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パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸

パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸

パラアスリートの軌跡 第14回目を迎える今回は…車いすバスケットボール日本男子チームアシスタントコーチ 京谷和幸のインタビューをプレイバック!(2019年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 元Jリーガーの京谷さんは、交通事故で脊髄損傷を負い、車いすの生活を余儀なくされる。その後、車いすバスケットボールと出会い、どん底から這い上がり、4度のパラリンピックに出場。そのプロセスには、多くの人の応援があった。いまはその恩に報いるため、東京パラリンピックに出場する日本チームのアシスタントコーチを務める。目指すは金メダル。これまでと、2020年にかける熱い想いを語ってくれた。 Jリーガー生命を奪った結婚式間近の交通事故 僕の運命が一変したのは、忘れもしない1993年。その年、サッカーJリーグが開幕し、僕も現在のジェフユナイテッド市原・千葉に所属していました。 しかしケガをしたり、同じポジションにリトバルスキーというスター選手が入団したりして、出番が激減したのです。自分より巧い選手はいないと思ってきたので悔しかったし、焦りもありました。そんな不安を抱えながら運転していた11月28日、衝突事故を起こしました。実はその日、結婚式の衣装合わせをすることになっていたのです。 主治医から「車いす生活になる」と宣告されたのは事故から2カ月後。取り乱したりするのはカッコ悪いと思ったので、「はい、わかりました」としか答えなかったです。とにかくひとりになりたい。それだけでした。 〝現実を受け入れる〞なんて、極端な話、今もできていません。でも前を向いて歩けるようになったのは、妻のおかげですね。僕よりたくさん泣いて、こんな自分と事故後まもなく結婚してくれた。彼女が口にした言葉は今も胸に刻まれています。 「ひとりじゃできないことも2人なら乗り越えられる。これからは2人で頑張っていこうよ」 彼女はこんな自分と一緒に生きていこうと言ってくれた。とにかく彼女の想いに応えたいと思いました。自分中心に生きてきた僕にとって、生まれて初めて自分以外の人のために生きたいと思えた瞬間でした。 車いすバスケットボールへの道筋を開いてくれたのも妻です。市役所に障害者手帳の手続きに行ったら、窓口担当者が小瀧修さんだった。当時車いすバスケットのトップチーム「千葉ホークス」の中心選手で、いまは日本車いすバスケットボール連盟常務理事をされている方です。 元Jリーガーだし、絶対に僕がバスケをやるようになるという確信があったのでしょう。あとは小瀧さんの敷いたレールの上を歩いた印象ですね。 リハビリ仲間と初めて車いすバスケをやって、〝できるじゃん〞と思ったのは、小瀧さんに紹介されたリハビリ病院でのこと。プロチームの練習を初めて見たのも千葉ホークス。当初はレベルの高さに圧倒されて尻込みしていました。しかし国体のときに、偶然千葉県代表チームに帯同する機会があり、県代表として参加する千葉ホークスの選手たちのプレーを間近に見て、違う感情がこみ上げてきた。 「コレだな。車いすバスケットでもう一度花を咲かせよう」 口にして自分を追い込む京谷流「有言〝行動〞」 妻が競技用車いすを40万円ぐらいで買ってくれました。94年、千葉ホークスに入り練習を始めますが、スピード、ボールを持ったときのドリブル、パス、シュートの精度、車いすの操作の巧さ……、すべてにおいて天と地ほどの差を感じました。必死にくらいついて、ある程度上達はするのですが、その先にまた新たな壁が立ちはだかっている。正直、めげました。でも逃げなかったのは、自分を追い込んだからです。 地元北海道で結婚披露パーティを催したときのこと。 Jリーガーとして活躍するのを楽しみにしていたと言う友人が何人かいました。でも自分は違う人生を歩み始めている。なんか腹が立ってきて、こう挨拶しました。 「車いすバスケットでシドニーパラリンピックを目指すから、応援よろしくお願いします!」 とにかく勝負事が好きなので、言ってできなかったら負け。負けたくないから言ったことは絶対にやる。「有言〝行動〞」が京谷流です。それで僕のスイッチは完全にオンになりました。 車いすを操作するために、手はパンパンに腫れ上がるし、タイヤを素手で止めると、手の皮がたびたびめくれる。でも必死にボールを追いかけました。 Jリーガーの仲間からも刺激を受けました。ジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉の結婚式に行ったとき、はっきり言って寂しかったんです。出席しているのは日本代表のJリーガーばかり。サッカー選手のときには一緒に日の丸を背負って戦ったけれど、今は自分ひとり何もないなと思って、早く立ち去りたかった。でもふと考え直したんです。パラリンピックという舞台でプレーができたら、同じ日本代表だと。あのときですね、日の丸への自覚や責任がワッと甦ってきて、体の芯に「日の丸」がストンと落ちてきたのは。 練習への向き合い方もかわりました。すぐにうまくなるわけはないけれど、うまくいかないこともプラスに捉えられるようになりました。 もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。 サッカーの練習法を車いすバスケに応用 チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。 僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。 その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。 でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。 「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」 サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。 その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。 人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。 結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。 2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。 しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。 日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。 きょうや・かずゆき 1971年、北海道生まれ。室蘭大谷高校時代、サッカー選手としてバルセロナ五輪代表候補に選出。91年に当時のジェフユナイテッド市原とプロ契約。93年、交通事故に遭い脊髄損傷を負う。94年に千葉ホークスに入り、車いすバスケットボール選手となる。パラリンピックには、2000年のシドニー大会から4大会連続で出場。北京大会では、日本選手団の主将も務めた。現在、車いすバスケットボール日本男子チームのアシスタントコーチを務めながら、城西国際大学サッカー部で外部コーチをする。09年3月には、京谷さん自身の実話をもとに描いた映画『パラレル』が公開された。現在、ヘッドコーチに就任。 取材・文/西所正道 写真/高橋淳司
パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

パラアスリートの軌跡⑫ ウィルチェアーラグビー 官野一彦

第12回目となる今回は…ウィルチェアラグビー 官野一彦選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) リオ夏季パラリンピックで銅メダルを獲得したこともあり、東京2020パラリンピックでの活躍が期待されているウィルチェアーラグビー。メダリストの官野一彦はこの競技に魅せられてしまった男のひとりだ。 昨年、官野は長年勤めた千葉市役所を退職して本場のアメリカへ武者修行に旅立った。32歳という社会人として責任ある仕事を任されることが増える年齢で、人生をウィルチェアーラグビーに捧げる覚悟を決めた。 「(日本代表が)新しい監督になってから試合に出してもらえなくなった。このままでいいのかという危機感をもっている。アメリカに行って、厳しい環境で自分を鍛えたい」 これまで千葉市役所の職員としては異例の待遇を受けていた。車いすの街づくりを掲げている熊谷市長は、アスリート雇用としての就労環境を整備するために条例改正するまでして官野を応援してきた。日本代表の遠征は公務派遣扱い、週の半分はトレーニングに費やせることになっていた。 そうした職場のサポートも受けながらパラリンピックに挑戦してきたが、さすがに数ヶ月のアメリカ武者修行は休職扱いになってしまう。 「これでは続けられない。家族の生活にはお金が必要だし、ウィルチェアーラグビーのために仕事を失うのは本末転倒だから」そして退職を決意した。 「僕は生活のためにスポーツをしている」 これが官野のスタイルだ。自分のやりたいことをして、家族と生活をしていく人生が理想だ。プロ野球選手になりたくて野球の強豪高校に進学したように、少年時代からの夢を今でも追いかけている。 東京で金メダルを獲るためにアメリカ修行は譲れない。そのためにはアスリート雇用で転職するしかない。そうした決意を周囲に伝えると、数社から誘いを受けることができた。面談をして、お互いのパラスポーツへの理念と条件が一致したダッソー・システムズ株式会社へ入社することにした。 練習環境が整い、昨年10月から約半年間の予定でアメリカのクラブチームに合流することができた。初めて海外チームでプレーしたことからは、東京に向けて多くの収穫があったという。 「自分のプレーが世界でも通用することを確認できた。そして彼らの強さは『ハート』だと気づいた」 官野は障がいの重い選手だ。そのため得点を取りに攻める障がいの軽い選手をアシストする役割を狙っている。野球で例えると6番レフトだろうか。それでもコートではパワーのある軽度の選手にタックルをしかける果敢さが求められる。そうすることで得点を狙う選手を牽制するのだ。アメリカでは自分よりもパワフルな相手にもひるまず挑んでいく『ハート』を学んできたという。 「チームのために、もっと勝負していく選手になりたい」語気を強めてそう話す。 官野は22歳の時サーフィン中の事故で頸椎を損傷。車いす生活になる。そしてある日、近所のディーラーが開催していた福祉車両イベントに来ていたウィルチェアーラグビー選手に誘われた。 「家に帰ってからパソコンで検索するとアテネパラリンピックに初出場していたという記事が出ていた。僕も日本代表になれたら、かっこいいなと思って」 そういった軽い気持ちでウィルチェアーラグビーを始めてみたが、夢中になるまでにさほど時間はかからなかった。 「車いすでぶつかり合うなんて、なんじゃこりゃとビックリした。世間では、車いすの人は守ってあげるものだと思われているがコートでは誰も僕のことを守ってくれない。でも自由に走り回ってくれるのが気持ちよかった」 すぐに70万円の競技用車いすを購入した。決めたらすぐに行動するのが官野のスタイルだ。そして競技を始めた翌年には日本代表に選ばれてしまう。 「試合には出してもらえない名ばかりの代表だったけれども、遠征メンバーに選ばれた時は舞い上がったよ」 その後、代表落ちして本当の厳しさを味わうのだが、まだ競技の奥深さも知らぬまま、パラリンピックの最終予選でシドニーの大会に参加した。そこで官野は衝撃の体験をすることになる。 「観客8000人の大歓声でとなりの人と会話もできないほど。その体育館での入場行進では鳥肌が立った。これほどの人たちを興奮させられるウィルチェアーラグビーに誇りをもつことができた。あの時のことを思い出すと、今でも胸がギュンとなる」 ウィルチェアーラグビーに人生をかけてもいいと思えた。とはいえ、簡単に代表に選ばれ、練習も気持ちが入らないまま2010年には代表落ちの苦い経験もある。 「ふてくされている自分は相当恥ずかしいし、ダサいなと気づいた。今のままでロンドンパラリンピックに出られるわけがない」 一所懸命に頑張り、それで代表に選考されなかった時は諦めようと覚悟を決めて練習を始めた。毎日10㎞体育館で走り込んだ。煙草もきっぱりと止めた。そして体重を落とせたら乗れるように、小さいサイズの競技用車いすを購入。根性だけは、高校野球で身についていたから、自分を徹底的に追い込んでいった。そうして代表に復帰し、ロンドンパラリンピックにも出場することができた。 リオパラリンピックでは銅メダルを獲得。この経験が、官野を新たなチャレンジへと導いていった。 「銅メダルは成功と挫折を同時に味わうようなものだった。メダルセレモニーではうれしくて泣いたけれど、その横で優勝したオーストラリアの選手たちがでっかい声で国歌を歌っているのがすごくかっこよかった。東京で金メダルが獲れて、観客と一緒に国歌を歌えたらどれほどうれしいだろうか」 その経験をしてみたいという夢が、今の官野を突き動かしている。 「障がい者になって、健常者の時よりもよかったと思うことはないけれど、手足の動かない重度障がい者でも自分のやりたいことで飯が食えて、30代になった今でもたくさんのことにチャレンジできている人生はすごい」 家族に理解され、また多くの人たちに支えられている幸せを噛みしめながら、官野は金メダルのために疾走している。 官野 一彦/かんの・かずひこ 1981年8月1日生まれ。千葉県出身。10代のころは高校球児。プロ野球選手を目指していた。社会人になって始めたサーフィン中の事故で頸椎損傷。知人の紹介でウィルチェアーラグビーを始める。すぐに日本代表に招へいされ2度のパラリンピックを経験した。憧れのパラアスリートは元Jリーガー京谷和幸選手(元車いすバスケットボール日本代表)。昨年、金メダルを獲得するための環境を求めてアスリート雇用でダッソー・システムズ株式会社に入社し、アメリカ武者修行も経験した。 取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、安藤啓一
パラアスリートの軌跡⑩ スペシャルオリンピックス日本理事長 有森裕子

パラアスリートの軌跡⑩ スペシャルオリンピックス日本理事長 有森裕子

「パラアスリートの軌跡」連載第10回目は、女子マラソンランナーとして活躍したメダリストであり、現在スペシャルオリンピックス日本の理事長に就任された有森裕子さんのインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) スペシャルオリンピックスは知的障がいのあるアスリートを支援する国際的スポーツ組織だ。4年に1回、夏季・冬季に世界大会を開催。前回2015年、米国ロサンゼルスの夏季世界大会には164カ国から、6500名以上のアスリートが参加。日本からも77名が参加した。その活動を行うスペシャルオリンピックス日本の理事長の彼女がどんな思いで、アスリートたちを応援しているのかを聞いた。 スペシャルオリンピックス(以下SO)との縁をつくってくださったのは、SO日本元理事長の細川佳代子さん、細川護煕元総理の奥様です。 2002年に連絡をいただいて、ドリームサポーターになって活動を応援してほしいと言われました。元力士の小錦さんやテニスの伊達公子さんもサポーターで、私でなにか役に立てればと思ってお引き受けしました。関わり始めて、さまざまな気づきがありました。 たとえば、知的障がいのある人(アスリート)にスポーツの場を「提供」するという表現が理解できなかった。人に聞いて、提供されなければスポーツする機会さえなかったことを初めて知りました。 サポートを難しくしているのは、当事者であるアスリートがどんな環境でスポーツをしたいのかを十分に発信できないことです。結局、組織を支える人の思いや価値観によって環境づくりがされてきた。その価値観も、「参加することが大事」「ナンバーワンよりオンリーワンを目指す」というものです。 幸運とは準備が機会に出会うこと でも、翌03年、アイルランドの首都・ダブリンで行われたSO夏季世界大会に行ったとき、それとは違うシーンを見たのです。確かに勝負を度外視したような選手もいました。重度の障がいのある陸上選手は、スタートしてもゴールを目指さないで応援席に向かって走ってきたり、遅れている子を待ってゴールしたり。 いっぽうで、勝負にこだわるアスリートもいたのです。バスケットボールチームは決勝で負けたのですが、地団駄踏んだり泣いたりして悔しがっていました。 それを見て思いました、勝つことを追求する選手がいるのなら、それを応援する体制が必要だと。また、ひとつの価値観にしばられないで、アスリートに合わせてサポートしたほうがいいというふうにも思いました。 そんなことを考えているうちに、副理事長に、何年かして理事長になってほしいと言われました。スポーツに関わりのある人が組織のトップに立って、SOのことを外に向かって発信してほしかったようです。 理事長になってからは、選手団を率いて、いろいろな大会に行きました。選手と一緒の部屋で寝泊まりして過ごしました。 知的障がいのある人とない人、違うところはあるけれど、同じ部分もたくさんあるんですね。怠ける人もいるし、悪戯をする人もいる。障がいのありなしにとらわれず、普通にシンプルに接すればいいと思いました。 私が理事長になって、これだけはやりたいと思ったのは、一人でも多くの人たちに、スポーツをする機会を提供したいということ。スポーツは、人を変える力をもっているからです。 私はカンボジアで毎年行なわれている「アンコールワット国際ハーフマラソン」の運営に関わってきました。最初はゲストランナーとして参加したのですが、貧困や地雷の問題がある国で、はたしてマラソンに意味があるのかと疑問でした。しかし翌年再訪すると、子どもたちが楽しみにしてくれていた。マラソンは彼らに生きるパワーを生み出していた。スポーツが持つ力を改めて実感しました。そんなスポーツだからこそ、できるだけ多くの知的障がいのある人に経験してほしいのです。 〈幸運とは準備が機会に出会うことである〉 これは、アメリカの人気テレビ司会者オプラ・ウィンフリーの言葉です。知的に障がいがあることが不幸なのではなく、機会に出会えていないことが不幸なのです。スポーツによって人は変化します。世界大会を経験すると、年々成長していくアスリートがいます。すごく積極的になったり、しゃべれなかったアスリートがかなりお話ができるようになったり。私もオリンピックにでて成長することができました。こうした経験を多くの人にしてほしい。その歓びを誰も奪うことはできないのです。 障がいの有無を超えたユニファイドスポーツ [caption id="attachment_2390" align="alignnone" width="320"] スペシャルオリンピック日本には、8250人のアスリートが活動に参加、47都道府県に地区組織がある。ボランティアの数9769人。5216人のコーチがアスリートを指導する(数字は2017年末 写真/安藤啓一)[/caption] この活動をできるだけ多くの人たちに知ってもらうために、オリンピアンたちにドリームサポーターとして参加してもらっています。フィギュアスケートの安藤美姫さん、小塚崇彦さん、柔道の平岡拓晃さんなどです。参加した感想を聞くと、知的障がいのある人がスポーツを純粋に楽しんでいる姿を見て、「スポーツの原点」を再認識したりしている。自分のアスリートとしての経験を、引退後の活動の中でどう生かすかを考える良い機会になるとも思います。 サッカー元日本代表の山口素弘さんには、昨年、シカゴで行なわれたユニファイドフットボールカップの、日本選手団アンバサダーとして参加していただきました。ユニファイドスポーツというのは、知的障がいがある人とそうでない人がチームをつくってプレーするものなのですが、山口さんなどJリーガーなどがコーチ陣に入ると、選手たちがすごく成長するんです。 私も見ましたが、誰がアスリートなのかわからないぐらいになっていました。もともと能力がないわけではなく、やれば普通にできることが増える。生きていく力が育まれるんですね。そういうシーンを目の当たりにすると、こういう機会を増やしたいなとつくづく思います。 最初は教える側も大丈夫かなと思っていたりするんです。でも実際やってみると、「おっ、できるじゃない」と見方がガラっと変わる。当事者たちも変化・成長しますが、その周囲の人たちはもっと変わっている。当事者たちのまわりで起きる変化こそがスペシャルなんです。 今、Jリーグ、プロバスケットボールのBリーグとも提携して、交流ができつつあります。ユニファイドスポーツがもっと全国に広まってほしいと思っています。 アスリートを信じることすると選手は変わる SOの強みは、実は地区組織の厚みです。全都道府県に地区組織があって、非常に活発です。アスリートたちも、その地域の人たちに教えられながら成長しています。 去年11月の富士山マラソンの知的障がい女子の部で優勝した樋口敦子さんは、SOアスリートです。私がコーチをしているわけではなく、地区の人が教えてくださっている。そうした日常的な応援で、十分アスリートは変われるのです。 大事なのはまわりがアスリートを信じること。信じて環境を整えれば選手たちは変わります。 9月に愛知県で、SO夏季ナショナルゲームが開催されました。競泳、テニス、体操など13競技でアスリートたちがそれぞれに力を出してくれました。 スローガンは「超える歓び。」。 これはすごく重要なテーマで、アスリートが自分を超える、周囲の人たちは、知的障がいのある人たちとの間にある壁を超えるという意味もあるでしょう。 そうした活動を通じて、SOに関わる人みんなが元気になってほしい。それが私たちのモットーでもあります。 SOでは、目を見張るような大記録がでるわけではありません。でもスポーツは記録がいくらよくても、意外と記憶に残らないものです。記録に加え、記憶に残るものがあるから感動が生まれる。SOは感動のシーンがたくさんあります。ぜひ参加したり応援したりしてもらえたらと思います。 有森裕子/ありもり・ゆうこ 1966年岡山県生まれ。1989年、リクルート入社。小出義雄監督に見いだされ、90年、初マラソンの大阪国際女子マラソンで日本最高記録を樹立。92年、バルセロナオリンピックで銀メダル。96年、アトランタオリンピックで銅メダルに輝く。98年、スポーツNPO法人ハート・オブ・ゴールド設立。2002年には国連人口基金親善大使に就任。スポーツマネジメント会社ライツを設立(現特別顧問)。2008年、スペシャルオリンピックス日本理事長に就任。   取材・文/西所正道 写真/高橋淳司
パラアスリートの軌跡⑨ パラスノーボード 成田緑夢

パラアスリートの軌跡⑨ パラスノーボード 成田緑夢

「パラアスリートの軌跡」連載第九回目は、パラスノーボード 成田緑夢選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 「成田緑夢、パラスノーボードを引退します!」 2018年3月末。衝撃的な宣言がテレビから飛び出した。平昌冬季パラリンピックで活躍した他のメダリストとともに収録が行なわれた際の、最後のサプライズだった。 「僕の夢、目標はこれからも続きます。その道を進んで行きます!」 成田はとびっきりの笑顔で、そうカメラに向かって叫んでいた。 トランポリンの事故で左足ヒザ下に障がいが残った 〝夢〞という字をもつ名前に見覚えがある人も多いだろう。兄・童夢、姉の今井メロは、ともに2006年のトリノオリンピックで、スノーボードハーフパイプに出場した元選手だ。末っ子の緑夢は熱血コーチの父のもと、兄や姉と一緒に1歳でスノーボードを履いていたという。中学に進学すると、トランポリンとスキーのハーフパイプで夏冬のオリンピック出場を目指していた。 しかし、2013年の春、トランポリンの練習中、着地に失敗。 左足のヒザが逆に折れ曲がるという大事故に見舞われた。腓骨神経麻痺。筋肉や神経が断裂した左足は、ただの棒のような感覚。足首に力を入れることはできないという。 事故の後、軽い気持ちで出場したウェイクボードの大会で優勝。その様子をSNSでアップすると、意外な反応があった。 「障がい者のひとりとして、勇気をもらった」と。 「スポーツには、自分だけでなく知らない人にも勇気や夢を与えられる素晴らしい力がある。そのことに気づいて、改めて競技に取り組もうと思うようになりました」 そうして、パラスポーツを始めた。パラスポーツについてリサーチし、スノーボードクロスがパラリンピック種目になっていることがわかると、倉庫から古いスノーボードを引っ張り出して国内の大会に出場。圧倒的な勝利を収めて強化指定選手となった。 「目の前の一歩を大切に」「日々、挑戦」 パラスポーツを始めた時から、成田が大切にしているキーワードだ。 1本目より2本目、3本目 挑戦した結果の金メダル パラスノーボードは4年前、ソチパラリンピックでアルペンスキーの1種目として正式採用された。 今回、平昌では独立した競技としてスノーボードクロス、バンクドスラロームの2種目を実施。成田は、パラリンピック初出場で、スノーボードクロスで銅メダル、バンクドスラロームでは金メダルを獲得したのだった。 バンクドスラロームはひとり3本をすべりベストタイムで競われる。1本目、成田はトップに立った。 続く2本目、再びトップに。この時、成田は出走前にボードのバインディング位置をビスひとつ分後ろにずらした。 「この日は気温が下がって朝からバーンがカチカチに凍っていたんです。1本目はしっかりターンができるように小回りの利くクルマをイメージしたセッティングにしました。でも、案外思った以上にターンができることがわかって、2本目は、もっと大型エンジンでブォーンと加速するクルマのようなセッティングに変えたんです」 これが、成田の〝挑戦〞だ。そして、それは3本目にも続いた。コース第5バンクで、それまでの2本よりもさらに上から下へ落とす攻めるラインどりですべった。 レギュラースタンスの成田は、障がいのある左足が前になる。足首に力を入れられないため、カカト荷重になるヒールターンが課題だった。それを解消したのが、左足にアルペン用のハードブーツ、右足にソフトブーツという左右非対称のブーツを履くこと。ハードブーツでしっかりとサポートされた左足が、ヒールサイドのシャープなエッジングを可能にしたのだった。 第5バンクはヒールサイドターン。狙い通りのラインで果敢に加速、2本目からさらに1秒ものタイム短縮を実現させトップでゴールした。ライバルたちも2本目、3本目にタイムを更新させている。成田が慢心していたら、あっという間に順位は入れ替わっていただろう。成田は1本目より2本目、そして3本目と、自分で作ったテーマに挑戦し、他を寄せ付ける隙を与えなかった。まさに、完全優勝だったのだ。 「優勝するとかメダルを取ることにフォーカスしていたのではなく、とにかく今すべる1本に挑戦しようと思っていました。守るのって、ワクワクしないじゃないですか。 挑戦してうまくいけば勝てる。ダメでも自分のなかにその結果が蓄積される。もともと何ももってない。守る必要なんか、ない。見ている人にも、ドキドキ、ワクワクを見せられたかな、と思います」 僅差を争っていた2本目、3本目もむしろ成田は楽しんでいた。 「トップで競っていたライバルたちのレベルは半端ないです。そういう世界で優勝できたことは最高にうれしいです!」 要素分解してデータ化 それが夢への近道に 成田が事故後、再びスポーツで目標をもち始めた時の夢、目標は「パラリンピック、オリンピックで活躍し、誰かに勇気や夢、希望を与えること」である。 平昌パラリンピックで金メダルと銅メダルを獲得するという大活躍を見せた成田は、帰国後にさらなる前進のために決断した。 引退は、終わりではない。次のステージへの大きなステップだ。 「事故にあって、実家を離れて自分ひとりでスノーボードを始めた時から、すべてを自分で考えて行動するようになりました」 迷ったり、疑問が出てきたら、スマートフォンのアプリにテーマを入力し、それを要素分解するという。 「この要素は何か、そのまた要素は何かと、階層を追って掘っていくんですよ。分解すると、それはデータ化される。さらにわからないことが出てきたら、別のテーマとして違う方向からアプローチして要素分解する。自分にとって正解が得られたら、そこから逆算すればいい」 こうした緻密な作業が、日々の挑戦につながり、その結果がまたデータとして蓄積されていく。 成田は日頃からユーチューブを活用して、自分のストーリーをタイミングよく発信している。その率直な映像や語り口に共感する人の輪は、どんどん増え続けている。 「すべては、僕の夢につながっています。夢を効率よく達成するために」 2018年、平昌パラリンピック。成田は確かな足跡を残して、新たな一歩を踏み出したのだった。 成田緑夢/なりた・ぐりむ 1994年2月1日、大阪府生まれ。近畿医療専門学校所属。2013年3月にフリースタイルスキーのハーフパイプ世界ジュニア選手権で優勝。2016年からパラ陸上の走高跳、パラスノーボードを開始。スノーボードは2017年に国際デビューしW-CUPで表彰台に上がる。2018 年W-CUPカナダ大会で2冠を達成。現在、陸上走り高跳びに挑戦し、東京パラリンピック出場を目指す。     文/宮崎恵理 写真/石橋謙太郎(スタジオM)
パラアスリートの軌跡⑧ 車いすテニス 国枝慎吾

パラアスリートの軌跡⑧ 車いすテニス 国枝慎吾

「パラアスリートの軌跡」連載第八回目は、車いすテニス 国枝慎吾選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) パラスポーツで2018年最初のビッグニュースは国枝慎吾の全豪オープン優勝だった。ケガに苦しみ、リオパラリンピックの金メダルも逃した元世界王者が完全復活だ。新しいバックハンドを手に入れて、次の目標は全仏優勝。その先には東京の金メダルがある。 2018年1月に開催された全豪オープン、国枝慎吾はステファン・ウデを、4-6、6-1、7-6(7-3)で下し、3年ぶり9回目の優勝を果たした。第三セットはタイブレークまで持ち込み掴み取った渾身の勝利だった。 かつては無敵を誇っていた国枝だが、グランドスラム優勝は2015年の全米オープン以来。2016年のリオパラリンピックではダブルスで銅メダルを獲得したものの、シングルス三連覇を逃している。3年という長いトンネルから、この全豪優勝でようやく抜け出すことができた。 「勝利の味を思い出した。次は全仏での優勝。その先には東京パラリンピックがある」 グランドスラム優勝から長らく遠ざかった理由は右肘のケガ。いわゆるテニスエルボーだ。強烈なバックハンドで世界に君臨してきた国枝だが、その代償として右肘は悲鳴を上げた。リオパラリンピック前には2度目の手術。肘関節のクリーニングをしたものの、痛みが引くことはなかった。「リオはきつかった」痛み止めを打ち出場した、当時のことをつぶやくように振り返る。 「ケガさえなければまだ勝てる自信はあった」 それは右肘の故障を抱えたままでは、もう一度グランドスラムで優勝できないことを意味する。 リオ後の11月からテニスは完全休養。出場を予定していた大会はすべてキャンセルした。4ヶ月間、一切ボールを打たなかった。ケガの不安を抱くことなくコートに立てることが目標だった。 そして翌年2月下旬、もしかしたら完全に痛みが消えているかもしれないと期待して、久しぶりにラケットを握りコートへ出た。しかし、淡い期待はもろくも崩れた。 「右肘の痛みは残っていた」 そして、この痛みこそが国枝に最後の決断をさせた。フォームの改造だ。 今までと同じフォームを続けていたら、休養して痛みが治まっても再発する可能性がある。そこでトップ選手たちのバックハンドを研究した。リオパラリンピックで金メダルを獲ったアルフィー・ヒューイット(以下ヒューイット)は、国枝とは違うグリップのバックハンドで攻撃的なテニスをしている。車いす選手に限らず、高めのボールを狙って打ち込める攻撃的なバックハンドを手に入れて、ボールの威力を強化したいと考えた。 同時に右肘への負担を減らそうとした。これまでのバックハンドはインパクトの瞬間に手首が曲がり肘の外側にストレスがかかっていた。そこで手首を曲げないグリップに変更。トレーナーとも相談して、痛みのメカニズムを理解したうえで改造に取り組んだ。それは新しいフォームにしていいのか迷いながらのチャレンジだった。 「昨年11月まで、古いフォームを捨てきれなかった。1歩下がって2歩進むような改造だった」と国枝は振り返る。 一気にグリップの握り方を変えるのではなく、少しずつずらしながら新しいフォームを試すような日々。順位ポイントのプレッシャーがある試合に出場しながらの改造だった。そのため思い切った変更ができなかった。新しいグリップでも、スイングの軌道は昔のままという中途半端な状態だった。 転機は昨年11月の全米オープンの時にやってきた。6-4、4-6、3-6で初戦敗退という結果。その時の相手は世界1位のヒューイットだった、彼のポジションは国枝にとってはかつての定位置。それが今は追いつき、そして追い越すべき目標選手だ。 この試合では完敗。数字的にはいいところはなかった。 「ショットを打つ時、入らないかもしれないとの思いがあった」 自信を持てないままコートに立っていた。それでも、だいぶよくなってきたと新しいバックハンドの手応えは感じていた。 帰国して自宅マンションのエレベーターに乗り、そこの鏡を使ってシャドースイングをしていた時のことだ。 「あることが閃いて、急激にこのスイングの意味が分かった気がした。翌日にコートへ出て打ってみたら、おもしろいように入った」 新生・国枝慎吾が誕生した瞬間だった。 これは世界最強のバックハンドをもつヒューイットと実践で打ち合ったからこそ掴めたスイングなのかもしれない。 「強い相手と対戦した時は、練習ではできないような実力以上のショットを打てる時がある」 これは別の試合について振り返った時の国枝の話だが、今回の全米オープンにおけるヒューイット戦も同じだったのだろう。 今年の1月、そろそろ結果を出せるのではないかと期待しつつオーストラリアに遠征に旅立った。全豪オープン直前、シドニーオープンの決勝で、ヒューイットに6-4、6-4のストレートで勝つことができた。 「全豪をとれる実感が高まった。自信が得られた」 全豪で優勝できるまで何%の仕上がりなのか、冷静に自分を見極められるようになっていた。 その10日後、全豪オープンで優勝。最強国枝が復活した。 「グランドスラム大会に勝ったことで、気持ちはとても楽になった」 強気で知られる国枝だが、この3年は思い通りのテニスができない不安との戦いを続けていた。金メダルを獲ると言葉にすることで自分を鼓舞しながらも、苦しい日々を過ごしていた。その本心が全豪の優勝で垣間見えた。 「まだ100%とはいえない。進化の途中だ。伸びしろを感じている」 国枝はかつて以上の強気で自信満々に話す。 「これまでよりもパワーがついた。誰よりも試合を組み立てる能力があるから、これで僕の戦術に相手を落とし込める。ショットの完成度を上げることが今の課題だ」 国枝は9歳のころか脊髄腫瘍を発病し、車いすを使うようになる。大好きだった野球ができずふさぎ込んでいた時、母親のすすめで車いすテニス教室に通いはじめた。かつてのインタビューで、こう振り返っている。 「最初の試合は負けて悔しかったけれども、勝負をするドキドキがたまらなく楽しかった」 その思いは今でも続いていて、全豪オープン優勝も引き寄せた。そして勝ちへの思いは東京パラリンピックへの原動力ともなっている。国枝慎吾の最強伝説第2章は始まったばかりだ。 国枝 慎吾/くにえだ・しんご 1984年2月21日生まれ。千葉県出身。9歳の時、脊髄腫瘍のため車いすを使い始める。野球少年だったが、11歳の時、母親のすすめで車いすテニス教室(TTC吉田記念テニス研修センター)に通い始める。大学進学と同時に本格的な選手活動を開始。2004年アテネパラリンピックでは、同じくTTC出身の先輩である齋田悟司と組んだダブルスで金メダルを獲得。07年に年間グランドスラムを達成。09年にプロ転向を宣言した。     取材・文/安藤啓一 写真/吉村もと、ヨネックス提供
パラアスリートの軌跡⑥ アルペンスキー 村岡桃佳 

パラアスリートの軌跡⑥ アルペンスキー 村岡桃佳 

「パラアスリートの軌跡」連載第六回目は、アルペンスキー 村岡桃佳選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 高校2年で初出場したソチパラリンピックから4年。2度目となる2018年3月に行われた平昌パラリンピックで、出場した5種目全てのメダルを獲得した。 滑降の銀メダルで幕を開けた平昌パラ パラリンピックのアルペンスキーの競技スケジュールは、滑降から始まる。競技初日の3月10日、滑降。女子のレースが男子より先に行なわれるため、村岡は日本人選手のトップバッターとなった。 片方が落ち込む難しい斜面で、先にスタートしたライバルがふたりも転倒。その直後に出走した村岡は、「公式トレーニングでも注意すべきポイントだと思っていました。 転倒を知っても、攻める気持ちに揺らぎはありませんでした」と、言い切り最初の銀メダルを獲得した。   翌11日はスーパー大回転。「高速系のスーパー大回転とは思えないほど、左右に大きく旗門が振られていて、攻めるべきポイントと慎重に行かなくてはいけないポイントがせわしなく続いている。溝にスキーを取られて減速してしまうミスもあった」 が、ふたつ目となる銅メダル。 1日のオフを挟んで行なわれた13日のスーパー複合では、1本目のスーパー大回転でトップと0秒32差で2番手につけていた。2本目の回転は、村岡にとっては苦手意識のある種目だ。「でも、1本目で僅差につけたから、絶対に攻めて行こう」と覚悟を決めて2本目に臨んだ。 [caption id="attachment_2328" align="alignright" width="200"] 平昌パラ後すぐにインタビューに答えてくれた村岡選手[/caption] 1本目でトップに立った選手を上回るタイムを叩き出したが、2本の合計タイムにより惜しくも銅メダル。「悔しいです! 回転でソチパラリンピックの女王に勝てたけど、総合力で負けた。でも、これがスーパー複合なんですよね」 しかし、このすべりが最終日の回転に生きてくることになる。 2位に2秒71の大差完勝の大回転 1本目、7番目に出走した村岡は、1分13秒42のタイムでトップに立った。2本目。トップの村岡は最終スタートとなる。村岡はキレのあるカービングターンで果敢に攻め続けた。そうしてゴールすると、2本の合計タイムは2分59秒48。2位とのタイム差は2秒71。ぶっちぎりの勝利。見事金メダルを獲得した。 「これまで大回転のレースでは、1本目でトップをとっていても、だいたい2本目で巻き返されていました。今日は、そんなの絶対に嫌だと思っていた。1秒40のタイム差なんて、私がミスをすれば確実に抜かれてしまう」 平昌パラリンピックに入ってから、もっとも緊張したのが、大回転の2本目だったと、振り返る。 「…意地、ですかね。絶対に今日だけは、やるしかないっていう」 2本目がスタートする頃には気温が14度にまで上がった。斜面は荒れ、苦戦を強いられる選手が続出した。 「スタート直後の1ターンで、あれ、身体が硬い、動かないって感じたのですが、ふたつ目、3つ目って、だんだんと身体の動きやラインどりなどを修正していけた」 パラリンピックの大舞台。真剣勝負のレースのなかで冷静に、自分のすべりを修正してもぎ取った金メダル。 「もう、すごく心臓がバクバクしていてアドレナリンが出まくっている自分と、冷静にそれを見ている自分がいた。そんな経験は初めてでした」 本来、大回転が行なわれるのは大会最終日の予定だった。気象状況により急遽、14日に変更となった。 「大回転が行なわれたのは、本当はオフの予定だった日。それまでの3レースの疲労が残っていて、ゴンドラに乗っても眠くて。インスペクションの後に目を閉じてコースのイメージをトレースしているだけでも、寝そうになっちゃう(笑)」 それでも、スケジュールの変更は村岡に味方した、と感じていた。 「最終日に得意の大回転を残しているより、少しでも先にフルアタックかけられた方がいいかなって」 どんな状況をも、好機と捉えて力に変える。それこそが、トップアスリートの資質なのだ。 そうして、大会最終日に行なわれた回転では、苦手意識を克服し5つ目となる銀メダルを獲得。 [caption id="attachment_2327" align="alignleft" width="300"] 平昌パラリンピックで獲得した5つのメダル。パラリンピックのシンボルと点字が刻印されている[/caption] 「平昌は私に始まって、私に終わるパラリンピックなんですよね」 実は、初日の滑降で銀メダルを獲得した直後、そんな言葉を発していた。村岡の言葉通りに、平昌パラリンピックは幕を閉じたのだった。 183㎝から188㎝へレース直前で出した答え ―平昌では、やはり大回転のすべりが非常に印象的でした。 「初めて出場した4年前のソチパラリンピックの時には、大回転で5位入賞したけれども、最初に出たスーパー大回転は途中棄権。メダルを獲得することは叶わず、〝次こそ〞って思って今回平昌に臨みました。これまでいつも2番とか、3番とか。大回転で優勝した後に国際パラリンピック委員会の特設サイトを見たら〝今まで女王たちの陰に隠れていた村岡が顔を出した〞みたいな書かれ方をしていた。みんなそう思ってたんだなって。まあ、自分も思ってましたけど(笑)。 大輝(森井。日本チームのリーダー)さんが、〝練習通りのすべりをすれば絶対に金メダルを取れるよ〞って言い続けてくれた。練習でならできることが、平昌本番でできずに負けるなんて、絶対にいやだ、という気持ちがありましたね」 ―ソチから4年。この短期間にこれだけ成長してきたのは、やはり男子先輩たちの存在ですか。 「もう、すごく大きいです。大輝さんもですけど、男子座位の先輩たちは、それまでにパラリンピックでメダルをいくつも獲得しているし、ワールドカップの年間総合優勝もしている。そういう先輩たちと、ずっと練習してきたから。だから先輩たちの〝桃佳ならできるよ〞の言葉には説得力があるんです」 ―狩野亮選手が、時には村岡選手の方が計測タイムで上回ることがあったと言っていました。 「2年くらい前からでしょうか。練習ですべった直後とか、〝桃佳、なんでここでスキーをズラしてるんだ〞とか、叱咤激励される。そういうことを繰り返して自然に学んでこられたのかなって思います」 ―それと、大回転では使用するスキーを、それまでの183㎝から188㎝に変えたと言っていましたね。 「女子選手のほとんどは183㎝を使用しているんです。でも、大輝さんが〝桃佳の技術なら188㎝いけるんじゃね?〞って言ってくれて。練習では使っていたんですよ。最初は、5㎝長くなっただけでターンができなかった。でも、練習したらコツが掴めて、そうしたらタイムも一気に上がったんです。平昌に入ってからもすごく悩んでいたんですけど、2種類用意しておいて、インスペクションの後、チューンナップしてくれたスタッフに〝長い方でお願いします〞って言いました」 ―4年間、雪上でのテクニックとともに筋力トレーニングも相当積んできた。だからこそ、5㎝長いスキーをしっかり乗りこなすことができたわけですね。 「インスペクションの時に、結構、バーンが硬かったんです。多分、自分のスタートの時にもこのコンディションは変わらないままいけるだろうと。ただ、コースは大きく左右に振ってあるな、どうしようかなって、思ってたんです。それでも、勝ちに行くために、このスキーを使おうって覚悟を決めました。1本目でしっかりターンができたから、2本目は迷わず188㎝を選んだんです」 [caption id="attachment_2326" align="alignright" width="200"] 開会式、閉会式では村岡が旗手を務めた。そのスタジアムのあるパークでメダルセレモニーが行なわれた[/caption] ―大英断で掴んだ金メダルだったのですね。 「直前に自分で選んだことも、それを使って1番になれたことも、すごく自信になりました」 ―子供の頃に始めたスキーで、ここまで成長した。改めてスキーの魅力って、何ですか。 「終わりがないところ。スキーには世界記録とかないですよね。コースのセットも、雪質もコンディションも、何もかもが毎回違う。そのレースをすべりきった達成感だけが自分のなかに残る。ずっとそれを追い求めていける。そういうところですね」 ―今後は追われる立場です。 「本当はメダルって、もっと遠い先のゴールだと思ってたんですよ。でも、終わってみたら、あれ、ここがスタートじゃない?って」 まだまだ上がある。もっとうまくなりたい。村岡が目指す場所はさらに高いところにある。そこに向かって、村岡は再び歩き始めるのだ。 村岡 桃佳 むらおか・ももか 1997年3月3日、埼玉県生まれ。 早稲田大学4年。4歳の時横断性脊髄炎にかかり車 いす生活に。小学生の時にチェアスキーに出会い、 中学進学後に競技を始める。高校2年でソチパラリ ンピックに初出場。大回転で5位入賞。         文/宮崎恵理 写真/石橋謙太郎(スタジオM)
パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

「パラアスリートの軌跡」連載第四回目は、ウィルチェアーラグビー 島川慎一選手のインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 2018年8月5日~10日にオーストラリアで開催されたウィルチェアーラグビーの世界選手権で、日本はホームのオーストラリアを下し初めて優勝した。リオの銅メダルから2年。躍進の要因は何か。ただ1人、4大会連続出場する島川慎一に聞いた。  ウィルチェアーラグビーがパラリンピックの正式種目になったのは、2000年のシドニー大会から。日本は、04年のアテネ大会に初出場し、リオまで4大会連続出場している。アテネで7位、北京で8位。ロンドンで4位に順位をあげ、リオで悲願の銅メダルを獲得した。 リオから2年。オーストラリア・シドニーで開催された世界選手権で、日本は、パラリンピック2連覇のオーストラリアを62対61で下し初優勝した。 今年43歳の島川慎一は、アテネ大会で最多得点を挙げた選手である。以来、常に日本チームを牽引してきた。 [caption id="attachment_2304" align="alignleft" width="300"] 今大会では女子選手の倉橋香衣も決勝で活躍。選手層が厚くなったことも日本チームの初優勝に結びついた[/caption] 「優勝できた最大のポイントは、準決勝のアメリカ戦でした」 世界選手権では12カ国が2リーグに分かれて予選を戦い、上位2チームが準決勝に進出する。日本は予選でオーストラリアに65対52で敗れていた。 「オーストラリアに負けた後、ケビン(・オアー)監督は、僕らにその試合のビデオを見せませんでした。ケビンが監督になって2年、一度もそういうことはなかった」 準決勝のアメリカ戦。先発ではなかった島川が交代でコートに入ると、主将の池透暢が島川に「10点くらい、引き離してやりますよ!」と、ギラギラ光る目で耳打ちしたという。 「全員が、池と同じ士気でした」日本は51対46でアメリカを下し、決勝進出を決めた。 「僕が初めて日本代表としてアメリカと対戦したのが2002年。他の国との対戦でも、アメリカが一方的に負けた試合を見たのはあれが初めてでした」 [caption id="attachment_2301" align="alignright" width="300"] 日本代表の背番号は13。13番目の選手も一緒に戦うという意味 がこの数字に込められている[/caption] 上肢・下肢ともに障がいがある選手が出場するウィルチェアーラグビーは、コートに入る4人の持ち点(クラス分け)の合計が8点以内でなければならないルールがある。日本は、ともに3・0点の島川、池、池崎大輔のうち2人が交代でコートに入り、守備を担う1点選手2人、あるいは1・5点と0・5点の選手が入るというような布陣でゲームに臨む。 オーストラリアの武器は、3.5点のエース、ライリー・バットの存在だ。世界的スター選手1人が予選でも決勝トーナメントでも、敵対する選手を蹴散らしてゴールする。日本はハイポインター3人が交代でスピードある攻撃を仕掛けていく。 最終ピリオドで逆転される場面もあったが、池崎のスティールで62対61とした。しかし、残り6秒で反対にオーストラリアにボールを奪われた。 「6秒あれば同点、下手すれば逆転さえ起こりうる。でも、そこでオーストラリアに得点を許さなかった。その粘りが最後に勝利を引き寄せたんです」 かつて日本は、ないないづくしだった。資金もない、練習時間もない。東京パラリンピック開催が決まり、リオで銅メダルを獲得し、現在は日本代表選手のほとんどがアスリート雇用。平日でもほぼ毎日、練習に専念できるようになった。 「隔世の感がありますよね」 島川は、アテネパラリンピック後の05年からアメリカの〈フェニックス・ヒート〉というチームで3シーズン、北京後、昨年と5シーズンプレーし、全米選手権の大会最優秀選手賞に輝いた経験を持つ。リオ以降、日本の監督となったオアー監督とも旧知の仲だ。 「とにかく走らされる。コートに出ている間は全力疾走です。ケビンは、どんどん選手を 代していく。交代が早いから、12人全員がコートに入った瞬間から全力を出せるわけです」 コートを3分割し、他の選手と直線的に重ならないように動き続けることも要求される。 「ボールがどんどん動くし、相手選手もばらけていく。これぞ、まさにケビン流です」 東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場となる。 「いや、僕としては次のパリくらいまでは第一線でプレーするつもりです」 もはや、島川にとってウィルチェアーラグビーは「人生、そのもの」。次なる目標は、もちろんパラリンピックタイトルだ。 「リオの悔しさを、東京で晴らします!」 島川慎一/しまかわ・しんいち 1975年、熊本県生まれ。BLITZ、バークレイズ証券所属。21歳の時に交通事故により頸髄を損傷し車いす生活となる。1999年よりウィルチェアーラグビーをはじめ日本選手権に初出場。2001年より日本代表選手に選出される。2004年アテネパラリンピックに初出場し、最多得点賞受賞。2010年の世界選手権、16年リオパラリンピックで銅メダル。       取材・文/宮崎恵理 写真/依田裕章 協力/パラアリーナ
パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

「パラアスリートの軌跡」連載第三回目となる今回は、パラアイスホッケー 堀江航選手のインタビューをプレイバック!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 大学3年で足を切断した後は、車いすバスケでアメリカ留学。卒業後にヨーロッパに渡り名門クラブでプレー。そんな国際派が帰国後、一転パラアイスホッケーを始めた。堀江航はクロススポーツの素晴らしさを体現しながら、初めてのパラリンピックに挑む。  2017年10月。スウェーデンでパラアイスホッケーの平昌パラリンピック最終予選が行なわれた。日本は5カ国中2位の成績で出場権を獲得。その日本チームでディフェンダーとしてプレーしたのが、堀江航である。 「正直、スウェーデンに行く前は4対6くらいの割合で、日本には分が悪いと思っていました。でも、初戦のドイツ戦で勝って、ぐっと平昌に近づいたな、と」 ドイツ戦で堀江は1得点2アシストで勝利に貢献。大会を通して2得点5アシストの活躍を見せ、大会のベストディフェンダー賞を受賞した。 堀江は、小中高とサッカー少年として活躍した。U 12、U 15に出場、高円宮杯全国大会で優勝。 都立駒場高では全国高校サッカー選手権にも出場を果たした。 その後日本体育大学に進学。3年時にバイク事故で左足のヒザから下を切断した。入院中から車いすバスケットボールを始めたいと、チームを紹介してもらったという。 「実際には、大学の授業で障がい者スポーツを学ぶ機会もありましたし漫画『リアル』も読んでいたから、車いすバスケの存在はすでに知っていた。だから、すぐにでも始めようと思っていました」 東京にあるクラブチームでスタートした後、現在日本代表監督を務める及川晋平に出会い、アメリカのイリノイ大学に車いすバスケ留学を果たす。大学院を卒業するとスペイン、ドイツのリーグで約5年間プレーした。2011/ 12シーズンには、ドイツの名門クラブ〈RSVLahn-Dill〉でドイツカップ、ブンデスリーガ、ヨーロッパチャンピオンズカップの3冠を達成し、凱旋帰国する。 「イリノイ大では、バスケのオフシーズンに陸上競技や車いすソフトボール、シッティングバレー、ウェイクボードなどさまざまなパラスポーツに取り組みました。バスケも大好きだけど、他のスポーツも同じくらい面白い。さらに、違うスポーツに取り組むことで新たな視点で身体の使い方を覚えるし、メリハリがあるので、それぞれのスポーツに集中できる。クロススポーツのよさを、目一杯体感できたのが最大の収穫でした」 [caption id="attachment_2290" align="alignright" width="300"] 白帯だが無差別級で優勝経験がある[/caption] 2012年に帰国すると、車いすソフトボール協会を立ち上げ、仲間を集めた。また、一般のブラジリアン柔術にも取り組み、義足を外して全身をフル稼働させている。 そうして、日本でのクロススポーツのひとつとして、パラアイスホッケーに出会ったのだった。「パラリンピックを目指さないか」という誘い文句が決め手になった。 「世界でいろんなスポーツを見てきたけれど、パラアイスホッケーは障がい者スポーツのなかでも競技レベルが高い。クラス分けなどもないので、観戦するにも高度な知識は不要です。アイスホッケーと同様に、選手も観客もゲームに夢中になれる。そこが魅力でした」 始めてすぐに強化指定選手に選出される。しかし、競技経験はゼロ。短期間での上達を求めて、再度渡米する。イリノイ大学時代のチームメイトがいるシカゴのチームで武者修行した。2013年にソチパラリンピック最終予選に出場。 2010年のバンクーバーパラリンピック準決勝でホームのカナダを下し銀メダルを獲得した日本だが、この大会でソチへの出場権を逃した。 その後、2015年の世界選手権にも出場するが、日本はカナダに0対 17という大敗を喫して、Bプールに降格。日本のパラアイスホッケー暗黒の時代に、堀江は放り込まれていたのだった。 堀江自身は、この頃から左肩に痛みを感じるようになり、選手としてプレーを継続させるために15年12月に内視鏡手術を受けている。 「1年間はまともにスポーツができる状態ではありませんでした」 ひたすら地道なリハビリを続けた。16年に北海道・苫小牧で行なわれたBプール世界選手権に出場する時には、直前合宿でやっと氷に乗れたという。 「だから、正直、パラアイスホッケーでは、今でも主戦力という意識はありません。でも、傭兵として力を尽くすことはできる」 世界を舞台に暴れまわっていた車いすバスケでは、日本代表としてパラリンピック出場という機会には恵まれなかった。“傭兵”というポジションで、初めて冬季パラリンピックに挑戦することになる。 「パラリンピック出場は長年思い描いてきたひとつの目標です。実際にその舞台に立ったら、どんな感動があるのか。そこは楽しみです」 一方で、堀江にはいくつもの目標がある。 「たとえば車いすバスケで健常者プレーヤーも4.5ポイントの選手として出場できるようにして日本のリーグを作る。ヨーロッパではそれがすでに実現しています。実際、健常者で車いすバスケを楽しんでいる人は多い。健常者が加わることで競技人口は一気に増えます。必然的に競技レベルも上がる」 協会設立理事でもあった車いすソフトボールでは健常者や障がい児などどんな人も参加できる仕組みを作っている。日本人にとって野球は国民的スポーツ。だからソフトボールへの親和性は高いのだ。 [caption id="attachment_2294" align="alignleft" width="300"] アメリカチームを招いた大会も開催。[/caption] 「パラリンピックの種目にするという働きかけもしていきたいですが、さまざまな人が一緒に楽しめる環境を継続させることはすごく重要だと考えています」 さらに、その土台を作るのは、子どもの体験機会だと強調する。「それこそが、一番やりたいこと。東京パラリンピックが決まって機会は増えているけれども、まだまだ日本には障がいをもった子どもがスポーツする環境が圧倒的に少ないんです」   [caption id="attachment_2293" align="alignright" width="300"] 子どもたちへのソフトボール普及も熱心な堀江Photo:H.Nojima[/caption] 堀江は街を歩いていても、現役選手としてスポーツの現場にいる時にも、子どもの姿を見つけるとすかさず近寄っていく。 「こんなスポーツをやってみないって、子どもをナンパするのがライフワーク(笑)。変な人だと思われてるだろうけど」 現役の選手としてさまざまなスポーツに正面から取り組み、さらには健常者、障がい者の壁を超えたスポーツのチャンスと環境を創出する。堀江航の描く未来は、とてつもなく大きい。 堀江 航/ほりえ・わたる  1975年5月25日、東京都生まれ。幼少時からサッカーに親しみ、ユース(U-15)選手権で優勝、全国高校サッカー出場。大学3年の時交通事故で左膝下を切断。車いすバスケでアメリカ・イリノイ大からにヨーロッパを拠点に活躍した。2012年よりパラアイスホッケーを始め、13年にソチパラリンピック最終予選、15年世界選手権に出場。         撮影/大下桃子、荒木美晴 取材・文/宮崎恵理
パラアスリートの軌跡② 車いすテニス 大谷桃子

パラアスリートの軌跡② 車いすテニス 大谷桃子

  「パラアスリートの軌跡」第2回目は、車いすテニスの国内競争が激化するなか、彗星の如く現れた大谷桃子のインタビューをプレイバック!(2017年07月発売号掲載。現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 硬式テニスでインターハイ出場経験をもち、車いすテニスを始めてわずか一年でだれもが注目する選手となった彼女。夢はグランドスラム優勝、そして東京パラリンピックのメダル。課題は多いが、伸び代は無限大。大谷の道は始まったばかりだ。 車いすテニスは、日本では人気の高いパラスポーツのひとつだろう。 アテネパラリンピックのダブルスで金メダルを獲得し、北京、ロンドン大会のシングルスで2連覇した国枝慎吾を筆頭に、リオデジャネイロパラリンピックシングルスで銅メダルを獲得した上地結衣など、日本人選手が多数活躍する。テレビなどで彼らのプレーを見たことがあるという人は少なくないはずだ。 大谷桃子が車いすテニスを始めたのは2016年の春だった。 兄の影響で、小学3年の時に硬式テニスを始めた。中学3年の時に関東エリアのジュニア選手権に出場し、栃木県の作新学院高校にスポーツ推薦で進学。高校3年の時にダブルスでインターハイに出場した経歴をもつ。 スポーツトレーナーを目指して専門学校に進学した矢先、病に倒れ薬の副作用で身体に麻痺が残った。右足は完全に麻痺し、右手の指も自由に動かすことができない。日常生活でも車いすを使用することになった。右手の握力は6、7㎏程度。自力でラケットを握ることができないため、テーピングを施して固定させている。 本格的に始める半年ほど前に、一度だけイベントで車いすテニスを体験したことがある。 [caption id="attachment_2276" align="alignleft" width="300"] エレッセ、ヨネックスがマテリアルサポート[/caption] 「でも、健常時代にテニスの経験があったから、もうただただもどかしくて」 だから、車いすテニスを継続するかはその時点では未定だった。それでも車いすで身体を動かしたい、何かスポーツをしたいという思いがあり、障がい者スポーツの指導者が多い西九州大学に編入した。 「大学に入ってから、去年(2016年)、初めてジャパンオープンを見に行ったんです。たくさんの海外選手に交じって日本人選手が長い長いラリーをしていた。それを見て、ああ、こういう試合がしたいって、むくむくと闘志が沸き起こったんですね」 そこから、車いすテニスを指導してくれるコーチ探しが始まる。理学療法士の紹介で、現在の古賀雅博コーチに出会った。 「僕もテニスのコーチはしているけれど、車いすテニスの指導経験はない。先輩に相談したら、きっと君ならできると背中を押されて」(古賀) 選手とコーチの二人三脚。車いすテニスへの挑戦が始まったのだった。 「テニスのスキルはなんとかなる。でも、車いすの操作は未熟。だから、古賀コーチとの練習の1時間前にはコートに来て、一人で走り込みをしてました。でも、どういう練習をしたら効果的なのか、まったくわからない。テレビやインターネットの動画で参考になりそうなものを見つけては、片っ端から真似してましたね」 2016年9月、初めて大阪オープンに出場。2回戦で韓国の選手と対戦、見事勝利をおさめる。 この勝利が大きなきっかけとなった。大阪オープン、その1ヶ月後に行なわれた広島オープンで準優勝。11月に国内のトップ選手が出場できる選抜選手権(マスターズ)に出場し、決勝で上地結衣と対戦。第1セットで上地を追い詰めたが、惜しくも準優勝に終わった。 「広島オープンでは、大阪の決勝で負けた相手に、11月のマスターズでは広島オープンの決勝で負けた相手にリベンジできた。大会に出場することで、何を改善すべきかがやっと見えるようになりました」 11月のマスターズには、男子の先輩選手の競技用車いすを借りて出場した。自分専用のテニス車をオーダー、入手したのは、2017年2月に入ってからだ。 「以前レンタルしていた車いすは背もたれやサイドが高くて、プレー中によく肘が当たってアザができていたんです。だからこれを低く設定して作ってもらいました。また、足が痙攣することがあるので、両足の前と後ろに固定するためのベルトをつけています」 マイ車いすとともに、2017年5月、1年前は観戦していたジャパンオープンに出場。メインドロー2回戦でオランダのディード・デグルートと対戦し敗退した。デグルートは現在世界ランキング3位の選手だ。(※2020年世界ランキング1位[2020年3月16日時点、以下同]) 「日本には世界ランク1位の上地選手(※2020年世界ランキング2位)がいますが、ディード選手は上地選手とはまったく違う球種や球筋。負けたけど、本当に世界を目指すための課題と目標が明確になりました」 リターンの強化と、フォアのスイングを改善し、より戦術的に試合を組み立てたいと目論む。   「自分としては男子のプレースタイルが好き。とはいえ、腕に力が入らないから実際にはパワーが少ないんです。上地選手の戦い方はすごく参考になる。どう効果的に打つか、日本人だからこその強みをどう生かすか。一方で、世界の選手がどう上地選手を相手に戦うかを見ることも、とても勉強になります」 [caption id="attachment_2277" align="alignnone" width="300"] ラグビーボール状のボールで腕の振りを確認[/caption] [caption id="attachment_2278" align="alignnone" width="300"] プレー前には右手をテーピング。手の障害をものともせず戦いを挑む[/caption] テニス経験の豊富な大谷の武器は、サーブだ。麻痺している右腕でも、思い切り振り切って、パワーのあるサーブを打ち込むことができる。 「サービスエースはもちろんですが、リターンのミスを誘うなど、こちらの展開にもっていくようなゲームが自分のもち味。そこをさらに磨いていきたいです」   インタビュー当時のシングルスの世界ランキングは40位。 「目指すのは、グランドスラムに出場し優勝すること。そして、東京パラリンピックで金メダルを取ること。たくさんある課題をクリアして進んでいきます」 そう目標を語った3年後の2020年、彼女は世界ランキング9位となった。 才能があったから、運がよかったでもない。彼女はこの3年間で自分自身と向き合い、課題を乗り越え続けてきた。彼女の努力とそれによって積み重なった経験、実力が生んだランキングだろう。 彼女がメダルをもち笑顔で表彰台にいる姿をぜひとも見たくなった。 大谷桃子/おおたに・ももこ 1995 年8 月24日、栃木県出身。エイベックス所属。西九州大学2年。兄の影響で小学3年の時に地元のテニスクラブで硬式テニスを始める。中学3年で関東ジュニアに出場。テニス推薦により作新学院高校に進学し、3年の時インターハイのダブルスに出場。卒業後、病気により体に麻痺が残る。2016年に車いすテニスを開始し、9月の大阪オープンに初出場し、2 位になる。2020 年4 月現在、シングルス世界ランキング9位       写真/吉村もと 取材・文/宮崎恵理
「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えてほしい 【有重 哲 副社長インタビュー】~JXTGエネルギー株式会社~(3)

「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えてほしい 【有重 哲 副社長インタビュー】~JXTGエネルギー株式会社~(3)

“ENEOS”ブランドのサービスステーションで、一般の方にも馴染みがある「JXTGグループ」。 CMや各種障がい者スポーツ団体への支援など、パラスポーツへのサポートが注目されている。 パラ競技会イベントなどにも先頭に立って参加している有重 哲副社長に、同社の考え方や将来への展望をお聞きした。 当社は、JXTGグループの行動基準のひとつである「健全な職場環境の確立」に基づき、社員一人ひとりがダイバーシティ&インクルージョンの重要性を理解して、相互に尊重し、協力し合い、成長しあう組織風土の醸成に取り組んでいます。 本社をはじめとして、全国の事業所(製油所・支店など)でも障がいのある社員が働いており、その障がいに応じた就業に配慮をするとともに、障がいのある社員とそうでない社員がともに気持ちよく働くことのできる職場環境づくりを目指しています。そのような職場環境の実現には、社員一人ひとりの意識が重要です。 東京2020パラリンピック競技大会を機に、パラスポーツに触れることで、楽しく、皆で一緒に盛り上がりながら、まわりの方に「ちょっとした気遣い」ができる社員が増えて欲しいと思います。 企業対抗のパラスポーツ大会にも積極的に参加。「スポーツなので、負けると純粋に悔しいです!」   パラスポーツの応援やパラアスリートとの交流を通じて、社員の視野・考え方の幅が広がっていくといいなと思いますし、その変化も感じています。さまざまな個性をもった社員同士が相手の立場や状況を思いやり、自然に協力し、手を差し伸べられる、そのような暖かみのある職場環境づくりにもつながっていくのではないでしょうか。   また、当社は、スポーツの振興や次世代の育成を積極的に推進しています。社会人チームとして野球部・女子バスケットボール部を運営しており、スポーツを通じた社会貢献活動を推進しています。先ほど申し上げました「ダイバーシティの推進」および「社会貢献活動の推進」の一環として、(NPO)日本身体障害者野球連盟(2007年~)および一般社団法人日本車いすバスケットボール連盟(2006年~)には継続的に協賛しています。いろいろな大会に社員が応援に行って、当社オリジナルの応援グッズを配布するなど積極的に動くことで、大会の盛り上げに協力しています。 特に社員の応援では、2016年から、パラスポーツの応援に参加する社員を「応援観戦サポーター」と名付け、積極的に参加を募っています。現在までにのべ500名以上の社員が応援観戦に参加しました。応援観戦サポーターは、年々増えており、2020年のパラリンピック競技大会では、これまでで一番多くの社員に参加してほしいと考えています。 また、社内においても、東京2020大会に向けて、「知る・観る・参加する」をキーワードに、パラスポーツをより深く理解し、体験する活動を展開しています。社内のレクリエーションとして、ボッチャ大会を開催したり、企業対抗のパラスポーツ大会(オフィス de ボッチャ)に参加したりして、多くの社員がパラスポーツを楽しんでいます。   「パラアスリートの河合純一さんに社内講演会に来ていただき、『目標を持って進んでいくことの大切さ』を改めて実感。感動しました」   2020年の東京パラリンピック大会をきっかけに、パラスポーツの魅力に触れ、一生に一度の感動を味わってもらい、2020年以降もパラスポーツの応援観戦や大会の運営ボランティアへの参加を自発的に継続してほしいと思います。 そのようなところから生まれる、個人のちょっとした意識の変化が、「人権を尊重し、誰もが働きやすい職場環境」づくりにつながっていくのではないかと思います。   ありしげ・さとし JXTGエネルギー(株)取締役 副社長執行役員。山口県出身。1980年九州大学卒業、日本石油入社。2008年 新日本石油(株)CSR推進部長、2010年 JXホールディングス(株)総務部長、2012年 JX日鉱日石不動産(株)常務取締役、2014年JX日鉱日石ビジネスサービス(株)代表取締役社長、2016年 JXビジネスサービス(株)代表取締役社長、2016年 JX不動産(株)代表取締役社長、2017年4月より現職。       text:PSM  photo:Junji TAKAHASHI        
障がいのある方が作る、おいしいパンが社内で大人気!~JXTGエネルギー株式会社~(2)

障がいのある方が作る、おいしいパンが社内で大人気!~JXTGエネルギー株式会社~(2)

JXTGエネルギー株式会社では、定期的に本社ビルで、障がいのある方が製造・販売する『ころ・ころ』のパン販売会を開催しています。障がいのある方が活躍できる社会づくりへの貢献の一環として行っているもので、毎回、会場前にはオープンを待つ社員の長蛇の列ができる、大人気のイベントです! 『ころ・ころ』を運営するコロニー中野は、社会福祉法人東京コロニーの一事業所で、身体・知的・精神の3つの障がいを対象に「障がいのある人が働くため」の就労継続支援事業A型(雇用型)とB型(非雇用型:いわゆる施設利用者)、「就職するための支援と訓練を行う」就労移行支援事業、障がいが重くても「働く」ということに主軸を置いてサポートを行う生活介護事業の4つの機能を持つ、定員80名の多機能型事業所です。 『ころ・ころ』は2008年5月に店舗営業を開始し、現在9名の障がいをもった方が働いています。就労を目指す人は接客、清掃、厨房作業を通してビジネスマナーの習得や作業効率の向上に取り組み、それ以外の人は日々の作業の中で少しでもできることを増やせるように日々取り組んでいます。   『ころ・ころ』の最大の目的は利用者の就労支援です。就労移行ではパン作りや接客を通して、より一般就労に近い形で労働経験ができる『ころ・ころ』でしっかりと社会人としての基礎を身につけてもらい、就労に必要な支援をしています。また、ここで継続して働くことを希望する利用者(B型利用)のためには働きやすい環境作りと売上アップによる工賃の向上を目指した取り組みを行っています。 福祉施設とはいえ売上確保は絶対条件。そのため法人内の他事業所への販売を手始めに、近隣の施設との委託販売の契約、地域の企業への昼食販売やイベントへの出張販売など外部販売に注力しています。 パンの種類としては、特に天然酵母の「あこ」酵母を使ったパンに力を入れており、体に良い材料だけを使用。パンだけではなく、ベーキングパウダーを使用せず焼き上げるシフォンケーキや、グラノーラ、クッキー類の焼菓子も人気です。また、中野在住のフルーツカッティング界で著名な平野泰三先生から「中野区逸品コンテスト」でグランプリに輝いた「生フルーツゼリー」レシピの無償提供を受け、製造販売をしています。   店舗には地域のグループの方や夫婦、親子連れが昼食やティータイムに来店、地域の憩いの場としても利用されています。現在では売上も年商1400万を超えるまでになり、 「さらに多くの方に利用していただく就労支援の場として工賃アップと処遇改善のため、これからもおいしいパン作りに励んでいきたい」、とのこと。今後も活動に注目です!
“本気で” パラスポーツを 応援します! ~JXTGエネルギー株式会社~(1)

“本気で” パラスポーツを 応援します! ~JXTGエネルギー株式会社~(1)

選手への活動支援や大会運営のサポート、普及活動への協力など パラスポーツを応援する企業が増えている。 ENEOSのガソリンスタンドを展開しているJXTGエネルギーは、 オリンピックとパラリンピックを分け隔てなく、 「東京2020を目指すすべての人に熱いエネルギーを。 その想いで今こそひとつになろう」とスポーツを応援している。   JXTGエネルギーは東京2020ゴールドパートナー(石油・ガス・水素・電気供給)として東京大会をバックアップするだけでなく、社員が試合会場でスタッフとしてボランティアしたり、観戦してスポーツを盛り上げるなど、選手たちとともに活動している。 2019年5月10日~12日に開催された「天皇杯 第47回日本車いすバスケットボール選手権」は、車いすバスケットボールの日本チャンピオンチームが決まる伝統の大会だ。同社は協賛企業として開催を支えるととともに、多くの社員が応援観戦サポーターやボランティアとして参加した。 大会会場は東京パラリンピックで同種目の会場となる武蔵野の森総合スポーツプラザ。そのため、2020年のパラリンピックを目指す選手たちにとっては、本番へ向けてのテストマッチとして例年以上に重要な大会となった。 同社社員の西村元樹さん(根岸製油所 製油技術Gr.)も「パラ神奈川スポーツクラブ」のメンバーとして出場。結果、4位となったが、西村さんは、「今大会はキャプテンとして臨んだ初めての天皇杯でした。日に日にチーム力が上がっていくのを実感していましたが、力及ばずベスト4という結果。個々の力は十分そろっていると思うので、来年はチームとしての底力を強化し優勝を勝ち取ります」 と、新たな目標に向かって練習を再開している。 車いすバスケットボールはスポーツエンタテイメントとしても注目されている。今大会には有料チケット席が用意され、総勢1万8千名を超える観客が来場して、選手たちに熱い声援を送った。 同社からも総勢54名の社員とその家族がENEOS応援観戦サポーターとして参加した。同社キャラクターのエネゴリくんタオルや応援グッズを手に、選手たちの迫力あるプレーに圧倒されながら、西村さんをはじめ多数の選手を声がかれるまで応援した。これまでに500名以上の社員が観戦を経験しており、社内にはパラスポーツファンが急増中という。     左)東京2020パラリンピックを目指す選手への応援メッセージをハート型の折り紙に書いて届けるENEOSおりがみPROJECTを展開している 右)参加者の笑顔があふれる体験イベントも積極的に開催。ボランティア参加する社員も一緒になって楽しむ   JXTGエネルギーが協賛するパラスポーツ (一社)日本身体障害者スキー協会〈全国身体障害者スキー大会〉 日本身体障害者スキー協会が主催する「全国身体障害者スキー大会」は、1972年から開催され、障がい者スキーの普及とスキーを通した障がい者の社会参加の促進につながる大会となっています。JXTGエネルギーは1981年より同大会をサポートしています。   (一社)日本身体障がい者水泳連盟〈日本パラ水泳選手権大会〉 日本身体障がい者水泳連盟が主催する「日本パラ水泳選手権大会」は、1984年から開催され、水泳競技の魅力を知ってもらうとともに、東京2020パラリンピックへつながる大会となっています。JXTGエネルギーは2016年より同大会をサポートしています。 (NPO)日本身体障害者野球連盟〈身体障害者野球大会〉 日本身体障害者野球連盟などが主催する「全国身体障害者野球大会」は、1993年から続く身体障がい者野球の国内最大規模の大会で、加盟37チームの中から、地区予選成績をもとに選抜された16チームが日本一を目指して戦います。JXTGエネルギーは2007年よりサポートしています。

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