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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

感覚をフル活用し、ボールを操れ!(その1)

感覚をフル活用し、ボールを操れ!(その1)

NPO法人日本ブラインドサッカー協会が主催する、ブラインドサッカーの体験会「OFFTIME(オフタイム)」に参加した。 目を隠し、運動やボールを蹴ったりする体験会は、19時を少し過ぎたあたりからスタート。ほとんどの参加者が社会人だ。日本ブラインドサッカー協会の担当者曰く「企業の研修プログラムとしても利用されています」というのだが、果たして。 たまに友達とサッカーやフットサルを楽しんだりしていたので、それなりに様にはなるだろうと参加した体験会。スタート早々、いきなり挫折感を味わう。 まず、準備体操から始めるのだが、いきなり目隠し。ふたりひと組になり、ひとりが目を隠し、もうひとりが目を隠さずファシリテーターが行なう体操を見ながら目を隠したパートナーに指示を出し体操をさせるという課題が課せられた。これがなかなか難しい。他人の動作をわかりやすく瞬時に目の見えない人に伝える。簡潔にわかりやすく言葉を選びたいのだが、なかなか見つからない。結局、うまく伝えられず唸ってしまう。 次に参加者全員が目隠しをして、血液型が同じ者同士で集まり何人いるかを確認するというプログラム。今回の参加者は18人。いくつかのルールを元にスタート。とくに、やり方などは指示されないので、最初は全員「どうすればいいんだ!?」的な空気が漂う。目隠しをしているので周りがどのような状態かわからないなか、次第に声を出さないことには始まらないとなり、四方八方で「A型の人〜」「B型の人〜」と始まる。いろいろと声をかけ合い、なんとか同じ血液型同士で集合し号令をかけるように人数を数える。 いくつかのプログラムをこなし、後半はボールを蹴るプログラムとなったが、これがまたうまくいかない。ブラインドサッカーのように、転がると音が出るボールを使うのだが、「目が見えないということは相当に不自由だ!」という思いだけが頭を支配する。音を頼りにボールを追いかけ、止め、蹴りたいのだが、いちいち不安になる。どこにあるのかわからないボールを老人のようにゆっくりとした動作で探す。俊敏にできない!
年齢や障害の有無を超越してスポーツを楽しむ (その2)

年齢や障害の有無を超越してスポーツを楽しむ (その2)

「世界でいろんなスポーツを見てきたけれど、パラアイスホッケーは障がい者スポーツのなかでも競技レベルが高い。クラス分けなどもないので、観戦するにも高度な知識は不要です。アイスホッケーと同様に、選手も観客もゲームに夢中になれる。そこが魅力でした」 始めてすぐに強化指定選手に選出される。しかし、競技経験はゼロ。短期間での上達を求めて、再度渡米する。イリノイ大学時代のチームメイトがいるシカゴのチームで武者修行した。2013年にソチパラリンピック最終予選に出場。2010年のバンクーバーパラリンピック準決勝でホームのカナダを下し銀メダルを獲得した日本だが、この大会でソチへの出場権を逃した。 その後、2015年の世界選手権にも出場するが、日本はカナダに0│ 17という大敗を喫して、Bプールに降格。日本のパラアイスホッケー暗黒の時代に、堀江は放り込まれていたのだった。 堀江自身は、この頃から左肩に痛みを感じるようになり、選手としてプレーを継続させるために15年12月に内視鏡手術を受けている。 「1年間はまともにスポーツができる状態ではありませんでした」 ひたすら地道なリハビリを続けた。16年に北海道・苫小牧で行なわれたBプール世界選手権に出場する時には、直前合宿でやっと氷に乗れたという。 「だから、正直、パラアイスホッケーでは、今でも主戦力という意識はありません。でも、傭兵として力を尽くすことはできる」 世界を舞台に暴れまわっていた車いすバスケでは、日本代表としてパラリンピック出場という機会には恵まれなかった。“傭兵”というポジションで、初めて冬季パラリンピックに挑戦することになる。 「パラリンピック出場は長年思い描いてきたひとつの目標です。実際にその舞台に立ったら、どんな感動があるのか。そこは楽しみです」 一方で、堀江にはいくつもの目標がある。 「たとえば車いすバスケで健常者プレーヤーも4・5ポイントの選手として出場できるようにして日本のリーグを作る。ヨーロッパではそれがすでに実現しています。実際、健常者で車いすバスケを楽しんでいる人は多い。健常者が加わることで競技人口は一気に増えます。必然的に競技レベルも上がる」 協会設立理事でもあった車いすソフトボールでは健常者や障がい児などどんな人も参加できる仕組みを作っている。日本人にとって野球は国民的スポーツ。だからソフトボールへの親和性は高いのだ。 「パラリンピックの種目にするという働きかけもしていきたいですが、さまざまな人が一緒に楽しめる環境を継続させることはすごく重要だと考えています」 さらに、その土台を作るのは、子どもの体験機会だと強調する。 「それこそが、一番やりたいこと。東京パラリンピックが決まって機会は増えているけれども、まだまだ日本には障がいをもった子どもがスポーツする環境が圧倒的に少ないんです」 堀江は街を歩いていても、現役選手としてスポーツの現場にいる時にも、子どもの姿を見つけるとすかさず近寄っていく。 「こんなスポーツをやってみないって、子どもをナンパするのがライフワーク(笑)。変な人だと思われてるだろうけど」 現役の選手としてさまざまなスポーツに正面から取り組み、さらには健常者、障がい者の壁を超えたスポーツのチャンスと環境を創出する。堀江航の描く未来は、とてつもなく大きい。 取材・文/宮崎恵理
年齢や障害の有無を超越してスポーツを楽しむ (その1)

年齢や障害の有無を超越してスポーツを楽しむ (その1)

2017年10月。スウェーデンでパラアイスホッケーの平昌パラリンピック最終予選が行なわれた。日本は5カ国中2位の成績で出場権を獲得。その日本チームでディ フェンダーとしてプレーしたのが、堀江航である。 「正直、スウェーデンに行く前は4対6くらいの割合で、日本には分が悪いと思っていました。でも、初戦のドイツ戦で勝って、ぐっと平昌に近づいたな、と」 ドイツ戦で堀江は1得点2アシストで勝利に貢献。大会を通して2得点5アシストの活躍を見せ、大会のベストディフェンダー賞を受賞した。 堀江は、小中高とサッカー少年として活躍した。U│ 12、U│ 15に出場、高円宮杯全国大会で優勝。都立駒場高では全国高校サッカー選手権にも出場を果たした。 その後日本体育大学に進学。3年時にバイク事故で左足のヒザから下を切断した。入院中から車いすバスケットボールを始めたいと、チームを紹介してもらったという。 「実際には、大学の授業で障がい者スポーツを学ぶ機会もありましたし漫画『リアル』も読んでいたから、車いすバスケの存在はすでに知っていた。だから、すぐにでも始めようと思っていました」 東京にあるクラブチームでスタートした後、現在日本代表監督を務める及川晋平に出会い、アメリカのイリノイ大学に車いすバスケ留学を果たす。大学院を卒業するとスペイン、ドイツのリーグで約5年間プレーした。2011/ 12シーズンには、ドイツの名門クラブ〈RSV Lahn│Dill〉でドイツカップ、ブンデスリーガ、ヨーロッパチャンピオンズカップの3冠を達成し、凱旋帰国する。 「イリノイ大では、バスケのオフシーズンに陸上競技や車いすソフトボール、シッティングバレー、ウェイクボードなどさまざまなパラスポーツに取り組みました。バスケも大好きだけど、他のスポーツも同じくらい面白い。さらに、違うスポーツに取り組むことで新たな視点で身体の使い方を覚えるし、メリハリがあるので、それぞれのスポーツに集中できる。クロススポーツのよさを、目一杯体感できたのが最大の収穫でした」 2012年に帰国すると、車いすソフトボール協会を立ち上げ、仲間を集めた。また、一般のブラジリアン柔術にも取り組み、義足を外して全身をフル稼働させている。 そうして、日本でのクロススポーツのひとつとして、パラアイスホッケーに出会ったのだった。「パラリンピックを目指さないか」という誘い文句が決め手になった。
人間の能力に限界はない 中森邦男さん

人間の能力に限界はない 中森邦男さん

「人間の能力に限界はない。これを感じてほしい」 日本障がい者スポーツ協会日本パラリンピック委員会事務局長の中森邦男さんはパラスポーツの魅力について、このように説明する。パラアスリートは視覚障がい、四肢の欠損や麻痺といった身体障がいのため運動に限界がある選手たちだと思われがちだ。ところが、種目によってはオリンピック競技を上回る記録も誕生している。 ナショナルチームに選抜されるトップアスリートのパフォーマンスは、そうした先入観を吹き飛ばしてくれる。一般の健常者ではとうてい不可能な速さと力強さ、巧みさだ。 3 月に平昌冬季パラリンピックが開催されるが、日本におけるパラスポーツの源流は196年の東京パラリンピックに行き当たる。 「当時、パラリンピックに参加できる脊髄損傷者は護られるべき人で、スポーツなどの激しい運動は禁忌でした」 そのような時代だから旧文部省や日本体育協会は障がい者にスポーツを推奨できなかった。そこで医師などが中心となり64年の東京パラリンピックは準備された。その管轄は障害者福祉の旧厚生省だった。 「障がい者の社会参加や自立支援としてのスポーツでした。ヨーロッパなどの選手たちが強くなってくると、少しは選手強化の予算がつくようになってきたけれど、それもオリンピックと比べるとわずかでした」 それが現在のように競技スポーツ化するきっかけは、2011年に制定されたスポーツ基本法。このなかに障がい者スポーツの推進が明記された。その3年後、パラスポーツに関する政府の事業が厚生労働省から文部科学省へと移管された。このことにより、国の政策でも障害者福祉からスポーツとなった。 「オリンピックと一体の開催を目指しています。そのために協会や各競技団体も組織力を強化してきました。さらに選手強化ではオリンピックスポーツとの連携を進めています」 オリンピック選手強化で使用されていた、東京都北区西が丘にある国立スポーツ科学センターや味の素ナショナルトレーニングセンターがパラリンピックの強化選手にも開放された。「風洞実験室ではチェアスキーのカウルを開発しています」 その他、各競技に専任コーチや専任トレーナーに報酬を支払えるようになった。 「専任コーチは全競技合計で2015年に17名でした。それを3年間で50名に増やすことができました」 これまでは会社員、教員や団体職員などの仕事をしながらコーチやトレーナーをボランティアでしていた。それは世界レベルの選手強化をする時の課題だった。 国全体でパラスポーツ強化が進んでいる。日本パラリンピック委員会が掲げる東京夏季パラリンピックの目標は国別金メダル獲得数7位。リオパラリンピックでの0個から大躍進を目指している。 「平昌冬季パラの勢いを東京大会へつなげたい。冬季選手の活躍を期待しています」
パラ水泳のいま、そして未来(その3)

パラ水泳のいま、そして未来(その3)

一般社団法人 日本身体障がい者水泳連盟 常務理事 技術委員長 櫻井誠一さん インタビュー   大切な科学的視点   「障がい者の選手を指導するときに、どういう風にすれば抵抗が少ない泳ぎができるのかを知りたいと、日本水泳・水中運動学会で科学的な研究をしているメンバーに声をかけました。大阪教育大学の生田泰志先生、大阪経済大学の若吉浩二先生などの協力を得て、レース、トレーニングを徹底的に科学の視点から分析しました。障がいとの関係性も含めてです。動作解析、栄養分析、心理分析など、科学的アプローチを障害者スポーツの場にも活用したのです」 その結果、たとえば脳性麻痺の選手は「緊張性不安」の部分で高い数値が出やすいことがわかった。では日頃の練習の時から、緊張を抑える訓練をど取り入れようという検討を開始。また筋収縮が激しいので、練習の間でもマッサージを多く行おう、といった対応も始めた。 身体の使い方の面では、右脚の膝下欠損の選手は右足でのキックができないので、左側に顔をあげて息継ぎをすると、身体が回りすぎてしまう。戻しの時に修正を入れる必要があるので、水の抵抗も大きくなってしまうので、逆に顔をあげよう、といった指導をするようになった。   パラスポーツがもっと注目されるには? という質問に対して、櫻井さんは、 「オリンピック競技の種目の一つとしてパラの競技が入るのが、本当は一番いいと思います。オーストラリアなどの大学の水泳大会では、一般の一〇〇メートル自由形の次は、S9のレースが入っていたりします。神戸の市民大会はパラの選手を全部出して国際公認しています。この方式を広めようと思っていますが、運営に細かい工夫も必要となります。また行政の縦割りの問題も顔をのぞかせます。これからの時代は、イベント事業は上手く仕切れるマネジメントのプロ集団に任せるべきなのでしょう」 「神戸市は、都市経営の優良モデルとして『株式会社神戸市』と言われ、いろいろなことにチャレンジし、成功・失敗を繰り返していました。私自身もあらゆる場面で経営・マネジメントの部分で駆り出されました。実はこのことがとても役立ったと思っています」 大きなストライドで背筋をぴんと立てて歩く櫻井さん。その目指す場所は、2020年のその先であることは間違いない。  
パラ水泳のいま、そして未来(その2)

パラ水泳のいま、そして未来(その2)

一般社団法人 日本身体障がい者水泳連盟 常務理事 技術委員長 櫻井誠一さん インタビュー   世界はまだ先にいる…   その後は、全国の障がい者スイマーにも指導をしてほしいということになり、技術委員という形で団体(日本障害者水泳連盟)に入り、1993年にマルタ共和国で行なわれた第一回IPC世界水泳選手権大会には日本代表チームの監督として参加。1996年のアトランタパラリンピックはヘッドコーチとして、2000年のシドニーパラリンピックには再び監督として参加。世界のパラアスリートを目の当たりにすることになった。 「オーストラリアやニュージーランドでは地域クラブ制がきれいに敷かれていて、そのクラブにはオリンピック選手もいれば障がい者もいる、ジュニアもいればお年寄りもいる。みんなが同じプールを使って泳いでいるんです。コーチもボランティアではなく、そのクラブに所属しているプロ。トップ選手、パラスイマー、一般の水泳ファンもみんなを教えるんです。日本のように学校体育の中で水泳を教えるようなことはありません」 健常者と障がい者の垣根がない社会がそこにあった。シドニーパラリンピックではオリンピックの施設がそのままパラリンピックの施設として使用された。 「2008年のロンドン大会も印象的です、『ストーク・マンデビル競技大会』(障がい者による最初の国際競技大会。パラリンピックのルーツと言われている)の母国でもあり、障害者スポーツを一般のスポーツとまったく同等に応援する、アスリートのパフォーマンスを心から楽しむという視点での取り組みでしたね」   ロンドン大会の前後から、世界の主要国では一般スポーツとパラスポーツの組織が統一されてきた。ただ、日本はまだそうなっていない。行政の組織、仕組みを変えることができていない。ようやくスポーツ庁ができて大きな流れは変わったが、それが地方行政では未だに教育委員会の流れと福祉の流れに分かれてしまっている。 「東京のレガシーは、そんな『仕組み』を変えていくことだと思うのです。 『共生社会』を目指そう、と旗は振られていますが、それを実現するためのプロセスや手法についてはあまり議論されずに、キレイな言葉だけが飛び交っているように感じています。『共生社会』は『排除しない』という観点なのです。一人一人が持っている個性があり、それを排除するには合理的な理由が必要で、それを常に問いかけていないといけない、そして共存を目指すというのが共生社会なのです。本質の部分や具体的な問題点に踏み込んでの議論が日本人は苦手なのです。 スポーツ庁ができて、一歩ずつ前進はしています。ただ正直4年くらい早ければよかったな、と思いますね」   (続く)
パラ水泳のいま、そして未来(その1)

パラ水泳のいま、そして未来(その1)

一般社団法人 日本身体障がい者水泳連盟 常務理事 技術委員長 櫻井誠一さん インタビュー   「小学校のとき、泳ぐのはもっぱら海でした。今のように学校にプールはありませんでしたし、海洋訓練のようなものがあって、『ここからここまで泳げたら水泳帽に線○本!』という世界です」   ご自身の水泳歴を語る櫻井さんは、笑顔に満ちている。高校の水泳部で活躍、大学卒業後に神戸市役所に就職し水泳部に入った。 当時は1964年の東京オリンピックのレガシーでもある実業団チームが華やかなりし時代。鉄鉱、造船など重厚長大産業の会社が、いろいろなスポーツのチームを抱えていた。 また神戸市は1981年に神戸ポートアイランド博覧会を開催。埋立地に新しい都市を作るという動きの中で、ポートアイランド博覧会で造った施設を使っていろいろなイベントを積極的に行なっていた。 その後、1989年、フェスピック(極東南太平洋身体障害者スポーツ大会)神戸大会が行なわれた。櫻井さんは水泳部の監督をしていたので、福祉局から協力の要請があり、水泳部のメンバーで障がい者選手の指導をしはじめたのが障がい者水泳に関わるようになったきっかけだ。 「選手が1人で練習するよりも、チームで練習したほうがいい、であればクラブチームを作ろうということで『神戸楽泳会』というのを作りました。 それまで障がい者水泳はリハビリの視点からのアプローチが主でした。正直なところ、みんな自己流で泳いでいました。まさしく抵抗の多い泳ぎばかりをしていたんです。競泳のことを知っていて教えるコーチがほとんどいなかった。 楽泳会、という名前ですが、「楽しく泳ごう」という意味ももちろんあるのですが、競泳の考え方のほうが「効率的に」「楽に」泳げるのです」 クラブ結成後、フェスピック大会の前に行われた全国大会で、楽泳会の選手たちがリレーをはじめ多くの種目でメダルをとってしまった。全国から「なんでそんなに強くなったんだ?」と驚かれたという。   (続く)    
憧れのアメリカチームは強くてフレンドリー!

憧れのアメリカチームは強くてフレンドリー!

全国10チームとアメリカチームがお台場に集結。真剣勝負を楽しんだ。 アメリカチーム監督のキース・ウォレスさんは「全米で各地にチームがある。いずれはパラリンピック種目にしたい。日本チームは守備がうまくなっている。数年後にはアメリカと互角に戦えるだろう」と話していた。 アメリカでは障がい者のみの競技だが、日本では健常者の選手が半数以上。車いすに乗ることで、同じようにプレーできる。日本代表選手としてアメリカ遠征をしているアスリートから、趣味で楽しんでいる人まで幅が広いことも特徴だ。競技が盛んなアメリカでも、バスケやテニスと掛け持ちでプレーしている人は多い。 そのアメリカチームはとにかく陽気だ。ヒットが出ればベンチからの声援もひときわ大きくなる。日本のクラブチーム相手にも本気でプレーしてくる。 それが試合後になるとフレンドリー。小学生選手の遠山勝元君(埼玉)のところにやって来ると、野球帽にサインをしろとせがんできた。 「彼はグレートキャッチャーだ。世界的な選手になると思うから、今のうちにサインを書いてくれ」とドウェインさん。障がい者の先輩として、彼を勇気づけようという心意気がかっこいい。 今大会をサポートした中外製薬CSR推進部の加藤正人さんは、「障がいの有無、性別、年齢や国籍の違いなどを問わず、誰もがいきいきと楽しくプレーしていたのが、とても印象的でした」と話す。 同社は、「多くの方に本大会を通じて、障がいの有無に関わらず、誰もが同じフィールドで活躍できるということを実感していただきたくサポートしました」。実際に社員も大会運営に関わり、「大会前日の準備から含めて、23人の社員がボランティアとして協力。会場設営、審判、スコアラー、運営補助、アメリカチームの通訳を担当しました」という。 企業協賛では資金や会場提供が多いケースだが、同社のようにスタッフとして関わることは、企業の持つ経験や専門性でスポーツ文化を広げることにつながるだろう。   撮影・辻野聡、安藤啓一、編集部 構成/安藤啓一
当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その3)

当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その3)

真野CPは「あるある・チャレンジ・検証」が番組企画の3本柱だとも言う。 「『障害者あるある』をテーマにすると当事者の悩みが共有できます。健常者にとっては、知らなかった世界がわかるんです。 『チャレンジ』は既存のバリアを乗り越える工夫を伝えられます。たとえば、教員免許を目指す吃音(※)の大学生に実際に模擬授業をやってもらいました。そのために彼はいろいろな準備をするわけです。そこからバリアを打ち破る知恵がみえてくるんです。あるいは「吃音の人は教師になれないよ」と思っている人が、「意外といけるかも?」と考えるきっかけになったりします。 『検証』では、健常者の「素の」対応から意外な差別意識があぶり出され、現実が伝わったりします」 「大事なことをきちんと伝えるのと同時に、ムーブメントにどう変えていくか、どうやってより多くに人に届けられるかを常に考えています。その一環としてのイベントが『バリコレ』です。個性豊かなデザイナーが製作したバリアフリーファッションを、障害のあるモデルたちが着て披露します。『え、これって超カッコいいじゃん!』と老若男女を問わず。多くの人に感じてもらいたいと思っています」 いろいろな切り口・演出手法を使って、多くの人に考えたり関心をもってもらうきっかけを作る、一方ではキチンと当事者が大事にしていることを伝える。その両輪を磨きながら、『バリバラ』という車が2020年のさらに先に続く道に向かって走り続けることを期待したい。     ※吃音……発声時に第1音が円滑に出なかったり、ある音を繰り返したり(ぼ、ぼ、ぼくは)、伸ばしたり(ぼーくは)、無音が続いたり(………ぼくは)する言語障害。不安や緊張などの心理的影響が強いと考えられているが、原因は不明。
当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その2)

当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その2)

「スタジオ撮影に入る前にMCの山本シュウさんや玉木幸則さんたちを交えて行なう打ち合わせがとても長く、白熱します。玉木さんには、これまで長い間、障害者の権利などについて発信してこられた経験から、誤解を招かないような表現になっているかとか、しっかりと意見をもらえるんです。VTRを彼らには必ず見せるのですが、途中でいろいろ言われます。『これはちょっと微妙やなぁ』とか(笑)」 外してはいけないこと、やりすぎてはいけないことなど、構成を何度も見直して確認を重ねる。ドキっとさせられなければ伝わらない、という真野CPだが、このように実にていねいに番組は作られている。 「当事者が何をバリアと感じているのか、を伝えるのが私たちの仕事。伝えるときに、見ている人の役に立つのか、先入観を覆せるのか、健常者に「気づき」があるのか、その3つはいつも考えていますね。そこにどのように〝笑い〞を取り混ぜて伝わるやすくしていくかがポイントなんです」 「感動ポルノ(※)をテーマにした回を放送したことがありました。去年プロデューサーになって、バリバラをどういう番組として発展させていくか、まだ自分の中でもはっきりしなかった時期に、番組のあり方をもう一度問い直してみようと思ったのが、この企画をやった個人的な動機です。 感動ポルノのような描き方は、テレビではずっとやってきました。社会的弱者の人たちを描く際に、とてもわかりやすい手法で、ある種テレビのノウハウが詰まった構造なんです。 それを明らかにして、パロディにして笑うことで、こうじゃないものをどうやって生み出すかを考えたかった。次に進むための棚卸しをしたんです。 それが意外と受け入れられました。その時に『メディアが信用されなくなっているな』と感じました。つまり視聴者が『メディアは都合のいいように伝えているんじゃないの?』とか、『リアルなものが伝わってないね』とか、『またこの語り方か。飽きたよ』とか思ってるんじゃないかと。だとすると、それを乗り越える手法を考えないといけないし、違う伝え方を考えないといけない。なんとかその方法を見つけたいと考えるようになりましたね。     ※感動ポルノ……障害者が一生懸命に何かを達成しようとする場面をメディアが取り上げ、健常者が「感動をもらった」「激励された」と描く行為・演出。「ポルノと表現したのは、ある特定の人をモノ扱いして、他の人が快感を得ようとしているから」と、造語したステラ・ヤングさん(豪のジャーナリスト・コメディアン)は言う。
当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その1)

当事者の生の声を「笑い」に乗せて発信(その1)

いま巷で「バラエティ番組のなかで、もっとも面白い!」と言われているのがNHK・Eテレで放送されている『バリバラ』だ。現在は障害者に限らず生き辛さを抱える人たち、マイノリティの人たちをテーマに制作されている番組で、彼らの生の声を「笑い」というスパイスを加えながら、世に〝発信〞している。 「10人ほどのディレクターが企画案を持ち寄ります。それと並行して世の中で起こっている事件、各種制度の改正などを鑑みながら、何をやるかを決めていきます。ただ僕らが一番大切にしているのは、当事者の人たちの視点です」 『バリバラ』を手がける真野修一チーフプロデューサー(以下CP)は、番組制作のキモである企画立案のポイントをこのように語る。 「私たちが『これ、おもしろそうだよね』と思っても、障害者の人たちがそれを楽しんでくれたり、やる意味があると感じてくれないと成立しないんです」 「バリバラ海の王子 決定戦」という回もあった。水着になりたくない、車いすは入り辛いなど、障害者はなかなか夏(海・砂浜)を楽しめない、という声があり、「じゃあ楽しめるようにしよう! そのためには運動会をやろう!」という企画だ。 スイカ割りや線香花火長もち対決など、日常的に楽しめる種目を通して、障害の特性や、砂浜を楽しむためのヒントを伝えることを考えたという。 「それぞれの参加者が苦労をしつつも楽しんでいるのを視聴者が見て『あ、こんなところに不便を感じていて、それをこう工夫してるんだな』と感じてもらいたかったんです」(真野CP)
「伝えるべきこと」がある 田中時宗さん(その3)

「伝えるべきこと」がある 田中時宗さん(その3)

センターポールでは、選手たちには「講演ではこんな話をしよう」という指導はとくにしていない。 「選手ひとりひとりの考え方も違いますし、障がいの部位や程度によっても意見は違います。でも『バリアフリー(多目的)用のトイレはできるだけあけておいてほしいです』といったことは、よく話していますね。彼ら当事者の具体的な意見は、聞き手の心にサクッと刺さるんです。 『あ、この人はこんなことで困っている、ここにスロープが必要なんだな』とか、一般の人がそれを目にして初めていろいろなことを考えるのが現実です。もちろん想像してバリアフリーの社会環境が整えばそれはそれでいいんですが、本当に障がい者の人たちが使いやすい設備を作るためには、彼ら障がい者の意見がないとダメ。私だって今まで2㎝くらいの段差なんて気にしたことはなかったんですが、彼らにとってはとても大きな段差だった。友達や知り合いに障がい者の人がひとりでもいたら、彼らの声が自分の耳に、心に届くんです」 田中さんは、所属している選手たちに「アスリートは見かけも大事だよ」とよく言っている。今年から、チームとしてスキンケアメーカーのサポートも受けることになった。〝障がい者はみんなおとなしい〞という固定概念を取っ払いたかったという。 「子どもたちが選手の近くに行って『あ、いい匂いがする。オシャレ!』と思ってもらうくらいがいいのではないかとも思っています。服装についてもこだわりたい。ストリートカルチャー系の要素をデザインに入れて、「守られている」というよりも「無骨でカッコいい」イメージを、弊社所属のアスリートには演出してもらおうと思っています」 イケてるパラアスリートたちが、情報をどんどん発信して、世の中が動く時代は、もう目の前に来ていそうだ。

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