。 菊谷 キャプテンにはならないのですか。 池崎 キャプテンになれと言われたことがないのでわかりませんが、今まで通りキャプテンを支えることはできます。先頭に立って「俺の背中を見てついてこい」という方が自分には合っています。もしも指名されることがあれば、そのときは全力でやると思うけれど、なかなか大変なポジションですね。 * ―ウィルチェアーラグビーは銅メダルを取ったことで注目度が高まりました。 池崎 リオ大会のメダルは一つのきっかけにすぎません。パラリンピック後は多くのメディアで取り上げてもらえるようになり、とても知名度も上がったけれど、パラスポーツのなかでウィルチェアーラグビーは知名度が低い方です。だから2020年に向けて多くの人に競技のことを伝えていくことは僕の使命だと思います。大会では観客のみなさんを盛り上げたいです。そういう思いはスポーツ選手であれば誰しもが持っていることです。 菊谷 2011年のワールドカップで、僕は結果を出すことができませんでした。期待されていただけ、失望感も大きくて、他の選手たちもそうですが、未だに試合の録画を見ることができません。負の歴史というイメージが、僕のなかにはあります。 けれども日本代表を退いた後の15年大会では、結果を残すことができました。ラグビーを世間にアピールするチャンスとなりました。 池崎 結果を出せたときはメディアが集まってくるけれども、出せなければ誰も取材に来ませんね。それはロンドンとリオ大会の経験でも感じました。 けれども、結果を出せなかった時代のことも含めて、ウィルチェアーラグビーの普及やチーム強化に取り組んできた人たちがいたからこそ、僕たちはメダルをとることができました。自分よりも前に日本代表としてプレーしていた人、そして競技を育ててきた人たちがいます。そういった人たちに感謝しています。その歴史を守りつつ、自分たちは次世代のラグビーを作ろうとしています。 ―菊谷さんはトップリーグで150キャップという大記録を達成しました。2011年の苦い経験があったからここまで現役を続けることができたのでしょうか。 [caption id="attachment_2487" align="alignnone" width="300"] 菊谷は今季、トップリーグで150 キャップを達成した。史上4人目の偉業だ[/caption] 菊谷 僕は11年が終わったとき引退しようと思っていました。ワールドカップで結果が出せずに燃え尽きてしまいました。あと1年だけ現役を続けたらラグビーはやめようと考えていました。日本代表は引退したつもりでオフをエンジョイしてとき、(次の代表監督に就任した)エディーさんからミーティングに呼ばれました。そこで「ベテラン選手としてもう一度、日本代表に力を貸してほしい」と言われました。「1ヵ月後にまた会おう。それまでにハードワークをして身体を作ってきてほしい。それを見せてもらってから正式に決めたい」と。 ―一旦は選手引退まで決めていたところから代表復帰するモチベーションをどのように高めたのですか。 菊谷 ナショナルチームの選手になれるということにモチベーションを感じたからハードワークができました。エディーさんは話の持って行き方が上手かったと思います。人を乗せてくれるというか、そういう意味では選手をとてもよく見てくれています。明確に僕のどういったポイントが欲しいから代表に呼びたいと言ってきました。人は期待されると頑張れます。ナショナルチームで必要な選手だと言ってもらえることは、名誉以外の何物でもありません。だから期待に応えるために時間は惜しみません。 次回へ続く 菊谷 崇/きくたに・たかし 御所工業高校から大阪体育大学。卒業後は実業団のトヨタ自動車で13シーズン、プレーした。2014年にキヤノンとプロ契約。現在までキヤノンイーグルスでプレーする。日本代表では、05年のスペイン戦で初キャップ、08年のアメリカ戦から主将。11年のワールドカップ・ニュージーランド大会でも主将。一旦は日本代表を退くが、エディー・ジョーンズ新監督から代表復帰を要請され、14年までプレーする。トップリーグでは9月に150キャップを達成。今季限りでの現役引退を表明。 池崎大輔/いけざき・だいすけ 岩見沢高等養護学校の出身。車いすバスケットボールから、30歳のときに転向。2008年にウィルチェアーラグビーと出会い、2009年から北海道ビッグディッパーズでプレーする。2010年に3.0クラスの日本代表に選出され、現在までチームのエースとして活躍。ロンドンパラリンピック(2012年)、リオパラリンピック(2016年)に出場。リオ大会では強豪カナダを下して銅メダル。手足の筋力が低下する難病。三菱商事社員。3人の子育てをしながら東京パラリンピックでの金メダルを目指す。 撮影/水谷たかひと、安藤啓一 構成・文/安藤啓一
- パラアスリートの軌跡⑮ ゴールボール 天摩由貴
パラアスリートの軌跡⑮ ゴールボール 天摩由貴
- パラアスリートの軌跡 第15回目を迎える今回は…ゴールボール 天摩由貴のインタビューをプレイバック!(2019年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 2012年ロンドンパラリンピックで世界の頂点に立った日本女子だが、鉄壁の守備陣形を世界から研究され、16年リオでは5位に沈んだ。悔しさをバネに、守備の改革と得点力向上を合言葉に強化を進め、東京大会で「金奪還」を目指す。チームを率いるキャプテン、天摩由貴に「日本の現在地」を聞いた。 ―東京パラリンピック開幕まで1年を切った今、チームはどのような状態ですか? 天摩由貴(以下、天摩) 気持ちの面も一体感も上がってきています。ただ、技術や戦術面ではまだ課題もあります。海外遠征や国際大会で見えた課題を一つずつクリアし、世界で勝つための準備を少しずつ積み重ねているところです。 ―具体的な強化点は? 天摩 世界では高低差のあるバウンドボールが攻撃の主流になっていますが、今年春の海外遠征では、このバウンドボールに対応しきれず、逆に意識しすぎて違う攻め方でやられたりもしました。この反省から、今は守備を再構築しています。「この相手には、こう守る」という個別の対策で、守備ラインの上げ下げなど相手国やボールの質に合わせて柔軟に対応できる守備スタイルを確立させたいです。 ―相手の状況をリアルタイムで見て確認できないゴールボールでは、事前のデータ収集や研究も重要になりますね。 天摩 はい。データ勝負の一面もあります。「この選手はこのコースの決定率が高い」「あの選手はこんなボールの守備が苦手」など情報班が集めたデータを分析し、戦略を立てます。選手は「ここに投げて、こっちに投げて、回り込んでこう投げる」といった指示を受けます。 ―データというと、学生時代に数学を専攻した天摩さんのセンスが生きそうです。 天摩 どうでしょう? ただ、戦略を指示されたとき、私は頭の中で指示を線で結んでイメージすることは得意ですね。実は試合中も、チームメイトが投げたボールの音を聞きながら、「ここに投げてから、こう投げたな。今、ここに直角三角形ができたから、私は次にこう投げよう」などと考えています。数学というより算数かもしれませんが、試合状況を図形化するのは有効だと思います。 ―キャプテンとしてチームを支える立場でもあります。今年春は代表チームから漏れた時期もありましたが、復活された今、どんな思いですか? 天摩 メンバーから外れて悔しさはありましたが、チームを外から見たり、自分自身と向き合う時間にもなりました。あの時間を無駄にせず、感じたことや得たものを力に変えようと努力してきました。あの時の自分がいたから今があると思うので、今後は成長した自分をしっかり見せたいと思っています。 ―成長できた部分とは? 天摩 「もっと自分の色を出して行こう」と思えたことです。メンバー6人には個性があって、それぞれの良さを組み合わせることでチームとしての力になっていきます。代表を外れて、「今の私には色が足りない」と気づいたんです。「私の色」は、そうですね……。脚力を活かしてコート内を機敏に動き回り、どこからでも狙ったコースに打ち込める、アクティブな攻撃スタイルでしょうか。 また、ベンチからの指示や戦術を理解し、コートの中でアウトプットする力も高めていきたいです。例えば、敵味方の様子を把握しながら、「自分たちは次に何を選択すべきか」「何が有効か」などをもっと冷静に判断し、私自身が攻撃を組み立て、「次、こんなボールを投げて」と仲間に声をかけられるような選手を目指しています。 ―仲間同士の声掛けはとても大事だと思いますが、意識している点はあります? 天摩 全員がアイシェードをして視覚を閉じた状態なので、私たちは声や音を出すことでしか相手を感じられません。自分の位置を伝えるために床を叩いたりしますし、声掛けは絶対に怠ってはいけないところです。私は特に、苦しい時こそ声を出すことを意識しています。相手の攻撃に押されたり、こちらが失点したり、緊張して自分のことに一生懸命になりすぎるようなときですね。試合中はシーンとしているので、選手の声掛けも観客に聞こえると思います。観戦中は「どんな声をかけてるのかな」「何をやるんだろう」という点にも注目してみてください。 ―なるほど。他に、日本女子チームの「ここを見て」ということはありますか? 天摩 以前は「守って守って、1点取って守り切る」が日本のスタイルでしたが、今目指しているのは、「ガンガン攻めて得点し、そして守る」チームです。攻撃もぜひ見てほしいですね。海外チームと比べて球速は遅い分、相手を音でだまそうとフェイクを使ったり手渡しパスを使ったり、いろいろな工夫を繰り返して点を取っています。ただ投げてただ取っているだけじゃなく、チーム全体でどんな動きをしているかとか、「あの選手がフェイクしたら、敵がそっちを見た」とか、そんなところもおもしろいと思います。 ―最後に、出場すれば、ゴールボール選手として2回目のパラリンピックです。目標は? 天摩 一番いい色のメダルを取りたいです。そのために、まずはチーム全体で守備も攻撃ももっと高いレベルに引き上げねばなりません。一人では勝てないので、チームの連携や一体感を高めることも重要です。キャプテンとして、しっかり貢献していきたいです。 天摩由貴/てんま・ゆき 1990年7月26日青森県生まれ。(株)マイテック所属。先天性の網膜色素変性症を患っており、現在の障がいクラスはB1(全盲)。幼い頃からスポーツ好きで、高校、大学時代は陸上競技・短距離走に打ち込む。12年ロンドンパラリンピックに初出場(100m、200m)。引退し、大学院進学後の14年、高校時代の恩師に誘われ、ゴールボールを始める。陸上で鍛えた脚力を活かしたウィング(攻撃的選手)として日本代表入りし、16年リオパラリンピック5位入賞。17年より代表キャプテンを務め、18年アジアパラゲームズ優勝など 取材・文/星野恭子 写真/堀切功
- パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸
パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸
- パラアスリートの軌跡 第14回目を迎える今回は…車いすバスケットボール日本男子チームアシスタントコーチ 京谷和幸のインタビューをプレイバック!(2019年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 元Jリーガーの京谷さんは、交通事故で脊髄損傷を負い、車いすの生活を余儀なくされる。その後、車いすバスケットボールと出会い、どん底から這い上がり、4度のパラリンピックに出場。そのプロセスには、多くの人の応援があった。いまはその恩に報いるため、東京パラリンピックに出場する日本チームのアシスタントコーチを務める。目指すは金メダル。これまでと、2020年にかける熱い想いを語ってくれた。 Jリーガー生命を奪った結婚式間近の交通事故 僕の運命が一変したのは、忘れもしない1993年。その年、サッカーJリーグが開幕し、僕も現在のジェフユナイテッド市原・千葉に所属していました。 しかしケガをしたり、同じポジションにリトバルスキーというスター選手が入団したりして、出番が激減したのです。自分より巧い選手はいないと思ってきたので悔しかったし、焦りもありました。そんな不安を抱えながら運転していた11月28日、衝突事故を起こしました。実はその日、結婚式の衣装合わせをすることになっていたのです。 主治医から「車いす生活になる」と宣告されたのは事故から2カ月後。取り乱したりするのはカッコ悪いと思ったので、「はい、わかりました」としか答えなかったです。とにかくひとりになりたい。それだけでした。 〝現実を受け入れる〞なんて、極端な話、今もできていません。でも前を向いて歩けるようになったのは、妻のおかげですね。僕よりたくさん泣いて、こんな自分と事故後まもなく結婚してくれた。彼女が口にした言葉は今も胸に刻まれています。 「ひとりじゃできないことも2人なら乗り越えられる。これからは2人で頑張っていこうよ」 彼女はこんな自分と一緒に生きていこうと言ってくれた。とにかく彼女の想いに応えたいと思いました。自分中心に生きてきた僕にとって、生まれて初めて自分以外の人のために生きたいと思えた瞬間でした。 車いすバスケットボールへの道筋を開いてくれたのも妻です。市役所に障害者手帳の手続きに行ったら、窓口担当者が小瀧修さんだった。当時車いすバスケットのトップチーム「千葉ホークス」の中心選手で、いまは日本車いすバスケットボール連盟常務理事をされている方です。 元Jリーガーだし、絶対に僕がバスケをやるようになるという確信があったのでしょう。あとは小瀧さんの敷いたレールの上を歩いた印象ですね。 リハビリ仲間と初めて車いすバスケをやって、〝できるじゃん〞と思ったのは、小瀧さんに紹介されたリハビリ病院でのこと。プロチームの練習を初めて見たのも千葉ホークス。当初はレベルの高さに圧倒されて尻込みしていました。しかし国体のときに、偶然千葉県代表チームに帯同する機会があり、県代表として参加する千葉ホークスの選手たちのプレーを間近に見て、違う感情がこみ上げてきた。 「コレだな。車いすバスケットでもう一度花を咲かせよう」 口にして自分を追い込む京谷流「有言〝行動〞」 妻が競技用車いすを40万円ぐらいで買ってくれました。94年、千葉ホークスに入り練習を始めますが、スピード、ボールを持ったときのドリブル、パス、シュートの精度、車いすの操作の巧さ……、すべてにおいて天と地ほどの差を感じました。必死にくらいついて、ある程度上達はするのですが、その先にまた新たな壁が立ちはだかっている。正直、めげました。でも逃げなかったのは、自分を追い込んだからです。 地元北海道で結婚披露パーティを催したときのこと。 Jリーガーとして活躍するのを楽しみにしていたと言う友人が何人かいました。でも自分は違う人生を歩み始めている。なんか腹が立ってきて、こう挨拶しました。 「車いすバスケットでシドニーパラリンピックを目指すから、応援よろしくお願いします!」 とにかく勝負事が好きなので、言ってできなかったら負け。負けたくないから言ったことは絶対にやる。「有言〝行動〞」が京谷流です。それで僕のスイッチは完全にオンになりました。 車いすを操作するために、手はパンパンに腫れ上がるし、タイヤを素手で止めると、手の皮がたびたびめくれる。でも必死にボールを追いかけました。 Jリーガーの仲間からも刺激を受けました。ジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉の結婚式に行ったとき、はっきり言って寂しかったんです。出席しているのは日本代表のJリーガーばかり。サッカー選手のときには一緒に日の丸を背負って戦ったけれど、今は自分ひとり何もないなと思って、早く立ち去りたかった。でもふと考え直したんです。パラリンピックという舞台でプレーができたら、同じ日本代表だと。あのときですね、日の丸への自覚や責任がワッと甦ってきて、体の芯に「日の丸」がストンと落ちてきたのは。 練習への向き合い方もかわりました。すぐにうまくなるわけはないけれど、うまくいかないこともプラスに捉えられるようになりました。 もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。 サッカーの練習法を車いすバスケに応用 チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。 僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。 その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。 でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。 「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」 サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。 その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。 人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。 結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。 2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。 しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。 日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。 きょうや・かずゆき 1971年、北海道生まれ。室蘭大谷高校時代、サッカー選手としてバルセロナ五輪代表候補に選出。91年に当時のジェフユナイテッド市原とプロ契約。93年、交通事故に遭い脊髄損傷を負う。94年に千葉ホークスに入り、車いすバスケットボール選手となる。パラリンピックには、2000年のシドニー大会から4大会連続で出場。北京大会では、日本選手団の主将も務めた。現在、車いすバスケットボール日本男子チームのアシスタントコーチを務めながら、城西国際大学サッカー部で外部コーチをする。09年3月には、京谷さん自身の実話をもとに描いた映画『パラレル』が公開された。現在、ヘッドコーチに就任。 取材・文/西所正道 写真/高橋淳司
- パラアスリートの軌跡⑬ クロスカントリースキー 新田佳浩
パラアスリートの軌跡⑬ クロスカントリースキー 新田佳浩
- 「パラアスリートの軌跡」連載第13回目は・・・クロスカントリースキー 新田佳浩選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 平昌冬季パラリンピックの大会第6日。アルペンシア・バイアスロンセンターに新田佳浩が登場した。この日のレースはハイスピード勝負で1.5㎞を競うスプリント・クラシカルだ。得意の上り坂で集団のトップに立った。そのまま逃げ切る戦略だったが、ゴール前の直線で後続選手に並ばれ、0.8秒差の銀メダルとなった。 37歳という年齢。8年前のバンクーバー大会で金2個のメダルを獲得した時はまだ20代だった。メダル獲得のニュースに、世間は沸いたが、当の本人は悔しくてたまらなかった。得意の10㎞クラシカルでは、金メダルを取りたい。その思いを強くしていた。 ソチ大会の悔しさを晴らす クロスカントリースキーには、両スキーを平行にすべらせて走るクラシカルと、逆ハの字にしてスケーティングするフリーの2種目がある。そして新田佳浩はクラシカル走法で、長年にわたり活躍してきた。 パラリンピックの初出場は1998年の長野大会。平昌大会は6度目となるパラリンピックへの挑戦だった。バンクーバー大会では念願の金メダルを獲得。最高成績4位に終わったソチ大会の悔しさを晴らすべく、平昌に乗り込んできていた。 大会第9日、新田がもっとも得意とする10㎞クラシカル。選手たちは30秒間隔でスタートして、1周約3.5㎞のコースを3周する。新田はスタート直後、つまずくように転倒したものの、すぐに立ち上がりレースを再開。 「スプリントではないから、まだ10㎞ある。大丈夫だ」と冷静だった。 新田は前年のプレ大会でも同じコースを走っている。その経験から、「後半に山場がくる。最後の1周が勝負だ」と戦略をたてていた。序盤から速いペースで走れていた。しかし他選手もハイペースだ。 「2周目までは身体が重かった。プレ大会とパラリンピックでは違う」 ライバルたちも必死に走っている。ラップタイムは、トップ選手とのタイム差が1周目で約5秒、2周目になると10秒以上離された。これまでも後半に離されて終わるレースが多かった。けれども今回、新田は焦ってはいなかった。 「1年間に700時間以上のトレーニングをしてきた。それに比べてレース時間はその1%に満たないのだから、走れる」 苦しいトレーニングが新田に自信を授けた この日は平昌大会の個人種目ラストレースだった。トレーニングしてきたことを出し切れないと後悔で終わることになる。新田は覚悟を決め走っていた。そう思えたのは、長い競技歴でも初めての感覚だった。それは厳しいトレーニングをやり遂げた者だけが手に入れることのできる自信だ。 そして最終周回、コースサイドにいたコーチが「2秒差でトップだ」と伝えると、新田はラストスパート。コンマ数秒でも早くゴールラインを通過するために、最後は左足を伸ばしてフィニッシュ。この瞬間、2大会ぶり3個目の金メダルを獲得した。 「綿密に練られた計画による金メダルだ」 30代後半の新田は、「若い選手たちのように、勢いだけでは金メダルをとれない」と過酷なトレーニングを続けてきた。 「肉体的な伸びしろは少ない。自分の技術や能力を磨くだけでは勝てない年齢だ」 一度は引退も考えたという新田を金メダルへと突き動かしたものとは、チームの支えだった。 「スキーをがんばりたいという自分の思いに、みんながついてきてくれる。多くの人たちに支えられているから競技を続けられた」 しかしそれは、感謝などという言葉では不十分なほど熱すぎる思いだった。 ソチ大会後、所属チームに長濱一年コーチが就任。オリンピックも経験している元選手で、長野オリンピック後は全日本スキー連盟のナショナルコーチを務めてきた人だ。 「コーチは、中途半端な気持ちではないと情熱的に話してくれた。この人はパラスポーツ選手をなんとしてでも勝たせようとしていることが分かった」 欲しいのは金メダルだけ [caption id="attachment_2451" align="alignnone" width="200"] 10kmクラシカルで金メダルを獲得。チームチャレンジが結実した瞬間だ[/caption] クロスカントリースキーでは、滑走面に塗るワックスの選択が大きく勝敗を左右する。これを担当するワックスコーチとして、全日本スキー連盟ナショナルチームで仕事をしてきた佐藤勇治コーチもチームに合流した。スプリントで銀メダルを獲った時、佐藤のところへ報告に行くと辛辣に励まされたという 「銀メダルはよかったけれど、ソチオリンピック複合で渡部君が獲っているから、僕のほしい色は違うんだよな」 金メダルを獲るために集まったチーム。それは「プレッシャーにしかなりませんでした」と新田は笑い話のように振り返るが、彼らの思いに対して、それ以上の情熱で応える4年間を過ごしてきた。 「僕を強くしたいという思いで集まってくれたことにプレッシャーは感じるけれど、この人たちの心意気や期待を裏切るようなすべりをしてはいけない」 新田は2児の父だが、コーチたちにも家族がいる。新田のために家を留守にして寂しい思いをさせているかもしれない。皆がたくさんの犠牲を払ってこのチームに参加しているのだから、どのような結果になろうとも、最後までしっかりと走りましたと言えるように終わりたかった。 「トレーニングで自分が負けそうになった時、チームの人たちや家族のことを思い出すと、『まだ自分はできる』と苦しさに耐えることができた。それが自信につながった」 クロスカントリースキーは苦しい種目だ。コースの1/3は下り坂だが、その他は平坦か上り坂。ワックスが効いているとはいえ、足にまとわりつく雪を振り払うようにして、しかも両腕はストックで漕ぐように全身運動で疾走する。向かい風のマラソンランナーのようなものだ。その苦しさに打ち勝つ精神力を、チームが授けてくれた。 レースでは苦しいスキーだが、「整備されていない野山を歩いたりすべることは楽しい。クロスカントリーをしたがっている長男と春の残雪をすべりに行こうと思っている」 金メダルのために年間200日以上もチームで行動していた。それを応援してくれた家族のために、しばらくは生活しようと話していた。 新田佳浩/にった・よしひろ 1980年6月8日、岡山県生まれ。3歳の時事故による左肘下切断。中学生の全国大会に出場しているところスカウトされてパラスポーツ選手になる。バンクバーパラ大会で2冠。日立ソリューションズ所属 文/安藤啓一 写真/石橋謙太郎(スタジオM)