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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

野島弘さん「SEA TO SUMMIT」に挑戦!

野島弘さん「SEA TO SUMMIT」に挑戦!

必要な参加資格は「楽しむこと」のみ! 一人で参加しても、チームで集まって参加するもよし。すべての参加者が助け合いながらゴールへと進んでいくのがイベント最大の特徴だ。2日間の開催となっており、1日目に開会式と環境シンポジウムを行い、2日目の早朝にレース開始だ。 健常者の部門とは異なり、パラチャレンジ部門は3種目のうち希望ステージのみでの参加が可能。野島さんは「カヤック」と、ハンドバイクでの「バイク」ステージへの挑戦を決意した。 2日目は、朝6時にはスタート地点に到着し、カヤックの準備をはじめる。操作性や安全面の確保を考えて、座席の高さや背中の反り具合を入念にチェックする。その後、開会式で野島さんの選手宣誓が行われ、いよいよレーススタートだ。   早朝のスタートは肌寒く、風の勢いも強かった。しかし、さいわいにも波は穏やか。河口のボトルネックを抜けて、合計8キロのカヤックコースを参加者が漕ぎはじめる。パラチャレンジ枠として、一般参加者よりも早めのスタートを切ることになった野島さんは、慣れた手つきでスイスイ進む。1時間2分の好タイムでゴールインを果たした。   カヤックを終えると慣れた手つきでハンドバイクへと乗り換え、山々の雄大な景色に囲まれながら風を切る。しかし、中間地点あたりからはじまる厳しい登り坂に、野島さんは悪戦苦闘。漕いで、水分補給してを繰り返すうちに、時間はどんどん過ぎていった。 ハンドバイクは坂道を駆け上がる設計ではないため、傾斜では前輪が浮いてしまう問題がある。ハンドバイクを取り外し、車いすの状態で押したりもしたが、ゴールは遠い。気付けば7時間も坂道と格闘していた。   それでも野島さんはリタイアすることなく、ゴール地点の博労座へと辿り着いた。すると「おかえりなさい!」と、大会運営スタッフや参加者たちが拍手で迎え入れてくれたのだ。 泣きそうになりながらも、近くの方々と握手を交わしながらのフィニッシュ。7時間19分。ハンドバイクでの走破として、新たな記録と多くの感動を生み出し、パラチャレンジ部門の可能性を広げる結果を残した。 「時間はかかったけど、完走させてもらえたことに感謝したい。熱い応援をしてくれたみなさまのためにも、今度は山の制覇もしたい」と野島さんは話す。自分を強くしてくれる「SEATO SUMMIT」に、障がいのある人もドンドン参加してほしい。   取材・文/編集部 写真/小林司・逢坂聡
パラスポーツの更なる普及を求めて!

パラスポーツの更なる普及を求めて!

首都大学東京は、パラスポーツに関する研究を積極的に行っていることで有名だ。2016年にはパラスポーツの裾野を広げるため、床冷暖房方式を入れるなどの改修を体育館に施した経験もある。障がい者の支援を絶えず行い、現在は東京2020大会に向けてパラスポーツの普及活動に力を入れている。 そんな実績のある大学の荒川キャンパスで2019年3月10日、パラリンピアンの野島弘さんとアイドルの猪狩ともかさんをゲストに招いた「パラスポーツ体験教室」が開かれた。およそ100名の参加者は大人から子どもまで幅広く、パラスポーツの注目度がうかがえる。 イベントは講堂で行われるゲスト2名の対談からスタート。「パラスポーツを楽しむこと」をテーマに、約50分のトークセッションが行われた。 そのなかでも「パラスポーツの秘密」というコーナーは、参加者の満足度が高かった。猪狩さんから野島さんにむけて「選手の年収」「オリパラ選手村の実態」などの疑問が投げかけられるのだが、2006年のトリノパラリンピックに出場した野島さんから飛び出る体験談は非常にユニーク。パラアスリートの裏事情を知れるまたとない機会となった。 対談後半には「王子ホールドスターズ」というボッチャのクラブチームを招いて、野島さんと猪狩さんがボッチャを体験。ボッチャは障がい者スポーツのなかでもルールの簡単さが特徴で、ルールやテクニック、競技としてのおもしろさを学んだ。 対談終了間際には質疑応答の時間が設けられ、「雨が降ったとき、車いすでは傘をさせるのか」「車いすで坂道を下るときは怖くないのか」などの興味関心が飛び交う。 普段何気なく過ごしている日常生活での動作も、車いすで同様にはできないもの。そんな健常者と障がい者の微妙な違いに触れることができたのではないだろうか。ちなみに野島さん、傘をさすのは難しいので男らしく濡れるのだそう。 短い時間ではあったものの、会場一体となってパラスポーツの知識を深められた。イベントをきっかけにして、パラスポーツに対する理解や関心を高め、ぜひ東京パラリンピックへの興味を働かせてほしいと思う。 対談後は同キャンパス内の体育館に移動し、ボッチャの体験会が行われた。 ボッチャボールに触ったことがない参加者が多数占めるなか、チーム分けからすぐに実際のプレーへ。参加者は戸惑いながらも投球の行方に一喜一憂していて、初めてのスポーツも全力で楽しめた印象だ。みんなで盛り上がれるから、やっぱりスポーツはおもしろい。みんなが平等に楽しめる、そんなボッチャの魅力を全身で感じられるひと時を過ごすことができた。 話を聞くだけではなく、まずはやってみる。短い時間のイベントではあったものの、それ以上の満足感を得られたのではないだろうか。「見たことある」「やったことある」そんな小さい会話からでもかまわない。これからパラスポーツを知ってもらうきっかけに少しでもなってくれたらと願っている。 取材・文/編集部 写真/高橋淳司
日常生活への応用を目指して

日常生活への応用を目指して

慶應義塾大学の理工学部が、障がい者の国際的大会「サイバスロン」に参加した。 サイバスロンとは、義肢などを用いて障がい者が勝敗を競うスポーツ。選手の義肢や車いすなどの操作技術が求められる、障害物競走のようなものだ。 競技種目としては6つあるが、慶應大学は「電動車いすレース」部門にエントリー。プロジェクトマネージャーであり、慶應義塾大学名誉教授の富田豊さんに話を伺った。 電動車いす部門は、日常生活において車いすの移動が難しい場面を想定した6つのコース (テーブルにつく、スラローム、上り坂+ドア+下り坂、凸凹道、傾斜道、階段昇降) を8分以内に走行し、その点数を競うもの。 このレースの肝は、車いすの設計。選手にストレスを感じさせない快適さ、そして障害物をものともしない機体の性能を兼ね備えなければならない。 慶應大学は車いす開発の経験が乏しく、競技的な不利は否めない。しかし、「考えていることの100に1が実現されればうれしい」と、富田さんは楽しそうな表情を浮かべる。研究量でカバーしようと、プロジェクトチーム総出で開発に着手しているそうだ。 では、そんなサイバスロン研究になぜ名乗りをあげたのか。それは、いずれは実生活へ技術の応用をしたいという、未来を見据えた考えがあったからだ。 「車いすを使う人たちにとってのインフラは、もっとしっかりするべきだと思います。エスカレーターや段差が障がい者にとって不便なのはわかっていますが、それがなくなりつつあるかといえば、現実はそうでもないですよね。そうした環境が整うまで、私たちが待っているわけにはいきません。それならば、車いすの技術革新に手を伸ばしても良いんじゃないか。そう思ったのがきっかけですね」 と話してくれた。 開発が行われている理工学部のキャンパスまでは、最寄り駅にあたる東急東横線の日吉駅から歩くと急坂がいくつかある。 その難しい道を車いすで移動するにはどうするかなど、日常の光景からヒントをもらうことも少なくないそうだ。   選手同士のレースであるサイバスロン競技も、本当の目的はそうした技術の進歩にある。 階段の昇降や坂を上がる技術が現代の車いすユーザーに本当に必要かと問われたら、答えはわからない。仮に、今の競技用の技術をそのまま転用しても駆動音がうるさく、とても日常生活に入り込める代物ではない。 しかし10年後を考えた場合、どうだろうか。不自由なく車いすが傾斜を駆け上がる姿が世界中で当たり前になっているかもしれない。そうした未来に備えて、この時代に技術を確立させることが大切になるだろう。   現在は学生を交えた研究は行っていないそうだが、後には学部生にも講義をひらき、実際に学生が研究に携わる場を設けたいと話す。 「学生を育てる」という大学の立場を活かし、これからの開発者を輩出していきたいという意気込みも明かしてくれた。 この技術が今後、健常者と障がい者の壁をなくす一歩となるかもしれない。 取材・文・写真/編集部 画像/ETH Zurich/Alessandro Della Bella
日本初「障がい者プロゲーマー」養成所が誕生!

日本初「障がい者プロゲーマー」養成所が誕生!

「eスポーツ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「エレクトロニック・スポーツ」の略称で、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使って対戦相手と勝ち負けを競うものだ。まだまだ馴染みのない言葉ではあるが、アジア大会にも採用された実績がある。 このeスポーツ、日本でも競技人口を徐々に増やしている傾向にある。オリンピックの新種目としても注目されており、2018年には1億円を超える優勝賞金を手にした日本人選手も現れた。「プロゲーマー」と呼ばれる選手の活躍は目覚ましいものがある。 しかしゲームではあるものの、プロともなると激しい動きを伴う場合も多い。障がい者には難しいのではないか。理解の進んでいない業界だからこそ、疑問は尽きない。 そんななか、重度の障がい者でもプロゲーマーを目指すことができる養成所が群馬県伊勢崎市に誕生した。障がい者支援事業を展開する、株式会社ワンライフが手がける介護福祉施設「iba‐sho」(いばしょ)だ。 元々は生活介護のため2017年に介護施設としての活動を開始したが、高齢で重度の障がいを抱える人にもっとやりがいを見つけて楽しんでもらいたいという想いを抱えていた。その願いをきっかけに、施設を運営する傍ら、ゲームをプレーできる環境をつくり上げたという。 どこよりもはやくeスポーツを取り入れたことで施設は独自の価値を生み出した。いまや月に50〜60件ほど障がい者から問い合わせが届き、メディア取材も殺到するように。今後は施設の数を増やしていきたいと代表取締役の市村均弥さんは話す。 施設内では「リーグ・オブ・レジェンド」というゲームを教えている。ボタン入力の速さよりも、戦術で相手を追い詰めることが勝敗を分ける戦略ゲームで、健常者とのハンデが生まれにくい特徴がある。 ゲームのテクニックを指導するコーチが後ろに立って常にアドバイスをするその光景は、まさにスポーツと呼ぶにふさわしい。 時に優しく、時に厳しい指導を受ける障がい者からは、悔しがる声が何度も聞こえた。 使用する機器はまさに革新的。操作面で困らないよう、さまざまな技術が詰め込まれている。 たとえば、口元にある器具はくわえて上下左右に動かすことで、マウス操作の役割を果たす。そこには3つの管がついており、吸ったり吐いたりする動きに「メニューを開く」などのゲーム操作を割り当てることが可能。最大6パターンを自分の好きなようにカスタマイズできる。 その他にも、手元のアダプティブコントローラーと呼ばれるパッド、頬でタッチすることで機能するチューブなどが充実。多彩な拡張性で、どんな人にも快適な環境を提供できる。 障がい者ゲーマーとしてインタビューに応じてくれた越塚竜也さんは「あきらめていたゲームがまたできるようになって、毎日の楽しみが増えましたね。まだ先かもしれませんが、プロとして対戦できるように日々練習していきたいと思います」と、笑顔で答えてくれた。 練習は1日に4時間ほどで、入居者同士の会話もeスポーツを通して増えているそうだ。明るい環境づくりにも一役買っているのかもしれない。 障がいの垣根を越えた真剣勝負が実現する日も、そう遠くはないだろう。
Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(2/2)

Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(2/2)

もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。 チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。 僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。 その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。 でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。 「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」 サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。 その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。 人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。 結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。 2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。 しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。 日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。
Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(1/2)

Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(1/2)

僕の運命が一変したのは、忘れもしない1993年。その年、サッカーJリーグが開幕し、僕も現在のジェフユナイテッド市原・千葉に所属していました。 しかしケガをしたり、同じポジションにリトバルスキーというスター選手が入団したりして、出番が激減したのです。自分より巧い選手はいないと思ってきたので悔しかったし、焦りもありました。そんな不安を抱えながら運転していた11月28日、衝突事故を起こしました。実はその日、結婚式の衣装合わせをすることになっていたのです。 主治医から「車いす生活になる」と宣告されたのは事故から2カ月後。取り乱したりするのはカッコ悪いと思ったので、「はい、わかりました」としか答えなかったです。とにかくひとりになりたい。それだけでした。 〝現実を受け入れる〞なんて、極端な話、今もできていません。でも前を向いて歩けるようになったのは、妻のおかげですね。僕よりたくさん泣いて、こんな自分と事故後まもなく結婚してくれた。彼女が口にした言葉は今も胸に刻まれています。 「ひとりじゃできないことも2人なら乗り越えられる。これからは2人で頑張っていこうよ」 彼女はこんな自分と一緒に生きていこうと言ってくれた。とにかく彼女の想いに応えたいと思いました。自分中心に生きてきた僕にとって、生まれて初めて自分以外の人のために生きたいと思えた瞬間でした。 車いすバスケットボールへの道筋を開いてくれたのも妻です。市役所に障害者手帳の手続きに行ったら、窓口担当者が小瀧修さんだった。当時車いすバスケットのトップチーム「千葉ホークス」の中心選手で、いまは日本車いすバスケットボール連盟常務理事をされている方です。 元Jリーガーだし、絶対に僕がバスケをやるようになるという確信があったのでしょう。あとは小瀧さんの敷いたレールの上を歩いた印象ですね。 リハビリ仲間と初めて車いすバスケをやって、〝できるじゃん〞と思ったのは、小瀧さんに紹介されたリハビリ病院でのこと。プロチームの練習を初めて見たのも千葉ホークス。当初はレベルの高さに圧倒されて尻込みしていました。しかし国体のときに、偶然千葉県代表チームに帯同する機会があり、県代表として参加する千葉ホークスの選手たちのプレーを間近に見て、違う感情がこみ上げてきた。 「コレだな。車いすバスケットでもう一度花を咲かせよう」 妻が競技用車いすを40万円ぐらいで買ってくれました。94年、千葉ホークスに入り練習を始めますが、スピード、ボールを持ったときのドリブル、パス、シュートの精度、車いすの操作の巧さ……、すべてにおいて天と地ほどの差を感じました。必死にくらいついて、ある程度上達はするのですが、その先にまた新たな壁が立ちはだかっている。正直、めげました。でも逃げなかったのは、自分を追い込んだからです。 地元北海道で結婚披露パーティを催したときのこと。 Jリーガーとして活躍するのを楽しみにしていたと言う友人が何人かいました。でも自分は違う人生を歩み始めている。なんか腹が立ってきて、こう挨拶しました。 「車いすバスケットでシドニーパラリンピックを目指すから、応援よろしくお願いします!」 とにかく勝負事が好きなので、言ってできなかったら負け。負けたくないから言ったことは絶対にやる。「有言〝行動〞」が京谷流です。それで僕のスイッチは完全にオンになりました。 車いすを操作するために、手はパンパンに腫れ上がるし、タイヤを素手で止めると、手の皮がたびたびめくれる。でも必死にボールを追いかけました。 Jリーガーの仲間からも刺激を受けました。ジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉の結婚式に行ったとき、はっきり言って寂しかったんです。出席しているのは日本代表のJリーガーばかり。サッカー選手のときには一緒に日の丸を背負って戦ったけれど、今は自分ひとり何もないなと思って、早く立ち去りたかった。でもふと考え直したんです。パラリンピックという舞台でプレーができたら、同じ日本代表だと。あのときですね、日の丸への自覚や責任がワッと甦ってきて、体の芯に「日の丸」がストンと落ちてきたのは。 練習への向き合い方もかわりました。すぐにうまくなるわけはないけれど、うまくいかないこともプラスに捉えられるようになりました。
東京海上 de ボッチャ!

東京海上 de ボッチャ!

東京海上グループは2019年2月、石神井スポーツセンターでグループ会社対抗の「BOCCIA未来塾CUP」を開き、総勢350名を超える社員がボッチャコートを囲んだ。 グループ横断の真剣勝負は大盛況で、参加グループ会社の数は28社にも及んだ。 大会の運営は、「未来塾」が行った。これは、グループ全体の一体感を醸成するため東京海上グループ各社から集まって結成したチームである。 発足してから9期目を迎えているが、大きなイベントとしてボッチャを取り上げたのは今期が初めて。   2期前の未来塾メンバーが、2020年以降も続けられる競技会は何かを検討し、まずは、自分たちでパラスポーツ3種目、シッティングバレー、ゴールボール、ボッチャを体験する機会を設けた。 性別や障がいの有無に関係なくできることを考えた結果、ボッチャを競技会種目に正式決定。2017年6月、当時の未来塾メンバーと東京海上日動の経営企画部オリンピック・パラリンピック室メンバーで「2017BOCCIA未来塾CUP」を開催したことが今大会のはじまりだ。 また、現役パラリンピアンのボッチャを観戦したことでも刺激を受けたようだ。ボッチャへの熱い想いが、グループ会社全体での実現につながった。   ボッチャの利点として、誰もがケガなくできる点、大人も子どももできる点、難しい説明の必要がない点の3つがある。ルールは1回聞けば間違えることはあまりなく、初心者が経験者を脅かすプレーをすることも不可能ではない。競技のシンプルさが何よりの強みだ。   未来塾メンバーは「イベントの盛り上がりとしては想定以上でした。事前に練習して参加してくれた方もいたので驚きましたね」とコメント。 東京海上日動ではボールの貸し出しも行っており、競技の認知度向上にも努めている。「ボッチャがこれからも、ひとつのイベントとして定着していけばと思います」とも話してくれた。 また、本社ビルの1階にある「チャレンジスクエア」と呼ばれるスペースで定期的にボッチャの練習会を開いている。仕事を終えて集まってくるメンバーは、雑談もそこそこにすぐにボールを投げはじめる。 取材時はトーナメント形式で部署同士の対抗戦をしていた。その混戦を勝ち抜いて見事優勝したチームは、なんとボッチャ未経験。ボッチャボールに触れること自体が初めてだったという。 チームのリーダーは「ボッチャの存在は知っていたんですけど、なかなか手が出なくて。でも実際にやってみて、あまりの楽しさに驚きました。ゲームのおもしろさというものが詰まっているなと感じましたね」と、かなりの満足度。 普段集まらない人たちと何気ない会話ができるうえに、勝負に勝つ喜びも味わうことができる。場所を選ばず、ルールも簡単。会社のレクリエーションとして、ボッチャがこれからますます注目されそうだ。   取材・文/編集部 写真/編集部、東京海上日動
「ボッチャ東京カップ2019」の熱戦!

「ボッチャ東京カップ2019」の熱戦!

2019年3月9日、東京都武蔵野市にある武蔵野総合体育館にて「ボッチャ東京カップ2019」が開催された。 勝ち進むとリオパラリンピックで銀メダルを獲得したボッチャ日本代表「火ノ玉JAPAN」が待ち構える、非常にハイレベルな大会だ。   そして、障がいを抱えていない一般チームがエントリーできることも特徴のひとつ。 会場には2018年開催の予選大会を勝ち進んだ健常者チームや大学生チーム、小学生チームが名を連ねた。世界で戦う現役パラリンピアンと健常者の真剣勝負は、ここでしか見られない。 大会の波乱は開始早々。予選リーグでは、武蔵野市大野田小学校の3年生が結成したチームが、ウィルチェアーラグビー日本代表の池崎大輔選手、車いすバスケットボール元日本代表の根木慎志選手らで結成されたチームに勝利した。 年齢や性別に関係なく、同じ土俵で戦えるというボッチャのおもしろさがわかる象徴的な一戦となった。 その後は、予選を勝ち抜いた6チームと、AとBの2チームに分かれた日本代表の計8チームで決勝トーナメントが組まれた。 日本代表の圧倒的なプレーが光るなか、準決勝で「NECボッチャ部(以下、NEC)」という健常者チームに日本代表Bチームが敗れる大波乱に、会場内がどよめいた。   決勝戦は、圧倒的な強さで勝ち上がりを見せた日本代表AチームとNECのカードが実現。NECの点数先行からスタートした試合展開に、観客の注目が一気に集まる。Aチームが必死に食らいつく一進一退の勝負が繰り広げられた。 決勝戦は4エンドで組まれていたが、全エンド終了時点でお互いが3得点の拮抗状態。試合はなんと、今大会特別ルールとなる一球勝負のサドンデスへともつれこんだ。 NECの田村和秀選手が先攻で投げるも、行方は惜しくもジャックボールのわずか手前。チャンスを逃さなかった日本代表の河本圭亮選手が、ピタリと寄せる完璧な一投でNECを下し、Aチームが優勝に輝いた。 「NECチームがすごく強くて、良い試合ができました。やばいと思うところはたくさんありましたけど、チームメイトを信じてがんばりましたので、勝利に繋がったと思います」と、優勝チームを代表して火ノ玉JAPANの杉村英孝選手。 障がい者と健常者、ハンデなく対等にぶつかり合うことのおもしろさは、ボッチャでしか味わえないだろう。 取材・文/編集部 写真/吉村もと
【パラスポ編集部が教える】かんたんボッチャガイド!

【パラスポ編集部が教える】かんたんボッチャガイド!

ボッチャは重度の脳性まひ者や、同程度の重度障がいが四肢にある人のために、ヨーロッパで考案されたスポーツ。 男女の区別なしに障がいの程度でクラス分けがされ、1984年にはパラリンピックの正式競技となった。 激しい運動はないものの、さまざまな状況に対応する選手たちの技術力と集中力で勝敗が決まる。頭脳戦こそがボッチャの最大の特徴だ。 「パドル」という杓子状の板、「キャリパー」というコンパス状のもの、そして距離計測器の「メジャー」が競技用具一式   試合はシングルス・ペア・チーム(3人)の全3種類の形式がある。いずれも長さ12・5m、幅6mの大きさのコートを使用し、勝敗を競う。 選手はコート手前の6つに分かれた「スローイングボックス」と呼ばれるブロックの中でしか、ボールを投げることはできない。 両選手は交互になるようにボックスに入る。   試合は、どちらかの選手が目標球となる白色のジャックボールを投球することではじまる。しかし、ジャックボールは緑色で示した「ジャックボール無効エリア」やコート外に配置することはできない。   ジャックボールの配置を終えたら、いよいよ自分たちのボールを的に近づけるための勝負がはじまる。ボッチャの試合は、互いの6球で得点を計算するまでを「1エンド」として数回繰り返す。 ジャックボールを投げた選手(チーム)が先攻となり、一投目を行う。エンドのはじめは必ず、ジャックボール含めた2球を連続で投げる、ということだ。 そのあとに後攻側がボールを一球投げるが、それ以降は「相手よりも投球をジャックボールに近づけられなかったチーム」が、相手よりもジャックボールに近づけられるまで投げ続ける。 相手の1球に対して、持ち球となる6球をすべて投げきってしまうこともありえるのだ。 微妙な差が生まれた場合、試合中に審判がボールとの距離を測る   頭脳戦が繰り広げられる競技だが、投球にかけられる制限時間は規定で決められている。個人戦やチーム戦といったカテゴリや、障がいのクラスによって異なるが、いずれも4〜7分の設定。 もし6球すべてを投げきる前に持ち時間を過ぎてしまった場合、残りの球を投げることはできなくなる。時間にも気を配らなければならない。   ともに6球投げ終えたらエンドが終了し、得点が計算される。 ジャックボールに最も近づいたボールを投げた選手(チーム)にのみ得点が入り、負けた側の「ジャックボールに最も近いボール」よりも更に近いボール1個につき、1点が加算されるぞ。 この場合は、赤ボールのチームに3点が加算される   ボッチャで使用される用具は、さまざまな工夫がなされている。 ボールは、大きさと重さ(周長が270㎜±8㎜以内、重さは275g ± 12g 以内)がルールで決められているなか、マイボール制をとっていることが特徴だ。 これは、規定に違反していなければ硬さや材質は問わないということ。 ボールに特色を出し、選手の障がいやプレースタイルによってカスタマイズできるところが競技のおもしろさとなっている。   そして、競技用具のなかに「ランプ」と呼ばれる勾配具がある。 これは自力で投げられない選手のプレーを支える道具で、滑り台のような斜面にそってボールを転がすことで、投球を可能にするものだ。 ランプは長さを継ぎ足すことで高さを調節でき、スピードを出したり、遠い距離を狙うこともできる。「アシスタント」と呼ばれるサポートメンバーにボールを設置してもらい、手を使わずにボールを押し出すことで投球を行う。 自身での投球ができない「BC3クラス」という競技クラスに属する選手のみが使用を許されている。 自分の意思をアシスタントに伝えることで競技に参加できるため、特に重い障がいを抱えた選手でも投球できる。どんな人でも楽しむことができるという理念を形にした、ボッチャならではの道具だ。 選手とアシスタントのすばやい意思の疎通が肝!   最後に、ボッチャの奥深い戦略、そして観戦する際に注目するべきポイントを紹介する。いったいどんな作戦を立てているのか。選手の狙いを考えてみると、よりおもしろさを感じることができるかもしれない。 まずは、「的となるジャックボールの位置は自由に動かすことができる」ことだ。 最初の投球で相手の嫌がるポジションに配置することはもちろん、試合のなかで自分のボールをぶつけてジャックボールを移動させることも、相手を追い詰める大事な戦略のひとつになる。 プロはこんなこともできる…っ!   そして、「手元に残る球数が多いほうが圧倒的に有利」ということ。球数が少なくなれば、必然的に仕掛ける戦術も限られてしまうからだ。 相手の理想となる投球コースをまず塞ぎ、ペースを乱すことができれば、一球が大切なボッチャにおいて相手にかかるプレッシャーは相当なものになる。   最後に、ボッチャはその手軽さが魅力のひとつだ。ボールさえあれば会社でも自宅でもプレー可能なため、最近は健常者も競技会を行う場が増加している。 「もっとボッチャを知りたい!」と思ったのなら、まずは一球ボールを投げてみよう。すぐに夢中になるはずだ。 さあ、ボッチャをはじめよう!   取材・文/編集部 写真/吉村もと イラスト/丸口洋平
日本初!知的障がい者女子ソフトボールチーム

日本初!知的障がい者女子ソフトボールチーム

日本で初めて誕生した知的障がい者による女子ソフトボールチーム「武蔵野プリティープリンセス」(以下、武蔵野プリプリ)の代表・ヘッドコーチ、工藤陽介さんは、「パラリンピックでの公式種目になり、そして金メダルを獲ること」と壮大な夢を語る。 チームの発足は2015年。現在は愛知県や栃木県などでも知的障がい者の女子ソフトボールの活動が芽吹いてきた。パラリンピック公式種目に採用されるほどポピュラーなスポーツにしたいという夢が、少しずつ広がり始めている。   工藤さんはオーストラリア体育大学へ留学していたとき、障がい者スポーツを専攻した。2000年のシドニーオリンピックでは、ソフトボール日本代表チームに通訳として参加。そのときパラリンピックと出会った。 2002年に帰国してからしばらくは、スペシャルオリンピックス日本のスタッフとして障がい者のスポーツ活動や全国大会や世界大会などにも関わった。現在はグループホームやデイサービスを運営している法人職員として、利用者や地域の方たちを対象としたスポーツによる社会参加を仕掛けている。 「ひとつの種目に絞り込んで活動したほうが、スポーツの魅力が伝わると考えて、女子ソフトボールに取り組んでいます」   武蔵野プリプリは選手が18名以上のチームになったが、発足当初は選手集めに苦労したという。工藤さんは特別支援学校や、障がい者の働いている特例子会社、福祉施設の相談員、そして行政などを回って、「ソフトボールをしてみませんか」と勧誘を続けた。 そうしてようやく「選手3名から練習を始めた」という。日本初の女子チームということで、いくつもの取材を受けた。その報道を見た家族から問い合わせが入り、やがて現在のような規模になった。   元々、知的障がいの男子では、ソフトボールは盛んな種目。全国大会も開催されている。全国障がい者スポーツ大会にもソフトボール競技がある。けれども女子チームはどこにもなかった。   「女子チームには対戦相手がいないので、中学生の部活チームとの大会を年2回、主催しています」   試合ができるようになるまでの練習もむずかしい。知的障がいがあると複雑なルールや連係プレーを理解することも参加のハードルになるからだ。   「三振をしたらもう打てないということも、理解するには時間がかかった」 繰り返しプレーを確認しながら、覚えていった。しかしここがチーム種目のいいところで、まだプレーを十分に理解できていなくても、ほかの先輩選手がカバーしてくれるから試合に出場することができる。   「しだいに選手間のコミュニケーションがとれるようになりました。家族からは、ソフトボールをするようになって、学校や職場で我慢ができるようなったとの話を聞きます。後輩の面倒をみるような選手もいます」 そして、スポーツは社会へのゲートウェイともなっている。 障がいを持つ子どもの子育てでは、競い合う機会やチャレンジする意欲の少なさが心配されている。周囲の大人たちは、子どもたちのことをついつい守りがちだからだ。 そこでスポーツの力が、子どもたちの背中を押してくれる。高校生選手などは、仕事をしている先輩の背中を追いかけるようになった。   「ソフトボールのことはチームに任せてほしいと、保護者には伝えている。高校生になったら保護者の引率はいらない。なるべく子離れしてもらう」 と工藤さんもそのことを意識する。   選手たちは、練習は厳しいという。そしてプレーの失敗が悔しくて涙を流す。本気で競い合うからこそわき出てくる感情だ。そのなかで、バットにボールを当てられたりと、小さな「できた」を積み重ねていく。その自信が知的障がいのある子どもたちを育てていくのだ。 取材・文・写真/安藤啓一
創業40周年を迎えた、株式会社エイジスの社会的対応力

創業40周年を迎えた、株式会社エイジスの社会的対応力

「『エイジス』は、じつは小売業界の間ではちょっと知れた存在なんです(笑)」   と言うのは、株式会社エイジスの代表取締役社長である齋藤昭生氏。日本初の棚卸業者として創業した同社は、世界各国でリテイルサポート事業を展開。現在、大手コンビニやスーパー、ドラッグストアなど棚卸業のアウトソーサーとして年間約21万店舗の棚卸を請け負っており、国内シェアは約8割という、知る人ぞ知る業界大手だ。   そのエイジスが、創業40周年を迎えた昨年、車いすバスケットボールチーム「千葉ホークス」のオフィシャルサポーター就任を実現した根底には、今は亡き創業者の意思がある。 「私の父である創業者、故・齋藤茂昭は、自宅近くにあった知的障がい者の通勤寮が県の方針で閉鎖されることを知ります。それでよく調べてみたら、当時は障がい者に対するバリアが厚く、自立するためのサポートがまったく不足してたんですね。   そこで父は立ち上がり、2005年に社会福祉法人『斉信会』を設立し、その場所を新たに開所することになります(※斉信会は千葉市花見川区に現在4つの施設を運営)。   父は『この世から障がい者という言葉がなくなる日が来てほしい』といつも言っていました。障がい者、健常者と区別するのでなく、同じひとりの人間として、同じ社会の構成員のひとりとして、その人らしい自立した生活ができる世の中になればいいという想いです。これからもその意思を受け継ぎ、少しでも貢献したいと考えています」   また、エイジスは障がい者の雇用にも積極的で、2010年には特例子会社「エイジスコーポレートサービス」を設立。現在、従業員数40名のうち障がい者30名が就労している。   「長年、障がい者支援活動をしてきましたが、今回新たに『千葉ホークス』への支援が加わりました。じつは、社内研修で代表の田中恒一さんにスピーチをお願いした時、『みなさん、夢はありますか?』との問いに挙手した社員は数人でした。   田中さんには、〝車いすバスケのプロリーグをつくる〞という夢があり、その想いを胸に生きる姿勢は、私を含め、少なからず従業員の心を刺激しました。そしてあらためて確信しました。健常者が障がい者をサポートするだけではなく、障がい者に健常者もサポートされているのだと。 どちらか一方通行ではなく、お互いに共存できる世の中。先代の言う、障がい者という言葉がなくなる世の中へ、少しでも近づくことを夢に、今後も支援を続けていければ、と強く感じています」   エイジスは、昨年日本で開かれた障がい者アートのワールドカップ「パラリンアート世界大会」にも協賛した。 〝この世から障がい者という言葉がなくなる日〞を夢見て、エイジスの活動はまだまだ続く。 取材・文/高橋佳子 写真/高橋淳司
【仮面女子】猪狩ともかの挑戦心(2/2)

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彼女は今年、体力強化やレギュラー獲得などの目標をブログで掲げていた。その進捗をこそっと聞くと、答える前からどこかうれしそう。 「実は、レギュラーの番組が決まったんですよ。こんなにはやく目標を達成できたことが、すごくうれしいです!」 家族には一番に伝えたらしく、一緒に喜んでくれたそうだ。残りの目標もこの調子でクリアしていけるよう応援したい! また、「不幸中の幸いノート」も話題を呼んだ。事故4日後に書きとめたそのリストには、「頭や首が無事」「手が自由」などの前向きな言葉がいくつも書かれている。事故当時の状況に向き合おうという思いに至ったことから始まったというが 「公開したことへの特別な想いはありません。ある取材で大きく取り上げてくれて、そこからまた注目されるようになって……。反響を集めるようになったから、じゃあもっと表に出してもいいやって」 と言っていた。これからも、毎日としっかり向き合っていくと明かしてくれた。 今後もさらに活躍の場を広げていきたいと話す彼女の顔は明るい。これから取り組みたい新しい試みについて聞くと 「クルマの運転です。今は甘えて両親やマネージャーに迎えにきてもらっていますけど、そこをまず変えていきたくて。運転ができれば活躍の範囲も広がって、プライベートで使うことだってできますよね。好きなときに好きなことができるようになることが理想です」 と、即答。車いす生活になってからまだ日は浅いが、何が必要で、何が足りないかをしっかりと理解しているように感じる。なんだかとても頼もしい。 「ちょっとしたことですけど、ベッドとかに乗り移る動作も磨いていきたいと思ってます。左側に移ることには慣れたんですけど、右側はまだ下手。今後はいろんなところに足を運ぶと思いますし、どこでも同じように対応できないといけないから、そのために練習中です」 健常者でいう利き腕のような感覚らしく、慣れるまで相当な時間がかかるらしい。それでも一つひとつをこなせるようになることがうれしいと、決して折れることなく努力を重ねているようだ。 また、2019年2月に、iPS細胞を使って脊髄損傷を治療する臨床研究が進むニュースを見て 「私みたいな人が治る未来がくればいいなと思います。そのために、私から積極的に発信を続けて、まずはiPS細胞と脊髄損傷のことをみんなに知ってもらうことが目標です」 と決心したそうだ。 「まあ期待はしすぎず。するけども、しすぎないようにしていきたいですね」 と、最後まで笑って答えてくれた。彼女の存在は、障がいを抱える人たちの未来を変えてくれるかもしれない。 取材・文/編集部 写真/高橋淳司

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