Home >  Magazine

Magazine

雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

第12回目となる今回は…ウィルチェアラグビー 官野一彦選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) リオ夏季パラリンピックで銅メダルを獲得したこともあり、東京2020パラリンピックでの活躍が期待されているウィルチェアーラグビー。メダリストの官野一彦はこの競技に魅せられてしまった男のひとりだ。 昨年、官野は長年勤めた千葉市役所を退職して本場のアメリカへ武者修行に旅立った。32歳という社会人として責任ある仕事を任されることが増える年齢で、人生をウィルチェアーラグビーに捧げる覚悟を決めた。 「(日本代表が)新しい監督になってから試合に出してもらえなくなった。このままでいいのかという危機感をもっている。アメリカに行って、厳しい環境で自分を鍛えたい」 これまで千葉市役所の職員としては異例の待遇を受けていた。車いすの街づくりを掲げている熊谷市長は、アスリート雇用としての就労環境を整備するために条例改正するまでして官野を応援してきた。日本代表の遠征は公務派遣扱い、週の半分はトレーニングに費やせることになっていた。 そうした職場のサポートも受けながらパラリンピックに挑戦してきたが、さすがに数ヶ月のアメリカ武者修行は休職扱いになってしまう。 「これでは続けられない。家族の生活にはお金が必要だし、ウィルチェアーラグビーのために仕事を失うのは本末転倒だから」そして退職を決意した。 「僕は生活のためにスポーツをしている」 これが官野のスタイルだ。自分のやりたいことをして、家族と生活をしていく人生が理想だ。プロ野球選手になりたくて野球の強豪高校に進学したように、少年時代からの夢を今でも追いかけている。 東京で金メダルを獲るためにアメリカ修行は譲れない。そのためにはアスリート雇用で転職するしかない。そうした決意を周囲に伝えると、数社から誘いを受けることができた。面談をして、お互いのパラスポーツへの理念と条件が一致したダッソー・システムズ株式会社へ入社することにした。 練習環境が整い、昨年10月から約半年間の予定でアメリカのクラブチームに合流することができた。初めて海外チームでプレーしたことからは、東京に向けて多くの収穫があったという。 「自分のプレーが世界でも通用することを確認できた。そして彼らの強さは『ハート』だと気づいた」 官野は障がいの重い選手だ。そのため得点を取りに攻める障がいの軽い選手をアシストする役割を狙っている。野球で例えると6番レフトだろうか。それでもコートではパワーのある軽度の選手にタックルをしかける果敢さが求められる。そうすることで得点を狙う選手を牽制するのだ。アメリカでは自分よりもパワフルな相手にもひるまず挑んでいく『ハート』を学んできたという。 「チームのために、もっと勝負していく選手になりたい」語気を強めてそう話す。 官野は22歳の時サーフィン中の事故で頸椎を損傷。車いす生活になる。そしてある日、近所のディーラーが開催していた福祉車両イベントに来ていたウィルチェアーラグビー選手に誘われた。 「家に帰ってからパソコンで検索するとアテネパラリンピックに初出場していたという記事が出ていた。僕も日本代表になれたら、かっこいいなと思って」 そういった軽い気持ちでウィルチェアーラグビーを始めてみたが、夢中になるまでにさほど時間はかからなかった。 「車いすでぶつかり合うなんて、なんじゃこりゃとビックリした。世間では、車いすの人は守ってあげるものだと思われているがコートでは誰も僕のことを守ってくれない。でも自由に走り回ってくれるのが気持ちよかった」 すぐに70万円の競技用車いすを購入した。決めたらすぐに行動するのが官野のスタイルだ。そして競技を始めた翌年には日本代表に選ばれてしまう。 「試合には出してもらえない名ばかりの代表だったけれども、遠征メンバーに選ばれた時は舞い上がったよ」 その後、代表落ちして本当の厳しさを味わうのだが、まだ競技の奥深さも知らぬまま、パラリンピックの最終予選でシドニーの大会に参加した。そこで官野は衝撃の体験をすることになる。 「観客8000人の大歓声でとなりの人と会話もできないほど。その体育館での入場行進では鳥肌が立った。これほどの人たちを興奮させられるウィルチェアーラグビーに誇りをもつことができた。あの時のことを思い出すと、今でも胸がギュンとなる」 ウィルチェアーラグビーに人生をかけてもいいと思えた。とはいえ、簡単に代表に選ばれ、練習も気持ちが入らないまま2010年には代表落ちの苦い経験もある。 「ふてくされている自分は相当恥ずかしいし、ダサいなと気づいた。今のままでロンドンパラリンピックに出られるわけがない」 一所懸命に頑張り、それで代表に選考されなかった時は諦めようと覚悟を決めて練習を始めた。毎日10㎞体育館で走り込んだ。煙草もきっぱりと止めた。そして体重を落とせたら乗れるように、小さいサイズの競技用車いすを購入。根性だけは、高校野球で身についていたから、自分を徹底的に追い込んでいった。そうして代表に復帰し、ロンドンパラリンピックにも出場することができた。 リオパラリンピックでは銅メダルを獲得。この経験が、官野を新たなチャレンジへと導いていった。 「銅メダルは成功と挫折を同時に味わうようなものだった。メダルセレモニーではうれしくて泣いたけれど、その横で優勝したオーストラリアの選手たちがでっかい声で国歌を歌っているのがすごくかっこよかった。東京で金メダルが獲れて、観客と一緒に国歌を歌えたらどれほどうれしいだろうか」 その経験をしてみたいという夢が、今の官野を突き動かしている。 「障がい者になって、健常者の時よりもよかったと思うことはないけれど、手足の動かない重度障がい者でも自分のやりたいことで飯が食えて、30代になった今でもたくさんのことにチャレンジできている人生はすごい」 家族に理解され、また多くの人たちに支えられている幸せを噛みしめながら、官野は金メダルのために疾走している。 官野 一彦/かんの・かずひこ 1981年8月1日生まれ。千葉県出身。10代のころは高校球児。プロ野球選手を目指していた。社会人になって始めたサーフィン中の事故で頸椎損傷。知人の紹介でウィルチェアーラグビーを始める。すぐに日本代表に招へいされ2度のパラリンピックを経験した。憧れのパラアスリートは元Jリーガー京谷和幸選手(元車いすバスケットボール日本代表)。昨年、金メダルを獲得するための環境を求めてアスリート雇用でダッソー・システムズ株式会社に入社し、アメリカ武者修行も経験した。 取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、安藤啓一
パラアスリートの軌跡⑪ 小椋久美子×鈴木亜弥子 ドリーム対談 2/2

パラアスリートの軌跡⑪ 小椋久美子×鈴木亜弥子 ドリーム対談 2/2

「パラアスリートの軌跡」第11回の後半となる今回もひきつづき…バドミントンで北京オリンピックに出場した小椋久美子さんと、パラバドミントン世界ランキング1位の鈴木亜弥子選手のドリーム対談をお届け(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 前回を読んでない方はこちら!↓ https://psm.j-n.co.jp/?p=2403&preview=true。 鈴木 小椋さんが北京オリンピックの出場権を獲得した前後で、どんな心境の変化がありましたか。 小椋 実際には当時、日本のなかで世界ランキングがトップだったので、おそらくオリンピックに出場するだろうということは、ある程度わかっていました。でも、実際にオリンピック出場が決定した2008年の5月は、嬉しいというよりもやっとスタートラインに立ったというホッとした気持ち。単にオリンピック出場だけならそこで達成ですが、その先にメダルを取りたいという目標がありましたから。 でも、残り3ヶ月を考えた時にメダルを取れる位置にはいないよな、ということを痛感して身震いしていたという感じでした。中国の出場枠は3ペアでしたが、実際には4ペアも強豪が争っていたほどでした。 鈴木 4組ですか!? 小椋 プラス韓国とチャイニーズタイペイ。勝ったことがある選手もいたけど、10回のうち1回勝ってもそれではほとんど負けてるようなもの。だからオリンピックまでにすごく自分を追い込んでいました。3ヶ月間に3回ぎっくり腰しましたから! 鈴木 3回も? 小椋 当時、誰も話しかけられなかったよってみんなから言われます。自分だけでなく周りの環境がものすごく変わるので、そこには引っ張られない方がいいと思う。 鈴木 周りですか? どういう風に変わりましたか。 小椋 まず壮行会がめちゃめちゃあるんですよ。それに取材もすごく増える。もう、肌で感じるくらいオリンピックってこれだけの人が注目するんだって。実際、オリンピックで北京のコートに立っていても、日本で応援してくれているというのがすごく想像できる。オリンピックは本当に別物。日本だけでなく、世界中の人が注目する場なんだということを実感しましたね。 鈴木 世界選手権やアジア大会とオリンピックでは、どう違うんでしょうか? 小椋 4年に1度という月日の長さも違うし、それこそ中国や韓国は死に物狂いでくる。プレー中でも、他の大会だったら絶対に取れないでしょうという球をどんな体勢でも取ってくる。そういう想念みたいなものが強すぎて、反対にすごく優れた選手が空振りしたり、こけたりする。 鈴木 ええっ! 想像つかない。 小椋 それから、やっぱりオリンピックは世界一の大会だから、過熱報道にもなるんです。でも、それは日本だけではないと思う。 鈴木 そうなんですね。 小椋 むしろ他の国では金メダルの評価って、日本とは比べものにならないくらい高いところも多いですよ。東京オリンピック・パラリンピックが決定してメディアの関心はすごく高まってるでしょう? 鈴木 そうですね。先日町田で開催された国際大会(ヒューリック・ダイハツ JAPANパラバドミントン国際大会)でもたくさんテレビや新聞の取材があって、どう自分が対応すべきか、勉強になりました。 小椋 2020に向けて、さらに注目度は上がっていきますよ。 * 鈴木 もう一つ、ぜひお聞きしたいことがあるんです。小椋さんは全日本選手権で5連覇されましたが、連覇がかかった大会に、どう臨まれたのでしょうか。 小椋 一番きつかったのが2連覇の時です。初めての連覇がかかった大会で、自分で〝連覇〞をすごく意識してしまったんですね。これが途切れたら、もう一度最初からやり直さなくてはいけないと思うとすごく怖くて。これをやったら負ける気がするというような悪い意味のジンクスみたいなものに縛られていました。 鈴木 例えば、どんなことを? 小椋 炭酸飲料が大好きだったんですけど、飲んじゃいけないと思って手をつけなくなったとか。 鈴木 ええ、そういうこと? 小椋 変な決まりをいっぱい作ってましたね。でも、オリンピック前のプレッシャーとは違うんです。やらなくてはいけないことがわからないくらい自分を見失う、ということではなかった。自分は一番強いという自信はありました。 鈴木 ああ、それはわかります。私も今はそう思っています。 小椋 自信はあるけど、弱気な自分もいるので、自信をわざと表に出してた。だから、「めちゃめちゃオーラが出てきたね」って初めて周囲に言われたのが、この2連覇の時だったんです。あの時には絶対に負けないという強い気持ちがありましたね。 鈴木 全日本の決勝で連覇するのは本当にすごいです。 小椋 試合前日の夜は眠れなかったです。でも、あれを乗り越えたというのがその後の人生、いい方向に向いていったと思う。あれで勝てたからこそ、オリンピックに出場できたと思います。 鈴木 それほどのものだったんですね。その後の競技人生を左右するような。 ―鈴木さんにとっては先日の町田の決勝も、まさにそういう試合だったのではないですか。 鈴木 ああ、そうかもしれません。 小椋 国際大会で、中国にいつも負けていたんです。いい試合だけど勝てない。ある日、今日負けたら、今までと何も変わらないなって思ったんです。それを試合中に痛感して、今日は絶対に勝とうって。 鈴木 試合中に、ですか。 小椋 もう、「いい試合したね」はいらない。もちろん、プロセスや試合内容は重要ですよ。でも、一番大事なのは結果です。いい試合だったとか、いい経験だったというのは、大切だけどそれだけでは絶対にダメで、どういう形で勝ったかという勝ち方をどれだけ知っているかがすごく重要だって、思いますね。勝ちを意識するようになったら、負けなくなったんです。 鈴木 深いですね。 小椋 めっちゃダサい試合もします(笑)。すごくいい試合内容で勝てば、選手としては気持ちいいです。華もあるしスカッとしますよね。でも、長いラリーが続いて相手のミスを誘って勝つみたいな勝ち方もある。 鈴木 ありますね、長いラリー。 小椋 そういう山を越えると、その時の経験がその後に生きてくるし、経験値が増えると試合中に余裕が生まれるんです。 鈴木 私も、町田の決勝の時に対戦した中国の選手に、それまでに2回負けてたんですね。だからここで負けたら、もう鈴木はこの中国選手には勝てないって周りに思われるだろうな、そう思われたら嫌だなって思ったんです。ここでどうしても優勝したい、金メダルが欲しいってすごく思って臨みました。カッコよく勝つ必要はないけど、とにかく1点ずつ得点を重ねていこうって。カッコよく決める1点と、ラリーして決める1点は実は同じ1点だから。 小椋 全く同じこと、思ってました。私はそれにプラス、相手がミスしても1点だって。自分のコートにシャトルを落とさなければ失点しない(笑)。 鈴木 本当! おっしゃる通り! 小椋 ネットを挟む競技って、そういう意味ではいろんな勝ち方、得点の仕方がある。バドミントンってこっちが息を吹き返してきたら相手が焦ったりする。その気持ちの波、流れやリズムが必ずあるんですよね。考え方を変えるだけで試合を変えることができる。 鈴木 対戦相手を見て、今ちょっと焦ってるのかなって思うこともありますよね。 小椋 それがわかるのはめちゃくちゃ余裕がある。焦っている時は無意識にいつも通りの癖が出てしまう。だから、相手が打ち込むコースがわかりますよね。 鈴木 反対に自分に余裕がなければ、やっぱりいつものコースに打ってしまいがちで、相手がどこにいるからこういう球を打とうという発想が生まれないですね。 小椋 バドミントンって、メンタルスポーツなんですよ。 * ―幼い時からバドミントンを続けてこられたわけですが、そのバドミントンの魅力は何でしょうか。 小椋 すごく奥が深いところ、ですね。一つのショットにしても打つ体勢によって質や弾道が変わります。やっても、やっても、まだまだ先がある、奥がある、というのがプレーしていてすごく面白いと感じていました。バドミントンって体が小さくても勝てるし、頭脳や球際のセンスで体の大きな選手を打ち負かすこともありますよね。勝つパターンも一つじゃない。 鈴木 私もすごくそう思いますね。私は足も速くはないですし、陸上競技選手だったら、パラリンピックに出場できない(笑)。体が大きい人や、運動神経がいいというだけで勝つわけではなく、自分のショットを工夫して勝ったりすることでやっぱり喜びがあります。自分の弱点をわかった上で、じゃあどんなショットだったら相手に勝てるかということを追い求めていけるんですよね。 小椋 そう、バドミントンってどんな人にもチャンスがあるんです。どこまでも追求できる。そこが魅力だと思いますね。 ―日の丸を背負う、ということで大切にしていることはありますか。 小椋 当時、「感謝」ということを口すっぱく言われていました。あなたが日本代表として日の丸を背負うことで、あなたのその場所に立ちたかった選手がたくさんいる。そういう人たちの気持ちも背負って戦いなさい、と。それを言われるようになってから、自分がどういう状況でも責任を持って試合に臨まないといけないと強く思うようになりましたね。海外遠征にしても、代表であれば国の税金を使わせてもらったり、あるいは会社が負担してくれたりしているわけです。自分一人で競技を続けられているわけではないということを、自覚するようになりました。 鈴木 感謝は本当に大切ですよね。会社という組織の中で練習の時間をいただけていること、体育館があること、私が競技を続けていくための環境が整っている。全てに感謝です。この環境がなければ今の私の結果は出せていません。それを感じつつ、自分がどこまで挑戦できるか。そこを目指して今も進んでいます。 ―鈴木選手の東京パラリンピックの目標は。 鈴木 やっぱり東京パラリンピックでの金メダルが目標です。 小椋 鈴木選手には東京パラリンピックの舞台に絶対に立って欲しいって思っているんです。今、私が鈴木さんとこうやって北京オリンピックの頃の経験などをお話しできるのも、その場に立てたからこそ。鈴木選手が世界最高峰の舞台に立って初代チャンピオンになるところをぜひ見たいと思っています。 (写真右)小椋久美子/おぐら・くみこ 1983年7月5日、三重県生まれ。8歳の時地元のスポーツ少年団でバドミントンを始め、四天王寺高校時代にインターハイダブルス準優勝、シングルス準優勝を果たす。卒業後三洋電機に入社し2002年に全日本選手権シングルスで優勝。その後ダブルスプレーヤーに転向し、2004年の全日本選手権から5連覇を達成した。2008年北京オリンピックに出場、ダブルス5位入賞。2010年現役を引退、現在はテレビなどの競技解説ほか、キッズ・ジュニアの指導、普及活動をベースに幅広く活躍中。 (写真左)鈴木亜弥子/すずき・あやこ  1987年3月14日、埼玉県生まれ。七十七銀行所属。先天的に右腕に機能障がいがある。小学3年でバドミントンを始め、大学まで一般のバドミントン部に所属。高校時代にはJOCジュニアオリンピック全国2位、インターハイ出場。大学3年時にパラバドミントンに出会い、2009年の世界選手権シングルス優勝、2010年アジアパラ競技大会で金メダル。一度現役を引退するが2015年に復帰、今年9月に東京・町田市で開催された日本初の国際大会で優勝。2017 年10 月現在、世界ランキング1位。 撮影/石橋謙太郎(スタジオM)、吉村もと 構成・文/宮崎恵理
パラアスリートの軌跡⑪ 小椋久美子×鈴木亜弥子 ドリーム対談 1/2

パラアスリートの軌跡⑪ 小椋久美子×鈴木亜弥子 ドリーム対談 1/2

「パラアスリートの軌跡」第11回となる今回は…バドミントンで北京オリンピックに出場した小椋久美子さんと、現在パラバドミントン世界ランキング1位の鈴木亜弥子選手のドリーム対談を2回に分けてお送りします。(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 彼女たちがバドミントンを始めたきっかけ、日の丸を背負うことの意味、試合への取り組み等。オリンピアンとパラアスリートの真情が交錯する。 ―お二人がバドミントンを始められたのはどんなきっかけでしたか。 鈴木 両親がともにバドミントン選手で、年子の姉もバドミントンをしていたので、自然と始めました。小学3年の時です。 小椋 私は小学2年の時から。4人兄弟で姉、兄、私、弟なんですが、地元が住民1万人ほどの小さい町でスポーツ少年団で女子ができるスポーツがバドミントンとバスケだったんですね。兄弟4人が一緒に楽しめるスポーツということでバドミントンでした。 ―お二人とも高校時代にはインターハイに出場しています。競技者としての意識はいつ頃覚醒したのでしょうか。 鈴木 中学3年の時に関東大会のダブルスで優勝したんです。誰も期待してなかったので、あ、勝っちゃったみたいな感じでした。 小椋 高校はどこですか。 鈴木 埼玉県の越谷南高校です。インターハイ団体戦でベスト16。その後、JOC(ジュニアオリンピック)に出場して全国大会で2位になりました。 小椋 え、JOCの全国大会で準優勝? それはすごい! 鈴木 ダブルスで1回だけ。その大会で2位になったことで2004年の全日本に出場できたんです。 小椋 その全日本、大阪で開催された大会ですよね? 鈴木 そうです。その時、小椋さんが優勝されています。うわあ、こんなすごい選手がいるんだって、衝撃受けてました。 小椋 私たち初めての優勝だったからよく覚えてる。でも、無我夢中で何も見えない中で戦っているような記憶だなあ。ただがむしゃらに頑張ってたという感じで。 鈴木 本戦に出場できたので、すごく思い出があります。 小椋 私は高校が四天王寺高校という強豪校にいて、2年の時にインターハイのダブルスで準優勝。普通、準優勝なら結果としては決して悪くないですよね。それなのに、次の日の練習からさらに厳しくなって、負けは許されないという空気でした。最初はすごく戸惑いましたけど、それが当たり前の中で続けていたら、自分もやっぱり〝優勝したい〞と思うようになりましたね。卒業して三洋電機に入社してから、責任感が芽生えました。鈴木さんは今、実業団チームに所属されてるんですよね。 鈴木 はい、七十七銀行に。 小椋 お仕事もされてる? 鈴木 午前中はオフィスワークです。 小椋 私も、週に2日、半日は仕事でした。ちゃんと制服に着替えて工場に行って。高校までは親にバドミントンを続ける費用は全部面倒見てもらっていた。でも、自分できちんと仕事としてお金をいただいてバドミントンを続けるというのは、責任感とか大きく変わりません? 鈴木 変わりましたね。優勝しなきゃって、すごく思います。 * ―小椋選手が2008年北京オリンピックに出場された1年後、2009年に鈴木選手はパラバドミントンの世界選手権で優勝されました。 小椋 でも、2010年のアジアパラで優勝した後、一度現役を引退されたって聞いています。 鈴木 はい、2011年から2015年までの5年間、バドミントンから離れてました。 小椋 5年間! それは長い。 鈴木 2020東京パラリンピックでバドミントンが正式種目になることが決定して、それでもう一度やろうと思って、そう決めてから七十七銀行に入行したんです。 小椋 東京が決まってから復帰したんですか。やっぱり、東京はすごいパワーがありますね。 鈴木 2014年の10月に正式種目決定というニュースを聞いた後、1年間じっくり考えて復帰を決意したんですね。改めてラケット握ったのは、復帰を決めてからでした。 小椋 復帰して最初、ラケットにシャトル、当たりましたか(笑)。 鈴木 姉とプレーしたんですが、クリア(注:相手コート奥に返球するショット)を飛ばすのもいっぱいいっぱいでした(笑)。 ―小椋さんがパラバドミントンを初めてご覧になった時の印象は。 小椋 鈴木さんと同じ障がいカテゴリーの豊田まみ子選手の取材したのが最初です。その時にちょっとだけラリーをしたんですよ。彼女は片腕がないのですが、この体のバランスでこんな力強い球が打てるのかと。自分の体を理解して、どう動かしたら打てるのかをすごく考えてるんだろうな、と感じました。 * ―一般のバドミントンもパラバドミントンも、世界の中でアジア、そして日本は強豪国です。その理由はどのようなことなのでしょうか。 小椋 パラバドミントンだと、アジアの強豪国ってどこですか。 鈴木 クラスによって違いますが、私と同じ上肢障がいでは中国、インドネシア、マレーシアなどですね。義足などのクラスでもインドネシアが強いです。車いすでは韓国。 小椋 そうか、一般のバドミントンと同じですね。中国は北京オリンピックを目指してシドニーやアテネの頃から強化が進んでいたんです。中国の場合は、優勝すれば一生保証される。それが大きなモチベーションになってますね。インドネシアやマレーシアはバドミントンが国技になっていて、町の公園みたいなところにネットがある。自然と小さい時からテクニックが身につくし、外でやっているから風にも強い。ブラジルのサッカーみたいな感じかもしれませんね。楽しみながら小さい時からバドミントンをやっている。 鈴木 環境は大事ですね。 小椋 日本でも、特に最近は小さい時から楽しみながらやっていて海外選手を相手にしても怯まない。そこは私たちの時代と変わってきたなあって思いますね。それでいて、日本の伝統的な粘り強さが継承されているので、海外選手からいつも賞賛されています。一般のバドミントンでは、今ジュニア育成がすごく確立されていて、それが結果につながっていると思いますね。 鈴木 ジュニア育成はいつ頃から? 小椋 アテネ五輪が終わった後に朴柱奉さんが日本代表監督に就任されて環境が大きく変わりました。ジュニア育成で言えば、U-13というカテゴリーがあって、最近は小学生でも海外遠征に出かけたりしています。ジュニア世代で世界の戦い方、選手を知る経験は貴重ですよ。 鈴木 そこはパラバドミントンの世界とは違いますね。 小椋 私たちの時代って、オリンピックのバドミントンの試合も中継がなかったから、先輩たちがオリンピックでどういう戦いをしているのかは、せいぜい専門誌で写真と記事を見るくらい。でも、今の子供たちは日本人選手が世界で活躍している姿をテレビで見ることも多いから、自分たちも頑張ろうって具体的にイメージできるのかな。 つづく 次回もひきつづきお二人のオリンピック・パラリンピックにかける思いをお届けします! (写真右)小椋久美子/おぐら・くみこ 1983年7月5日、三重県生まれ。8歳の時地元のスポーツ少年団でバドミントンを始め、四天王寺高校時代にインターハイダブルス準優勝、シングルス準優勝を果たす。卒業後三洋電機に入社し2002年に全日本選手権シングルスで優勝。その後ダブルスプレーヤーに転向し、2004年の全日本選手権から5連覇を達成した。2008年北京オリンピックに出場、ダブルス5位入賞。2010年現役を引退、現在はテレビなどの競技解説ほか、キッズ・ジュニアの指導、普及活動をベースに幅広く活躍中。 (写真左)鈴木亜弥子/すずき・あやこ  1987年3月14日、埼玉県生まれ。七十七銀行所属。先天的に右腕に機能障がいがある。小学3年でバドミントンを始め、大学まで一般のバドミントン部に所属。高校時代にはJOCジュニアオリンピック全国2位、インターハイ出場。大学3年時にパラバドミントンに出会い、2009年の世界選手権シングルス優勝、2010年アジアパラ競技大会で金メダル。一度現役を引退するが2015年に復帰、今年9月に東京・町田市で開催された日本初の国際大会で優勝。2017 年10 月現在、世界ランキング1位。 撮影/石橋謙太郎(スタジオM)、吉村もと 構成・文/宮崎恵理
パラアスリートの軌跡⑩ スペシャルオリンピックス日本理事長 有森裕子

パラアスリートの軌跡⑩ スペシャルオリンピックス日本理事長 有森裕子

「パラアスリートの軌跡」連載第10回目は、女子マラソンランナーとして活躍したメダリストであり、現在スペシャルオリンピックス日本の理事長に就任された有森裕子さんのインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) スペシャルオリンピックスは知的障がいのあるアスリートを支援する国際的スポーツ組織だ。4年に1回、夏季・冬季に世界大会を開催。前回2015年、米国ロサンゼルスの夏季世界大会には164カ国から、6500名以上のアスリートが参加。日本からも77名が参加した。その活動を行うスペシャルオリンピックス日本の理事長の彼女がどんな思いで、アスリートたちを応援しているのかを聞いた。 スペシャルオリンピックス(以下SO)との縁をつくってくださったのは、SO日本元理事長の細川佳代子さん、細川護煕元総理の奥様です。 2002年に連絡をいただいて、ドリームサポーターになって活動を応援してほしいと言われました。元力士の小錦さんやテニスの伊達公子さんもサポーターで、私でなにか役に立てればと思ってお引き受けしました。関わり始めて、さまざまな気づきがありました。 たとえば、知的障がいのある人(アスリート)にスポーツの場を「提供」するという表現が理解できなかった。人に聞いて、提供されなければスポーツする機会さえなかったことを初めて知りました。 サポートを難しくしているのは、当事者であるアスリートがどんな環境でスポーツをしたいのかを十分に発信できないことです。結局、組織を支える人の思いや価値観によって環境づくりがされてきた。その価値観も、「参加することが大事」「ナンバーワンよりオンリーワンを目指す」というものです。 幸運とは準備が機会に出会うこと でも、翌03年、アイルランドの首都・ダブリンで行われたSO夏季世界大会に行ったとき、それとは違うシーンを見たのです。確かに勝負を度外視したような選手もいました。重度の障がいのある陸上選手は、スタートしてもゴールを目指さないで応援席に向かって走ってきたり、遅れている子を待ってゴールしたり。 いっぽうで、勝負にこだわるアスリートもいたのです。バスケットボールチームは決勝で負けたのですが、地団駄踏んだり泣いたりして悔しがっていました。 それを見て思いました、勝つことを追求する選手がいるのなら、それを応援する体制が必要だと。また、ひとつの価値観にしばられないで、アスリートに合わせてサポートしたほうがいいというふうにも思いました。 そんなことを考えているうちに、副理事長に、何年かして理事長になってほしいと言われました。スポーツに関わりのある人が組織のトップに立って、SOのことを外に向かって発信してほしかったようです。 理事長になってからは、選手団を率いて、いろいろな大会に行きました。選手と一緒の部屋で寝泊まりして過ごしました。 知的障がいのある人とない人、違うところはあるけれど、同じ部分もたくさんあるんですね。怠ける人もいるし、悪戯をする人もいる。障がいのありなしにとらわれず、普通にシンプルに接すればいいと思いました。 私が理事長になって、これだけはやりたいと思ったのは、一人でも多くの人たちに、スポーツをする機会を提供したいということ。スポーツは、人を変える力をもっているからです。 私はカンボジアで毎年行なわれている「アンコールワット国際ハーフマラソン」の運営に関わってきました。最初はゲストランナーとして参加したのですが、貧困や地雷の問題がある国で、はたしてマラソンに意味があるのかと疑問でした。しかし翌年再訪すると、子どもたちが楽しみにしてくれていた。マラソンは彼らに生きるパワーを生み出していた。スポーツが持つ力を改めて実感しました。そんなスポーツだからこそ、できるだけ多くの知的障がいのある人に経験してほしいのです。 〈幸運とは準備が機会に出会うことである〉 これは、アメリカの人気テレビ司会者オプラ・ウィンフリーの言葉です。知的に障がいがあることが不幸なのではなく、機会に出会えていないことが不幸なのです。スポーツによって人は変化します。世界大会を経験すると、年々成長していくアスリートがいます。すごく積極的になったり、しゃべれなかったアスリートがかなりお話ができるようになったり。私もオリンピックにでて成長することができました。こうした経験を多くの人にしてほしい。その歓びを誰も奪うことはできないのです。 障がいの有無を超えたユニファイドスポーツ [caption id="attachment_2390" align="alignnone" width="320"] スペシャルオリンピック日本には、8250人のアスリートが活動に参加、47都道府県に地区組織がある。ボランティアの数9769人。5216人のコーチがアスリートを指導する(数字は2017年末 写真/安藤啓一)[/caption] この活動をできるだけ多くの人たちに知ってもらうために、オリンピアンたちにドリームサポーターとして参加してもらっています。フィギュアスケートの安藤美姫さん、小塚崇彦さん、柔道の平岡拓晃さんなどです。参加した感想を聞くと、知的障がいのある人がスポーツを純粋に楽しんでいる姿を見て、「スポーツの原点」を再認識したりしている。自分のアスリートとしての経験を、引退後の活動の中でどう生かすかを考える良い機会になるとも思います。 サッカー元日本代表の山口素弘さんには、昨年、シカゴで行なわれたユニファイドフットボールカップの、日本選手団アンバサダーとして参加していただきました。ユニファイドスポーツというのは、知的障がいがある人とそうでない人がチームをつくってプレーするものなのですが、山口さんなどJリーガーなどがコーチ陣に入ると、選手たちがすごく成長するんです。 私も見ましたが、誰がアスリートなのかわからないぐらいになっていました。もともと能力がないわけではなく、やれば普通にできることが増える。生きていく力が育まれるんですね。そういうシーンを目の当たりにすると、こういう機会を増やしたいなとつくづく思います。 最初は教える側も大丈夫かなと思っていたりするんです。でも実際やってみると、「おっ、できるじゃない」と見方がガラっと変わる。当事者たちも変化・成長しますが、その周囲の人たちはもっと変わっている。当事者たちのまわりで起きる変化こそがスペシャルなんです。 今、Jリーグ、プロバスケットボールのBリーグとも提携して、交流ができつつあります。ユニファイドスポーツがもっと全国に広まってほしいと思っています。 アスリートを信じることすると選手は変わる SOの強みは、実は地区組織の厚みです。全都道府県に地区組織があって、非常に活発です。アスリートたちも、その地域の人たちに教えられながら成長しています。 去年11月の富士山マラソンの知的障がい女子の部で優勝した樋口敦子さんは、SOアスリートです。私がコーチをしているわけではなく、地区の人が教えてくださっている。そうした日常的な応援で、十分アスリートは変われるのです。 大事なのはまわりがアスリートを信じること。信じて環境を整えれば選手たちは変わります。 9月に愛知県で、SO夏季ナショナルゲームが開催されました。競泳、テニス、体操など13競技でアスリートたちがそれぞれに力を出してくれました。 スローガンは「超える歓び。」。 これはすごく重要なテーマで、アスリートが自分を超える、周囲の人たちは、知的障がいのある人たちとの間にある壁を超えるという意味もあるでしょう。 そうした活動を通じて、SOに関わる人みんなが元気になってほしい。それが私たちのモットーでもあります。 SOでは、目を見張るような大記録がでるわけではありません。でもスポーツは記録がいくらよくても、意外と記憶に残らないものです。記録に加え、記憶に残るものがあるから感動が生まれる。SOは感動のシーンがたくさんあります。ぜひ参加したり応援したりしてもらえたらと思います。 有森裕子/ありもり・ゆうこ 1966年岡山県生まれ。1989年、リクルート入社。小出義雄監督に見いだされ、90年、初マラソンの大阪国際女子マラソンで日本最高記録を樹立。92年、バルセロナオリンピックで銀メダル。96年、アトランタオリンピックで銅メダルに輝く。98年、スポーツNPO法人ハート・オブ・ゴールド設立。2002年には国連人口基金親善大使に就任。スポーツマネジメント会社ライツを設立(現特別顧問)。2008年、スペシャルオリンピックス日本理事長に就任。   取材・文/西所正道 写真/高橋淳司
パラアスリートの軌跡⑨ パラスノーボード 成田緑夢

パラアスリートの軌跡⑨ パラスノーボード 成田緑夢

「パラアスリートの軌跡」連載第九回目は、パラスノーボード 成田緑夢選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 「成田緑夢、パラスノーボードを引退します!」 2018年3月末。衝撃的な宣言がテレビから飛び出した。平昌冬季パラリンピックで活躍した他のメダリストとともに収録が行なわれた際の、最後のサプライズだった。 「僕の夢、目標はこれからも続きます。その道を進んで行きます!」 成田はとびっきりの笑顔で、そうカメラに向かって叫んでいた。 トランポリンの事故で左足ヒザ下に障がいが残った 〝夢〞という字をもつ名前に見覚えがある人も多いだろう。兄・童夢、姉の今井メロは、ともに2006年のトリノオリンピックで、スノーボードハーフパイプに出場した元選手だ。末っ子の緑夢は熱血コーチの父のもと、兄や姉と一緒に1歳でスノーボードを履いていたという。中学に進学すると、トランポリンとスキーのハーフパイプで夏冬のオリンピック出場を目指していた。 しかし、2013年の春、トランポリンの練習中、着地に失敗。 左足のヒザが逆に折れ曲がるという大事故に見舞われた。腓骨神経麻痺。筋肉や神経が断裂した左足は、ただの棒のような感覚。足首に力を入れることはできないという。 事故の後、軽い気持ちで出場したウェイクボードの大会で優勝。その様子をSNSでアップすると、意外な反応があった。 「障がい者のひとりとして、勇気をもらった」と。 「スポーツには、自分だけでなく知らない人にも勇気や夢を与えられる素晴らしい力がある。そのことに気づいて、改めて競技に取り組もうと思うようになりました」 そうして、パラスポーツを始めた。パラスポーツについてリサーチし、スノーボードクロスがパラリンピック種目になっていることがわかると、倉庫から古いスノーボードを引っ張り出して国内の大会に出場。圧倒的な勝利を収めて強化指定選手となった。 「目の前の一歩を大切に」「日々、挑戦」 パラスポーツを始めた時から、成田が大切にしているキーワードだ。 1本目より2本目、3本目 挑戦した結果の金メダル パラスノーボードは4年前、ソチパラリンピックでアルペンスキーの1種目として正式採用された。 今回、平昌では独立した競技としてスノーボードクロス、バンクドスラロームの2種目を実施。成田は、パラリンピック初出場で、スノーボードクロスで銅メダル、バンクドスラロームでは金メダルを獲得したのだった。 バンクドスラロームはひとり3本をすべりベストタイムで競われる。1本目、成田はトップに立った。 続く2本目、再びトップに。この時、成田は出走前にボードのバインディング位置をビスひとつ分後ろにずらした。 「この日は気温が下がって朝からバーンがカチカチに凍っていたんです。1本目はしっかりターンができるように小回りの利くクルマをイメージしたセッティングにしました。でも、案外思った以上にターンができることがわかって、2本目は、もっと大型エンジンでブォーンと加速するクルマのようなセッティングに変えたんです」 これが、成田の〝挑戦〞だ。そして、それは3本目にも続いた。コース第5バンクで、それまでの2本よりもさらに上から下へ落とす攻めるラインどりですべった。 レギュラースタンスの成田は、障がいのある左足が前になる。足首に力を入れられないため、カカト荷重になるヒールターンが課題だった。それを解消したのが、左足にアルペン用のハードブーツ、右足にソフトブーツという左右非対称のブーツを履くこと。ハードブーツでしっかりとサポートされた左足が、ヒールサイドのシャープなエッジングを可能にしたのだった。 第5バンクはヒールサイドターン。狙い通りのラインで果敢に加速、2本目からさらに1秒ものタイム短縮を実現させトップでゴールした。ライバルたちも2本目、3本目にタイムを更新させている。成田が慢心していたら、あっという間に順位は入れ替わっていただろう。成田は1本目より2本目、そして3本目と、自分で作ったテーマに挑戦し、他を寄せ付ける隙を与えなかった。まさに、完全優勝だったのだ。 「優勝するとかメダルを取ることにフォーカスしていたのではなく、とにかく今すべる1本に挑戦しようと思っていました。守るのって、ワクワクしないじゃないですか。 挑戦してうまくいけば勝てる。ダメでも自分のなかにその結果が蓄積される。もともと何ももってない。守る必要なんか、ない。見ている人にも、ドキドキ、ワクワクを見せられたかな、と思います」 僅差を争っていた2本目、3本目もむしろ成田は楽しんでいた。 「トップで競っていたライバルたちのレベルは半端ないです。そういう世界で優勝できたことは最高にうれしいです!」 要素分解してデータ化 それが夢への近道に 成田が事故後、再びスポーツで目標をもち始めた時の夢、目標は「パラリンピック、オリンピックで活躍し、誰かに勇気や夢、希望を与えること」である。 平昌パラリンピックで金メダルと銅メダルを獲得するという大活躍を見せた成田は、帰国後にさらなる前進のために決断した。 引退は、終わりではない。次のステージへの大きなステップだ。 「事故にあって、実家を離れて自分ひとりでスノーボードを始めた時から、すべてを自分で考えて行動するようになりました」 迷ったり、疑問が出てきたら、スマートフォンのアプリにテーマを入力し、それを要素分解するという。 「この要素は何か、そのまた要素は何かと、階層を追って掘っていくんですよ。分解すると、それはデータ化される。さらにわからないことが出てきたら、別のテーマとして違う方向からアプローチして要素分解する。自分にとって正解が得られたら、そこから逆算すればいい」 こうした緻密な作業が、日々の挑戦につながり、その結果がまたデータとして蓄積されていく。 成田は日頃からユーチューブを活用して、自分のストーリーをタイミングよく発信している。その率直な映像や語り口に共感する人の輪は、どんどん増え続けている。 「すべては、僕の夢につながっています。夢を効率よく達成するために」 2018年、平昌パラリンピック。成田は確かな足跡を残して、新たな一歩を踏み出したのだった。 成田緑夢/なりた・ぐりむ 1994年2月1日、大阪府生まれ。近畿医療専門学校所属。2013年3月にフリースタイルスキーのハーフパイプ世界ジュニア選手権で優勝。2016年からパラ陸上の走高跳、パラスノーボードを開始。スノーボードは2017年に国際デビューしW-CUPで表彰台に上がる。2018 年W-CUPカナダ大会で2冠を達成。現在、陸上走り高跳びに挑戦し、東京パラリンピック出場を目指す。     文/宮崎恵理 写真/石橋謙太郎(スタジオM)
パラアスリートの軌跡⑧ 車いすテニス 国枝慎吾

パラアスリートの軌跡⑧ 車いすテニス 国枝慎吾

「パラアスリートの軌跡」連載第八回目は、車いすテニス 国枝慎吾選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) パラスポーツで2018年最初のビッグニュースは国枝慎吾の全豪オープン優勝だった。ケガに苦しみ、リオパラリンピックの金メダルも逃した元世界王者が完全復活だ。新しいバックハンドを手に入れて、次の目標は全仏優勝。その先には東京の金メダルがある。 2018年1月に開催された全豪オープン、国枝慎吾はステファン・ウデを、4-6、6-1、7-6(7-3)で下し、3年ぶり9回目の優勝を果たした。第三セットはタイブレークまで持ち込み掴み取った渾身の勝利だった。 かつては無敵を誇っていた国枝だが、グランドスラム優勝は2015年の全米オープン以来。2016年のリオパラリンピックではダブルスで銅メダルを獲得したものの、シングルス三連覇を逃している。3年という長いトンネルから、この全豪優勝でようやく抜け出すことができた。 「勝利の味を思い出した。次は全仏での優勝。その先には東京パラリンピックがある」 グランドスラム優勝から長らく遠ざかった理由は右肘のケガ。いわゆるテニスエルボーだ。強烈なバックハンドで世界に君臨してきた国枝だが、その代償として右肘は悲鳴を上げた。リオパラリンピック前には2度目の手術。肘関節のクリーニングをしたものの、痛みが引くことはなかった。「リオはきつかった」痛み止めを打ち出場した、当時のことをつぶやくように振り返る。 「ケガさえなければまだ勝てる自信はあった」 それは右肘の故障を抱えたままでは、もう一度グランドスラムで優勝できないことを意味する。 リオ後の11月からテニスは完全休養。出場を予定していた大会はすべてキャンセルした。4ヶ月間、一切ボールを打たなかった。ケガの不安を抱くことなくコートに立てることが目標だった。 そして翌年2月下旬、もしかしたら完全に痛みが消えているかもしれないと期待して、久しぶりにラケットを握りコートへ出た。しかし、淡い期待はもろくも崩れた。 「右肘の痛みは残っていた」 そして、この痛みこそが国枝に最後の決断をさせた。フォームの改造だ。 今までと同じフォームを続けていたら、休養して痛みが治まっても再発する可能性がある。そこでトップ選手たちのバックハンドを研究した。リオパラリンピックで金メダルを獲ったアルフィー・ヒューイット(以下ヒューイット)は、国枝とは違うグリップのバックハンドで攻撃的なテニスをしている。車いす選手に限らず、高めのボールを狙って打ち込める攻撃的なバックハンドを手に入れて、ボールの威力を強化したいと考えた。 同時に右肘への負担を減らそうとした。これまでのバックハンドはインパクトの瞬間に手首が曲がり肘の外側にストレスがかかっていた。そこで手首を曲げないグリップに変更。トレーナーとも相談して、痛みのメカニズムを理解したうえで改造に取り組んだ。それは新しいフォームにしていいのか迷いながらのチャレンジだった。 「昨年11月まで、古いフォームを捨てきれなかった。1歩下がって2歩進むような改造だった」と国枝は振り返る。 一気にグリップの握り方を変えるのではなく、少しずつずらしながら新しいフォームを試すような日々。順位ポイントのプレッシャーがある試合に出場しながらの改造だった。そのため思い切った変更ができなかった。新しいグリップでも、スイングの軌道は昔のままという中途半端な状態だった。 転機は昨年11月の全米オープンの時にやってきた。6-4、4-6、3-6で初戦敗退という結果。その時の相手は世界1位のヒューイットだった、彼のポジションは国枝にとってはかつての定位置。それが今は追いつき、そして追い越すべき目標選手だ。 この試合では完敗。数字的にはいいところはなかった。 「ショットを打つ時、入らないかもしれないとの思いがあった」 自信を持てないままコートに立っていた。それでも、だいぶよくなってきたと新しいバックハンドの手応えは感じていた。 帰国して自宅マンションのエレベーターに乗り、そこの鏡を使ってシャドースイングをしていた時のことだ。 「あることが閃いて、急激にこのスイングの意味が分かった気がした。翌日にコートへ出て打ってみたら、おもしろいように入った」 新生・国枝慎吾が誕生した瞬間だった。 これは世界最強のバックハンドをもつヒューイットと実践で打ち合ったからこそ掴めたスイングなのかもしれない。 「強い相手と対戦した時は、練習ではできないような実力以上のショットを打てる時がある」 これは別の試合について振り返った時の国枝の話だが、今回の全米オープンにおけるヒューイット戦も同じだったのだろう。 今年の1月、そろそろ結果を出せるのではないかと期待しつつオーストラリアに遠征に旅立った。全豪オープン直前、シドニーオープンの決勝で、ヒューイットに6-4、6-4のストレートで勝つことができた。 「全豪をとれる実感が高まった。自信が得られた」 全豪で優勝できるまで何%の仕上がりなのか、冷静に自分を見極められるようになっていた。 その10日後、全豪オープンで優勝。最強国枝が復活した。 「グランドスラム大会に勝ったことで、気持ちはとても楽になった」 強気で知られる国枝だが、この3年は思い通りのテニスができない不安との戦いを続けていた。金メダルを獲ると言葉にすることで自分を鼓舞しながらも、苦しい日々を過ごしていた。その本心が全豪の優勝で垣間見えた。 「まだ100%とはいえない。進化の途中だ。伸びしろを感じている」 国枝はかつて以上の強気で自信満々に話す。 「これまでよりもパワーがついた。誰よりも試合を組み立てる能力があるから、これで僕の戦術に相手を落とし込める。ショットの完成度を上げることが今の課題だ」 国枝は9歳のころか脊髄腫瘍を発病し、車いすを使うようになる。大好きだった野球ができずふさぎ込んでいた時、母親のすすめで車いすテニス教室に通いはじめた。かつてのインタビューで、こう振り返っている。 「最初の試合は負けて悔しかったけれども、勝負をするドキドキがたまらなく楽しかった」 その思いは今でも続いていて、全豪オープン優勝も引き寄せた。そして勝ちへの思いは東京パラリンピックへの原動力ともなっている。国枝慎吾の最強伝説第2章は始まったばかりだ。 国枝 慎吾/くにえだ・しんご 1984年2月21日生まれ。千葉県出身。9歳の時、脊髄腫瘍のため車いすを使い始める。野球少年だったが、11歳の時、母親のすすめで車いすテニス教室(TTC吉田記念テニス研修センター)に通い始める。大学進学と同時に本格的な選手活動を開始。2004年アテネパラリンピックでは、同じくTTC出身の先輩である齋田悟司と組んだダブルスで金メダルを獲得。07年に年間グランドスラムを達成。09年にプロ転向を宣言した。     取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、ヨネックス提供
パラアスリートの軌跡⑦ ニッポンランナーズ 米澤諒

パラアスリートの軌跡⑦ ニッポンランナーズ 米澤諒

「パラアスリートの軌跡」連載第七回目は、ニッポンランナーズ 米澤諒選手のインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 2018年7月に開催された関東パラ陸上競技選手権大会(東京・町田)の800mを1分55秒65のアジア新記録で優勝。知的障がい者のT 20クラスで東京パラリンピック出場に挑戦する米澤諒の存在を強く印象づけた。 アジア新記録で優勝大躍進のスプリンター 4月に勤務先である株式会社エスプールプラスとスポンサー契約を結び練習環境が整ったばかりだが、早くもアジア新記録という結果を出してみせた。 米澤の才能を最初に見出したのは、米澤が昼間に通っていた知的障がい者施設の職員だった。 「京成佐倉駅から続く坂道をものすごい勢いで駆け上がっている」 その姿が気になった特定非営利活動法人木ようの家の工藤氏は、陸上の練習に誘ってみた。 米澤のデビュー戦は2013年、高校2年生のときに出場した佐倉マラソンの10㎞。1人だとコースの途中で道に迷ってしまうのではと心配した米澤の母は、陸上の県大会で活躍した姉に伴走を頼んだ。ところが米澤は、その姉を振り切るようにゴールまで疾走した。 2014年からはトラック種目に取り組み始め、千葉県障がい者スポーツ大会の800mに出場して3位。全国大会への代表枠2名には惜しくも届かなかった。 全国陸上大会から国際大会へ 自信が引き出す潜在能力 翌年の高校4年生の時は、和歌山県で開催された全国障がい者スポーツ大会に800mで出場し、優勝した。また、全国高等学校定時制通信制体育大会では、800mで2分01秒34。銀メダルだった。これは一般の高校陸上部のなかでは目立って速い記録だ。 全力疾走する米澤の姿を目の当たりにして、「親の期待は高まりましたよ」と米澤の父。本人が競技に集中できる環境づくりに両親は奔走しはじめた。 高校卒業後は、佐倉市役所のチャレンジドオフィスさくらで仕事をしながらトレーニングに励んできた。これは2年間、一般企業への就職に向けて取り組む就労支援制度だ。 そして2017年、国際大会を初めて経験。バンコクで開催されたINAS世界陸上選手権の800mは8位に終わった。 「外国の選手はものすごく速かったです。もっと練習をがんばらないと勝てない」と米澤。 [caption id="attachment_2335" align="alignright" width="200"] 高校を卒業した米澤諒は、ニッポンランナーズのコーチ、萩谷正紀さんとの二人三脚で東京パラリンピックに挑戦する。[/caption] それから約1年後、2018年6月に開催された関東パラ大会をアジア新記録で優勝する。この大躍進について、現在指導しているニッポンランナーズの萩谷正紀コーチは、「技術的なことも少しずつ改善してきました。(とくに知的障がいの選手では)成績とメンタルはかなり関係があります。800mについては、本人も自信がついたと思います」 今シーズンは本格的なトレーニングの成果が記録につながった。しかし東京パラリンピックには、せっかく自信をつけた800m種目がない。そこで、昨年から400mへの転向を進めているところだ。 萩谷コーチ「400mを51秒台で走る実力はあるのだけれど、試合でそれを出せていません」 「指導法が難しいです。最初の100mは加速して、中盤はリラックスする。そこからさらに加速していくというような難しい指示では伝わらない。800 m のときもそうでしたが、400mに自信を持てればいいのですが」 得意の800mでは、全力で走りきり、ゴールするとそのまま倒れ込むようなことが多い。それが400mは、余裕を残したままレースを終えてしまう。 米澤は、「400mは最初から最後まで、力を出し切ることがきついです。フライングも心配です」と話す。自分の走力をコントロールできずに悩んでいる。 スポーツで社会へと羽ばたく 2018年4月からは、午前中は仕事をして、午後から練習という毎日だ。そして週末は試合か強化合宿ということが多い。障がいの特性から、自分で加減を調整しにくい。すべて全力で取り組むものだから、コーチや家族はコンディショニングにも気を配っている。 米澤の母は、「栄養のことや睡眠時間は気をつかっています。ただもう社会人になったのであまり口出しはしません」と見守っている。 「陸上競技をはじめてから、とてもしっかりしてきました。静岡で行われる強化合宿にも東京駅から1人で行っています」と、米澤の父もその成長を実感。 「家族としても、彼のいろいろな面に気がつきました。アスリートとしてだけではなく、これから先も彼は1人で社会で生きていかなければならない。そういうことも含めて、今はとても多くのことを学んでいると思います」 陸上をはじめたことでコーチや今の職場とも出会い、1人の大人として自立していくすべを得た。「東京パラリンピックに出ます」と答える米澤。知的障がいを持ちながら自分の人生を歩んでいく勇気と自信をスポーツがプレゼントしてくれた。 福祉農園エスプールプラスに勤務。午後の練習を会社がサポート 米澤の職場であるエスプールプラスは、企業に向けて障がい者雇用の職場として貸し農園を運営しており、そこの運営スタッフとして勤務する。 千葉県と愛知県にある農園には大手企業を含めて200社が参画。1000名以上の障がい者一般就労を実現した。参画企業は農場をノーマライゼーション社員研修やCSRに活用している。生産した野菜は外部販売せず、参画企業の職場などに届けられて、それは社員のコミットメント向上にもつながっている。 社長の和田一紀さんは「地域の自治体や福祉団体と一緒に障がい者の働ける場所をつくりたい」と話す。米澤は初のアスリート雇用。「競技活動は本人が引退するまで、東京パラリンピック後もサポートします」 エスプールプラスのアスリート雇用に関する問い合わせは 事業本部 ☎03-6859-6555(星田)まで 取材・文・写真/安藤啓一  
パラアスリートの軌跡⑥ アルペンスキー 村岡桃佳 

パラアスリートの軌跡⑥ アルペンスキー 村岡桃佳 

「パラアスリートの軌跡」連載第六回目は、アルペンスキー 村岡桃佳選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 高校2年で初出場したソチパラリンピックから4年。2度目となる2018年3月に行われた平昌パラリンピックで、出場した5種目全てのメダルを獲得した。 滑降の銀メダルで幕を開けた平昌パラ パラリンピックのアルペンスキーの競技スケジュールは、滑降から始まる。競技初日の3月10日、滑降。女子のレースが男子より先に行なわれるため、村岡は日本人選手のトップバッターとなった。 片方が落ち込む難しい斜面で、先にスタートしたライバルがふたりも転倒。その直後に出走した村岡は、「公式トレーニングでも注意すべきポイントだと思っていました。 転倒を知っても、攻める気持ちに揺らぎはありませんでした」と、言い切り最初の銀メダルを獲得した。   翌11日はスーパー大回転。「高速系のスーパー大回転とは思えないほど、左右に大きく旗門が振られていて、攻めるべきポイントと慎重に行かなくてはいけないポイントがせわしなく続いている。溝にスキーを取られて減速してしまうミスもあった」 が、ふたつ目となる銅メダル。 1日のオフを挟んで行なわれた13日のスーパー複合では、1本目のスーパー大回転でトップと0秒32差で2番手につけていた。2本目の回転は、村岡にとっては苦手意識のある種目だ。「でも、1本目で僅差につけたから、絶対に攻めて行こう」と覚悟を決めて2本目に臨んだ。 [caption id="attachment_2328" align="alignright" width="200"] 平昌パラ後すぐにインタビューに答えてくれた村岡選手[/caption] 1本目でトップに立った選手を上回るタイムを叩き出したが、2本の合計タイムにより惜しくも銅メダル。「悔しいです! 回転でソチパラリンピックの女王に勝てたけど、総合力で負けた。でも、これがスーパー複合なんですよね」 しかし、このすべりが最終日の回転に生きてくることになる。 2位に2秒71の大差完勝の大回転 1本目、7番目に出走した村岡は、1分13秒42のタイムでトップに立った。2本目。トップの村岡は最終スタートとなる。村岡はキレのあるカービングターンで果敢に攻め続けた。そうしてゴールすると、2本の合計タイムは2分59秒48。2位とのタイム差は2秒71。ぶっちぎりの勝利。見事金メダルを獲得した。 「これまで大回転のレースでは、1本目でトップをとっていても、だいたい2本目で巻き返されていました。今日は、そんなの絶対に嫌だと思っていた。1秒40のタイム差なんて、私がミスをすれば確実に抜かれてしまう」 平昌パラリンピックに入ってから、もっとも緊張したのが、大回転の2本目だったと、振り返る。 「…意地、ですかね。絶対に今日だけは、やるしかないっていう」 2本目がスタートする頃には気温が14度にまで上がった。斜面は荒れ、苦戦を強いられる選手が続出した。 「スタート直後の1ターンで、あれ、身体が硬い、動かないって感じたのですが、ふたつ目、3つ目って、だんだんと身体の動きやラインどりなどを修正していけた」 パラリンピックの大舞台。真剣勝負のレースのなかで冷静に、自分のすべりを修正してもぎ取った金メダル。 「もう、すごく心臓がバクバクしていてアドレナリンが出まくっている自分と、冷静にそれを見ている自分がいた。そんな経験は初めてでした」 本来、大回転が行なわれるのは大会最終日の予定だった。気象状況により急遽、14日に変更となった。 「大回転が行なわれたのは、本当はオフの予定だった日。それまでの3レースの疲労が残っていて、ゴンドラに乗っても眠くて。インスペクションの後に目を閉じてコースのイメージをトレースしているだけでも、寝そうになっちゃう(笑)」 それでも、スケジュールの変更は村岡に味方した、と感じていた。 「最終日に得意の大回転を残しているより、少しでも先にフルアタックかけられた方がいいかなって」 どんな状況をも、好機と捉えて力に変える。それこそが、トップアスリートの資質なのだ。 そうして、大会最終日に行なわれた回転では、苦手意識を克服し5つ目となる銀メダルを獲得。 [caption id="attachment_2327" align="alignleft" width="300"] 平昌パラリンピックで獲得した5つのメダル。パラリンピックのシンボルと点字が刻印されている[/caption] 「平昌は私に始まって、私に終わるパラリンピックなんですよね」 実は、初日の滑降で銀メダルを獲得した直後、そんな言葉を発していた。村岡の言葉通りに、平昌パラリンピックは幕を閉じたのだった。 183㎝から188㎝へレース直前で出した答え ―平昌では、やはり大回転のすべりが非常に印象的でした。 「初めて出場した4年前のソチパラリンピックの時には、大回転で5位入賞したけれども、最初に出たスーパー大回転は途中棄権。メダルを獲得することは叶わず、〝次こそ〞って思って今回平昌に臨みました。これまでいつも2番とか、3番とか。大回転で優勝した後に国際パラリンピック委員会の特設サイトを見たら〝今まで女王たちの陰に隠れていた村岡が顔を出した〞みたいな書かれ方をしていた。みんなそう思ってたんだなって。まあ、自分も思ってましたけど(笑)。 大輝(森井。日本チームのリーダー)さんが、〝練習通りのすべりをすれば絶対に金メダルを取れるよ〞って言い続けてくれた。練習でならできることが、平昌本番でできずに負けるなんて、絶対にいやだ、という気持ちがありましたね」 ―ソチから4年。この短期間にこれだけ成長してきたのは、やはり男子先輩たちの存在ですか。 「もう、すごく大きいです。大輝さんもですけど、男子座位の先輩たちは、それまでにパラリンピックでメダルをいくつも獲得しているし、ワールドカップの年間総合優勝もしている。そういう先輩たちと、ずっと練習してきたから。だから先輩たちの〝桃佳ならできるよ〞の言葉には説得力があるんです」 ―狩野亮選手が、時には村岡選手の方が計測タイムで上回ることがあったと言っていました。 「2年くらい前からでしょうか。練習ですべった直後とか、〝桃佳、なんでここでスキーをズラしてるんだ〞とか、叱咤激励される。そういうことを繰り返して自然に学んでこられたのかなって思います」 ―それと、大回転では使用するスキーを、それまでの183㎝から188㎝に変えたと言っていましたね。 「女子選手のほとんどは183㎝を使用しているんです。でも、大輝さんが〝桃佳の技術なら188㎝いけるんじゃね?〞って言ってくれて。練習では使っていたんですよ。最初は、5㎝長くなっただけでターンができなかった。でも、練習したらコツが掴めて、そうしたらタイムも一気に上がったんです。平昌に入ってからもすごく悩んでいたんですけど、2種類用意しておいて、インスペクションの後、チューンナップしてくれたスタッフに〝長い方でお願いします〞って言いました」 ―4年間、雪上でのテクニックとともに筋力トレーニングも相当積んできた。だからこそ、5㎝長いスキーをしっかり乗りこなすことができたわけですね。 「インスペクションの時に、結構、バーンが硬かったんです。多分、自分のスタートの時にもこのコンディションは変わらないままいけるだろうと。ただ、コースは大きく左右に振ってあるな、どうしようかなって、思ってたんです。それでも、勝ちに行くために、このスキーを使おうって覚悟を決めました。1本目でしっかりターンができたから、2本目は迷わず188㎝を選んだんです」 [caption id="attachment_2326" align="alignright" width="200"] 開会式、閉会式では村岡が旗手を務めた。そのスタジアムのあるパークでメダルセレモニーが行なわれた[/caption] ―大英断で掴んだ金メダルだったのですね。 「直前に自分で選んだことも、それを使って1番になれたことも、すごく自信になりました」 ―子供の頃に始めたスキーで、ここまで成長した。改めてスキーの魅力って、何ですか。 「終わりがないところ。スキーには世界記録とかないですよね。コースのセットも、雪質もコンディションも、何もかもが毎回違う。そのレースをすべりきった達成感だけが自分のなかに残る。ずっとそれを追い求めていける。そういうところですね」 ―今後は追われる立場です。 「本当はメダルって、もっと遠い先のゴールだと思ってたんですよ。でも、終わってみたら、あれ、ここがスタートじゃない?って」 まだまだ上がある。もっとうまくなりたい。村岡が目指す場所はさらに高いところにある。そこに向かって、村岡は再び歩き始めるのだ。 村岡 桃佳 むらおか・ももか 1997年3月3日、埼玉県生まれ。 早稲田大学4年。4歳の時横断性脊髄炎にかかり車 いす生活に。小学生の時にチェアスキーに出会い、 中学進学後に競技を始める。高校2年でソチパラリ ンピックに初出場。大回転で5位入賞。         文/宮崎恵理 写真/石橋謙太郎(スタジオM)
パラアスリートの軌跡⑤ 車いすバスケ 香西宏昭

パラアスリートの軌跡⑤ 車いすバスケ 香西宏昭

「パラアスリートの軌跡」連載第五回目は、車いすバスケ 香西宏昭選手のインタビューをプレイバック!(2017年7月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) アメリカ・イリノイ大学で車いすバスケットボールの真髄を学び、大学選手権では優勝を経験した。卒業後はプロ選手として、ドイツ・ブンデスリーガでプレー。世界から「ニッポンにはヒロがいる」とマークされている。香西宏昭は、日本を代表する車いすバスケ界のエースだ。 香西宏昭の日本代表歴は長い。高校1年の時にU23の世界選手権に出場し銀メダルを獲得した。翌年にはシニアの代表として世界選手権に初出場。パラリンピックには08年の北京大会から昨年のリオデジャネイロ大会まで3大会に連続出場している。巧みなチェアワーク(車いす操作)と、スピードがもち味。ひとたびボールを手にすると、コートは香西に支配される。仲間への絶妙なパス、そして3ポイントシュート。香西の動きに、誰もが目を奪われる。 香西は、小学6年の時に車いすバスケに出会った。名門チームである千葉ホークスに所属して、メキメキと腕を上げた。 中学1年の時に、現在日本代表監督の及川晋平が主宰する〈Jキャンプ〉に参加。Jキャンプは、初心者からスキルアップを図る経験者、さらには健常者も参加できる車いすバスケのキャンプだ。 及川はアメリカ・イリノイ大学でシドニー、アテネパラリンピックでカナダを金メダルに導いたマイク・フログリー氏に師事し、その教えを元にJキャンプを立ち上げた。その第1回キャンプに香西が参加。メイン講師として来日していたフログリ ー氏は香西のポテンシャルを見抜き、イリノイ大への進学を強くすすめたのだ。フログリー氏、及川、香西。質の高い車いすバスケのベースが、脈々と受け継がれているのである。 3度目の出場となったリオデジャネイロパラリピックで、日本の目標は6位。しかし、実際には決勝トーナメントに進出できず順位決定戦で9位に終わった。 「予選ラウンド、自分の判断ミスでゲームを落としたと感じてるんです。小学生の時から車いすバスケを続けてきたなかで、リオはもっとも精神的ダメージが大きい大会でした」 「点差が拮抗している状態で、無理やり得点しようとしてカウンターを食らい、そのままズルズルと引き離されてしまったんです」 チームの要でありながら、自信を失う。戸惑い、葛藤、迷い。 「4年間練習を積んできたはずなのに全然足りなかったのでは、という後悔が頭をよぎった。そういう思いは、もう絶対にしたくない。全力でやりきってパラリンピックの舞台で悔いのないプレーがしたい」 リオパラリンピックは、香西の車いすバスケ人生において、真にリスタートの舞台となった。 リオパラリンピック以降、改めて取り組んできたのが肉体改造。新たにジャパンチームのフィジカルコーチに就任した有馬正人氏に、パーソナルトレーニングを依頼した。 [caption id="attachment_2315" align="alignright" width="300"] 有馬正人コーチのもと肉体改造を図る[/caption] 「以前から体幹は意識して取り組んでいた。でも、無意識に腹筋の上部ばかりを使っていて腰に過度の負担がかかっていました。下部の腹筋を含め体幹を強化して適正に身体を使えるようにならないと」 ひとつひとつのトレーニングをするとすぐに車いすバスケの動作を行なって連動させる。今使った筋力を、どう車いすの操作やシュートに生かすのか。実際にボールや車いすを使って確認する。 「始めてわずか1ヶ月で、車いすでの姿勢が変わりました。無理やりいい姿勢にしようとするのではなく、いい姿勢でいる方が楽になった。ハードな合宿でも身体の痛みが出ない」 もちろん、香西が目指しているのは、己の肉体を強化することだけではない。トレーニングだけでなく、メンタル、栄養などあらゆる要素について、専門家に継続的に指導を受けられる体制を整える。チーム香西を構築させていくことなのだ。 「自己中心的に聞こえるかもしれないけれど、今は自分にすごく集中している。僕の成長が、ジャパンチームにとってすごく必要だと感じているからです」 ドイツでプレーすること4シーズン。毎年ヨーロッパのクラブナンバー1を争う大会もある。ドイツだけでなくスペインなどのリーグには、アメリカ、カナダなどの強豪国の代表選手が多数在籍する。世界レベルのなかでプレーしていると、本当に強い選手のあり方が見えてくる。 「世界でもトップクラスの選手にはしっかりした裏付けのある判断力が備わっているんですよ。今、誰にパスを出すべきか、崩れた体勢でもシュートを打つべきか。僕にまだ足りないのはそこだと痛感している」 的確な判断力、周囲を冷静に見る視野。そして仲間から本当に信頼されるリーダーシップ。目指すべき姿は明確だ。 「ゲーム全体を考えながら瞬時に判断し、それをプレーとして実現するためには、ベストな状態で40分間戦い抜く身体とココロ、すべてを鍛えておかなくてはいけないから」 だから、チーム香西一丸となって理想を追い求めていくのだ。 「子供の頃から、練習によって少しずつでも自分が成長できることが喜びだったし、今でも車いすバスケを続けている大きなモチベーションになっています」 パラリンピックという大舞台で最高のパフォーマンスを出し切りメダルを獲得する。3年後の東京パラリンピックの前哨戦となる世界選手権が、来年ドイツで開催される。 「今年行なわれるアジアオセアニア選手権で1位をもぎ取って、世界選手権でベスト4。そうして、3年後にはメダル獲得を実現させます」 香西宏昭/こうざい・ひろあき 1988 年7月14日、千葉県生まれ。NOEXCUSE所属。先天性両下肢欠損(膝上)。小学6年で車いすバスケットボールを始め、高1でU23の日本代表選手に選出。2006年に初の世界選手権に出場。08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロパラリンピック出場。イリノイ大学卒業後、ドイツ・BGBaskets Hamburg に4年間在籍。来季よりLahn-Dillに移籍。クラス分けは3.5           写真/高須力、甲斐啓二郎 取材・文/宮崎恵理
パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

「パラアスリートの軌跡」連載第四回目は、ウィルチェアーラグビー 島川慎一選手のインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 2018年8月5日~10日にオーストラリアで開催されたウィルチェアーラグビーの世界選手権で、日本はホームのオーストラリアを下し初めて優勝した。リオの銅メダルから2年。躍進の要因は何か。ただ1人、4大会連続出場する島川慎一に聞いた。  ウィルチェアーラグビーがパラリンピックの正式種目になったのは、2000年のシドニー大会から。日本は、04年のアテネ大会に初出場し、リオまで4大会連続出場している。アテネで7位、北京で8位。ロンドンで4位に順位をあげ、リオで悲願の銅メダルを獲得した。 リオから2年。オーストラリア・シドニーで開催された世界選手権で、日本は、パラリンピック2連覇のオーストラリアを62対61で下し初優勝した。 今年43歳の島川慎一は、アテネ大会で最多得点を挙げた選手である。以来、常に日本チームを牽引してきた。 [caption id="attachment_2304" align="alignleft" width="300"] 今大会では女子選手の倉橋香衣も決勝で活躍。選手層が厚くなったことも日本チームの初優勝に結びついた[/caption] 「優勝できた最大のポイントは、準決勝のアメリカ戦でした」 世界選手権では12カ国が2リーグに分かれて予選を戦い、上位2チームが準決勝に進出する。日本は予選でオーストラリアに65対52で敗れていた。 「オーストラリアに負けた後、ケビン(・オアー)監督は、僕らにその試合のビデオを見せませんでした。ケビンが監督になって2年、一度もそういうことはなかった」 準決勝のアメリカ戦。先発ではなかった島川が交代でコートに入ると、主将の池透暢が島川に「10点くらい、引き離してやりますよ!」と、ギラギラ光る目で耳打ちしたという。 「全員が、池と同じ士気でした」日本は51対46でアメリカを下し、決勝進出を決めた。 「僕が初めて日本代表としてアメリカと対戦したのが2002年。他の国との対戦でも、アメリカが一方的に負けた試合を見たのはあれが初めてでした」 [caption id="attachment_2301" align="alignright" width="300"] 日本代表の背番号は13。13番目の選手も一緒に戦うという意味 がこの数字に込められている[/caption] 上肢・下肢ともに障がいがある選手が出場するウィルチェアーラグビーは、コートに入る4人の持ち点(クラス分け)の合計が8点以内でなければならないルールがある。日本は、ともに3・0点の島川、池、池崎大輔のうち2人が交代でコートに入り、守備を担う1点選手2人、あるいは1・5点と0・5点の選手が入るというような布陣でゲームに臨む。 オーストラリアの武器は、3.5点のエース、ライリー・バットの存在だ。世界的スター選手1人が予選でも決勝トーナメントでも、敵対する選手を蹴散らしてゴールする。日本はハイポインター3人が交代でスピードある攻撃を仕掛けていく。 最終ピリオドで逆転される場面もあったが、池崎のスティールで62対61とした。しかし、残り6秒で反対にオーストラリアにボールを奪われた。 「6秒あれば同点、下手すれば逆転さえ起こりうる。でも、そこでオーストラリアに得点を許さなかった。その粘りが最後に勝利を引き寄せたんです」 かつて日本は、ないないづくしだった。資金もない、練習時間もない。東京パラリンピック開催が決まり、リオで銅メダルを獲得し、現在は日本代表選手のほとんどがアスリート雇用。平日でもほぼ毎日、練習に専念できるようになった。 「隔世の感がありますよね」 島川は、アテネパラリンピック後の05年からアメリカの〈フェニックス・ヒート〉というチームで3シーズン、北京後、昨年と5シーズンプレーし、全米選手権の大会最優秀選手賞に輝いた経験を持つ。リオ以降、日本の監督となったオアー監督とも旧知の仲だ。 「とにかく走らされる。コートに出ている間は全力疾走です。ケビンは、どんどん選手を 代していく。交代が早いから、12人全員がコートに入った瞬間から全力を出せるわけです」 コートを3分割し、他の選手と直線的に重ならないように動き続けることも要求される。 「ボールがどんどん動くし、相手選手もばらけていく。これぞ、まさにケビン流です」 東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場となる。 「いや、僕としては次のパリくらいまでは第一線でプレーするつもりです」 もはや、島川にとってウィルチェアーラグビーは「人生、そのもの」。次なる目標は、もちろんパラリンピックタイトルだ。 「リオの悔しさを、東京で晴らします!」 島川慎一/しまかわ・しんいち 1975年、熊本県生まれ。BLITZ、バークレイズ証券所属。21歳の時に交通事故により頸髄を損傷し車いす生活となる。1999年よりウィルチェアーラグビーをはじめ日本選手権に初出場。2001年より日本代表選手に選出される。2004年アテネパラリンピックに初出場し、最多得点賞受賞。2010年の世界選手権、16年リオパラリンピックで銅メダル。       取材・文/宮崎恵理 写真/依田裕章 協力/パラアリーナ
パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

「パラアスリートの軌跡」連載第三回目となる今回は、パラアイスホッケー 堀江航選手のインタビューをプレイバック!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 大学3年で足を切断した後は、車いすバスケでアメリカ留学。卒業後にヨーロッパに渡り名門クラブでプレー。そんな国際派が帰国後、一転パラアイスホッケーを始めた。堀江航はクロススポーツの素晴らしさを体現しながら、初めてのパラリンピックに挑む。  2017年10月。スウェーデンでパラアイスホッケーの平昌パラリンピック最終予選が行なわれた。日本は5カ国中2位の成績で出場権を獲得。その日本チームでディフェンダーとしてプレーしたのが、堀江航である。 「正直、スウェーデンに行く前は4対6くらいの割合で、日本には分が悪いと思っていました。でも、初戦のドイツ戦で勝って、ぐっと平昌に近づいたな、と」 ドイツ戦で堀江は1得点2アシストで勝利に貢献。大会を通して2得点5アシストの活躍を見せ、大会のベストディフェンダー賞を受賞した。 堀江は、小中高とサッカー少年として活躍した。U 12、U 15に出場、高円宮杯全国大会で優勝。 都立駒場高では全国高校サッカー選手権にも出場を果たした。 その後日本体育大学に進学。3年時にバイク事故で左足のヒザから下を切断した。入院中から車いすバスケットボールを始めたいと、チームを紹介してもらったという。 「実際には、大学の授業で障がい者スポーツを学ぶ機会もありましたし漫画『リアル』も読んでいたから、車いすバスケの存在はすでに知っていた。だから、すぐにでも始めようと思っていました」 東京にあるクラブチームでスタートした後、現在日本代表監督を務める及川晋平に出会い、アメリカのイリノイ大学に車いすバスケ留学を果たす。大学院を卒業するとスペイン、ドイツのリーグで約5年間プレーした。2011/ 12シーズンには、ドイツの名門クラブ〈RSVLahn-Dill〉でドイツカップ、ブンデスリーガ、ヨーロッパチャンピオンズカップの3冠を達成し、凱旋帰国する。 「イリノイ大では、バスケのオフシーズンに陸上競技や車いすソフトボール、シッティングバレー、ウェイクボードなどさまざまなパラスポーツに取り組みました。バスケも大好きだけど、他のスポーツも同じくらい面白い。さらに、違うスポーツに取り組むことで新たな視点で身体の使い方を覚えるし、メリハリがあるので、それぞれのスポーツに集中できる。クロススポーツのよさを、目一杯体感できたのが最大の収穫でした」 [caption id="attachment_2290" align="alignright" width="300"] 白帯だが無差別級で優勝経験がある[/caption] 2012年に帰国すると、車いすソフトボール協会を立ち上げ、仲間を集めた。また、一般のブラジリアン柔術にも取り組み、義足を外して全身をフル稼働させている。 そうして、日本でのクロススポーツのひとつとして、パラアイスホッケーに出会ったのだった。「パラリンピックを目指さないか」という誘い文句が決め手になった。 「世界でいろんなスポーツを見てきたけれど、パラアイスホッケーは障がい者スポーツのなかでも競技レベルが高い。クラス分けなどもないので、観戦するにも高度な知識は不要です。アイスホッケーと同様に、選手も観客もゲームに夢中になれる。そこが魅力でした」 始めてすぐに強化指定選手に選出される。しかし、競技経験はゼロ。短期間での上達を求めて、再度渡米する。イリノイ大学時代のチームメイトがいるシカゴのチームで武者修行した。2013年にソチパラリンピック最終予選に出場。 2010年のバンクーバーパラリンピック準決勝でホームのカナダを下し銀メダルを獲得した日本だが、この大会でソチへの出場権を逃した。 その後、2015年の世界選手権にも出場するが、日本はカナダに0対 17という大敗を喫して、Bプールに降格。日本のパラアイスホッケー暗黒の時代に、堀江は放り込まれていたのだった。 堀江自身は、この頃から左肩に痛みを感じるようになり、選手としてプレーを継続させるために15年12月に内視鏡手術を受けている。 「1年間はまともにスポーツができる状態ではありませんでした」 ひたすら地道なリハビリを続けた。16年に北海道・苫小牧で行なわれたBプール世界選手権に出場する時には、直前合宿でやっと氷に乗れたという。 「だから、正直、パラアイスホッケーでは、今でも主戦力という意識はありません。でも、傭兵として力を尽くすことはできる」 世界を舞台に暴れまわっていた車いすバスケでは、日本代表としてパラリンピック出場という機会には恵まれなかった。“傭兵”というポジションで、初めて冬季パラリンピックに挑戦することになる。 「パラリンピック出場は長年思い描いてきたひとつの目標です。実際にその舞台に立ったら、どんな感動があるのか。そこは楽しみです」 一方で、堀江にはいくつもの目標がある。 「たとえば車いすバスケで健常者プレーヤーも4.5ポイントの選手として出場できるようにして日本のリーグを作る。ヨーロッパではそれがすでに実現しています。実際、健常者で車いすバスケを楽しんでいる人は多い。健常者が加わることで競技人口は一気に増えます。必然的に競技レベルも上がる」 協会設立理事でもあった車いすソフトボールでは健常者や障がい児などどんな人も参加できる仕組みを作っている。日本人にとって野球は国民的スポーツ。だからソフトボールへの親和性は高いのだ。 [caption id="attachment_2294" align="alignleft" width="300"] アメリカチームを招いた大会も開催。[/caption] 「パラリンピックの種目にするという働きかけもしていきたいですが、さまざまな人が一緒に楽しめる環境を継続させることはすごく重要だと考えています」 さらに、その土台を作るのは、子どもの体験機会だと強調する。「それこそが、一番やりたいこと。東京パラリンピックが決まって機会は増えているけれども、まだまだ日本には障がいをもった子どもがスポーツする環境が圧倒的に少ないんです」   [caption id="attachment_2293" align="alignright" width="300"] 子どもたちへのソフトボール普及も熱心な堀江Photo:H.Nojima[/caption] 堀江は街を歩いていても、現役選手としてスポーツの現場にいる時にも、子どもの姿を見つけるとすかさず近寄っていく。 「こんなスポーツをやってみないって、子どもをナンパするのがライフワーク(笑)。変な人だと思われてるだろうけど」 現役の選手としてさまざまなスポーツに正面から取り組み、さらには健常者、障がい者の壁を超えたスポーツのチャンスと環境を創出する。堀江航の描く未来は、とてつもなく大きい。 堀江 航/ほりえ・わたる  1975年5月25日、東京都生まれ。幼少時からサッカーに親しみ、ユース(U-15)選手権で優勝、全国高校サッカー出場。大学3年の時交通事故で左膝下を切断。車いすバスケでアメリカ・イリノイ大からにヨーロッパを拠点に活躍した。2012年よりパラアイスホッケーを始め、13年にソチパラリンピック最終予選、15年世界選手権に出場。         撮影/大下桃子、荒木美晴 取材・文/宮崎恵理
パラアスリートの軌跡② 車いすテニス 大谷桃子

パラアスリートの軌跡② 車いすテニス 大谷桃子

  「パラアスリートの軌跡」第2回目は、車いすテニスの国内競争が激化するなか、彗星の如く現れた大谷桃子のインタビューをプレイバック!(2017年07月発売号掲載。現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 硬式テニスでインターハイ出場経験をもち、車いすテニスを始めてわずか一年でだれもが注目する選手となった彼女。夢はグランドスラム優勝、そして東京パラリンピックのメダル。課題は多いが、伸び代は無限大。大谷の道は始まったばかりだ。 車いすテニスは、日本では人気の高いパラスポーツのひとつだろう。 アテネパラリンピックのダブルスで金メダルを獲得し、北京、ロンドン大会のシングルスで2連覇した国枝慎吾を筆頭に、リオデジャネイロパラリンピックシングルスで銅メダルを獲得した上地結衣など、日本人選手が多数活躍する。テレビなどで彼らのプレーを見たことがあるという人は少なくないはずだ。 大谷桃子が車いすテニスを始めたのは2016年の春だった。 兄の影響で、小学3年の時に硬式テニスを始めた。中学3年の時に関東エリアのジュニア選手権に出場し、栃木県の作新学院高校にスポーツ推薦で進学。高校3年の時にダブルスでインターハイに出場した経歴をもつ。 スポーツトレーナーを目指して専門学校に進学した矢先、病に倒れ薬の副作用で身体に麻痺が残った。右足は完全に麻痺し、右手の指も自由に動かすことができない。日常生活でも車いすを使用することになった。右手の握力は6、7㎏程度。自力でラケットを握ることができないため、テーピングを施して固定させている。 本格的に始める半年ほど前に、一度だけイベントで車いすテニスを体験したことがある。 [caption id="attachment_2276" align="alignleft" width="300"] エレッセ、ヨネックスがマテリアルサポート[/caption] 「でも、健常時代にテニスの経験があったから、もうただただもどかしくて」 だから、車いすテニスを継続するかはその時点では未定だった。それでも車いすで身体を動かしたい、何かスポーツをしたいという思いがあり、障がい者スポーツの指導者が多い西九州大学に編入した。 「大学に入ってから、去年(2016年)、初めてジャパンオープンを見に行ったんです。たくさんの海外選手に交じって日本人選手が長い長いラリーをしていた。それを見て、ああ、こういう試合がしたいって、むくむくと闘志が沸き起こったんですね」 そこから、車いすテニスを指導してくれるコーチ探しが始まる。理学療法士の紹介で、現在の古賀雅博コーチに出会った。 「僕もテニスのコーチはしているけれど、車いすテニスの指導経験はない。先輩に相談したら、きっと君ならできると背中を押されて」(古賀) 選手とコーチの二人三脚。車いすテニスへの挑戦が始まったのだった。 「テニスのスキルはなんとかなる。でも、車いすの操作は未熟。だから、古賀コーチとの練習の1時間前にはコートに来て、一人で走り込みをしてました。でも、どういう練習をしたら効果的なのか、まったくわからない。テレビやインターネットの動画で参考になりそうなものを見つけては、片っ端から真似してましたね」 2016年9月、初めて大阪オープンに出場。2回戦で韓国の選手と対戦、見事勝利をおさめる。 この勝利が大きなきっかけとなった。大阪オープン、その1ヶ月後に行なわれた広島オープンで準優勝。11月に国内のトップ選手が出場できる選抜選手権(マスターズ)に出場し、決勝で上地結衣と対戦。第1セットで上地を追い詰めたが、惜しくも準優勝に終わった。 「広島オープンでは、大阪の決勝で負けた相手に、11月のマスターズでは広島オープンの決勝で負けた相手にリベンジできた。大会に出場することで、何を改善すべきかがやっと見えるようになりました」 11月のマスターズには、男子の先輩選手の競技用車いすを借りて出場した。自分専用のテニス車をオーダー、入手したのは、2017年2月に入ってからだ。 「以前レンタルしていた車いすは背もたれやサイドが高くて、プレー中によく肘が当たってアザができていたんです。だからこれを低く設定して作ってもらいました。また、足が痙攣することがあるので、両足の前と後ろに固定するためのベルトをつけています」 マイ車いすとともに、2017年5月、1年前は観戦していたジャパンオープンに出場。メインドロー2回戦でオランダのディード・デグルートと対戦し敗退した。デグルートは現在世界ランキング3位の選手だ。(※2020年世界ランキング1位[2020年3月16日時点、以下同]) 「日本には世界ランク1位の上地選手(※2020年世界ランキング2位)がいますが、ディード選手は上地選手とはまったく違う球種や球筋。負けたけど、本当に世界を目指すための課題と目標が明確になりました」 リターンの強化と、フォアのスイングを改善し、より戦術的に試合を組み立てたいと目論む。   「自分としては男子のプレースタイルが好き。とはいえ、腕に力が入らないから実際にはパワーが少ないんです。上地選手の戦い方はすごく参考になる。どう効果的に打つか、日本人だからこその強みをどう生かすか。一方で、世界の選手がどう上地選手を相手に戦うかを見ることも、とても勉強になります」 [caption id="attachment_2277" align="alignnone" width="300"] ラグビーボール状のボールで腕の振りを確認[/caption] [caption id="attachment_2278" align="alignnone" width="300"] プレー前には右手をテーピング。手の障害をものともせず戦いを挑む[/caption] テニス経験の豊富な大谷の武器は、サーブだ。麻痺している右腕でも、思い切り振り切って、パワーのあるサーブを打ち込むことができる。 「サービスエースはもちろんですが、リターンのミスを誘うなど、こちらの展開にもっていくようなゲームが自分のもち味。そこをさらに磨いていきたいです」   インタビュー当時のシングルスの世界ランキングは40位。 「目指すのは、グランドスラムに出場し優勝すること。そして、東京パラリンピックで金メダルを取ること。たくさんある課題をクリアして進んでいきます」 そう目標を語った3年後の2020年、彼女は世界ランキング9位となった。 才能があったから、運がよかったでもない。彼女はこの3年間で自分自身と向き合い、課題を乗り越え続けてきた。彼女の努力とそれによって積み重なった経験、実力が生んだランキングだろう。 彼女がメダルをもち笑顔で表彰台にいる姿をぜひとも見たくなった。 大谷桃子/おおたに・ももこ 1995 年8 月24日、栃木県出身。エイベックス所属。西九州大学2年。兄の影響で小学3年の時に地元のテニスクラブで硬式テニスを始める。中学3年で関東ジュニアに出場。テニス推薦により作新学院高校に進学し、3年の時インターハイのダブルスに出場。卒業後、病気により体に麻痺が残る。2016年に車いすテニスを開始し、9月の大阪オープンに初出場し、2 位になる。2020 年4 月現在、シングルス世界ランキング9位       写真/吉村もと 取材・文/宮崎恵理

pr block

page top