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【パリパラリンピック現地レポート】大会全体をマネジメントする戦術で、新たな歴史を切り拓いた”オリオンJAPN”

【パリパラリンピック現地レポート】大会全体をマネジメントする戦術で、新たな歴史を切り拓いた”オリオンJAPN”

9月5日、パリ南アリーナでゴールボール男子決勝が行われ、日本がウクライナを4対3で下して金メダルを獲得した。 これまで、ゴールボール日本代表は、女子が2004年のアテネ大会で銅メダル、12年のロンドン大会で金メダル、そして前回大会の東京大会で銅メダルを獲得している。男子は、東京大会に開催国枠で初出場し5位。その後の3年間で急成長し、昨年行われたIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)主催のワールドゲームズで優勝した。チャンピオンだけに与えられる今大会の出場枠を確保し、自力での出場を決めて、パリの地に乗り込んだのだった。 日本チームは、予選ラウンドで中国、ウクライナ、エジプトと対戦した。1勝2敗でBグループ3位となり決勝トーナメントに進出。準々決勝でAグループ2位のアメリカと対戦し、6対4で退けた。 予選で隠していた戦術で中国に見事にリベンジ 予選で負けた中国にリベンジを果たし、初の決勝進出を決めメダルを確定させた 中国は高いバウンドボールが弱点。予選では隠していた球筋で中国を翻弄した 日本の組織的かつ戦術的な堅い守備が、アジアチャンピオンの中国をわずか2点に封じた 準決勝で対戦したのが、今大会初戦で対戦した中国である。予選では、6対7で勝ち星をあげることができなかった。中国は、アジアの強豪で東京パラリンピック、2022年の世界選手権ではともに銀メダル、22年のアジアパラ競技大会では金メダルを獲得している。が、日本が優勝した昨年のワールドゲームズには出場していない。日本にとっては、予選で負けた中国との準決勝が、ひとつの大きな山場だった。 試合開始早々に、攻撃の要である宮食行次が先制点を決めた。持ち味である高さのあるバウンドボールが中国のゴールネットを揺らした。「高いバウンドボールは中国の弱点だということがわかっていたので、絶対に勝負できると思っていました」と、宮食が振り返る。「予選では、高さを調整してあまり手の内を見せない攻撃にしていました。準決勝で高いバウンドボールを出したことで、中国は驚いたと思います」。大会全体をマネジメントする戦術の一つが、いきなり奏功した。 前半から日本は積極的に攻撃を仕掛け、宮食のバウンドボールだけで5得点を挙げた。またキャプテンの金子和也は、相手が投球位置や距離を測りにくい左利きの利点を活かし、スピードある投球で3得点。前半だけで8対2と大きくリードした。 焦りを隠せない中国は、後半にスポーツマンシップに反する反則を犯す。タイムアウト後、中国の選手がユニフォームについた汗などの水分をボールになすりつけたのだった。表面に水分がついたボールは、乾いたボールよりもスピードが増す。アイシェードを装着した選手は、いつもとは異なるスピードに反応が遅れ、ゴールを奪われてしまうのだ。タイムアウト直後の中国に対し、審判がボールを確認してチームペナルティの判定に。金子がきっちりペナルティスローを決めて、11対2とリードを広げた。日本は前半からの勢いのまま、最終的に13対5という大差で中国を下し、決勝進出を決めたのだった。 ゴールデンゴールの瞬間、思わず飛び上がって、そのあとは瞬時に脱力した(佐野優人) 延長戦の激闘を制し、最後は佐野優人が決勝ゴールを決めて金メダルを獲得 レフトとライトの両ウイングでプレーした金子和也(左)。キャプテンとしてチームを牽引した 6人のうち誰が出ても戦力が落ちないのが日本の強みのひとつ。抜群のチームワークの良さも勝利をもたらす要因だった そうして迎えた決勝戦の相手は、ウクライナ。ウクライナは準決勝で、東京パラリンピックの金メダリストであるブラジルを破って決勝に駒を進めていた。日本が6位だった2022年の世界選手権では、ウクライナはブラジル、中国に続く3位。やはり東京大会以降、上位に位置する強豪である。今大会、予選ラウンド2戦目で日本はウクライナに8対9で、これも1点差で敗北を喫している。 先制点を挙げたのは、キャプテン金子だった。自陣ライトから真っ直ぐに投げたボールが、相手のレフト選手にあたり、体を弾いたボールが後ろのネットに突き刺さった。 「狙い通りでした。高いバウンドではなく低めのバウンドでスピードがある投球。ずっと練習してきた攻撃です」(金子) 金子はもともと左ウイングの選手である。しかし、去年からライトポジションでもプレーすることが増えた。 「東京大会以降、パラリンピックの金メダルを目指す上で、これまでどおりでは勝てないことをチーム全員が痛感していました。そんな中、金子から“右ウイングでもやりたい”と申し出があった。難しかったと思うが、スタイルの異なる攻撃的な宮食と金子を同時にコートに入れることができるようになり、そのスタイルで去年のワールドゲームズを勝ち切れた。今の日本の大きな武器になっています」 という工藤力也HCの言葉通りのプレーだった。 試合は、前半2対2。前半終盤に途中出場した佐野優人が、後半に1得点したが、その後ウクライナも同点ゴールを決めて3対3となり、延長戦に突入した。 延長戦は前後半3分ずつで行われるが、とにかく先にゴールした方が勝者となるゴールデンゴール方式だ。 延長戦でコートに入ったのは、後半ゴールを決めた佐野、宮食、そして今大会初出場で守備を担う萩原直輝の3人だ。緊迫した攻守が繰り返される中、延長戦開始から1分半。佐野がボールを受け取ると、ライトから大きくクロス方向に回り込む助走から投球。ウクライナ選手の体で大きくボールが弾かれると、そのままゴールへと転がり込んだ。この瞬間、日本男子の金メダルが決まった。 プレー中は静寂に支配されている南アリーナのスタンドが、一気に爆発したような歓声に包まれた。 「ゴールデンゴールの瞬間、ホイッスルの音も聞こえず、ただ会場の歓声がめちゃくちゃ上がって、それで自分が決めたんだということがわかりました。思わず飛び上がって、そのあとは、もう瞬時に脱力してしまいました」と、佐野が喜びの実感を口にする。 「実際には、延長戦に入る時、どのメンバーをコートに送り出すか、すごく迷いがありました。宮食と金子という攻撃的なメンバーにするのか、佐野を入れてディフェンスから攻撃につなげる守備型にするのか。決勝の後半、佐野が入っていた時間帯にウクライナのディフェンスが佐野の攻撃に合っていないと感じたんです。佐野は、軌道を変えて投球する独特の助走で相手選手を騙すテクニックが武器です。海外の強豪選手はスピードやパワーで押し切るボールには強いが、間をずらすような佐野の攻撃に対して、つい待てずに先走ってしまう傾向がある。ここは、相手が嫌がるボールで勝負しようと。それが最後にゴールデンゴールを生み出しました」(工藤HC) 日本の戦略が、世界を制した。 東京後の3年間、厳しいフィジカル強化が道を拓き、新たなステージへ 日本は5位に終わった東京パラリンピック以降、全員でフィジカル強化に取り組んできた。東京大会に合わせて完成したナショナルトレーニングセンターに常駐するフィジカル強化の専門トレーナーが、選手一人ひとりに合わせたメニューを組み、選手はピークを見据えたプログラムに取り組んだ。例えば宮食は、東京大会の頃には100kgだったウェイト重量が、現在は120kgまで増えたという。 「ウェイトの負荷が上がるにつれて、投球のパワーも上がっていくという実感がありました」(宮食) 「今朝も、夜の決勝戦に備えて短時間で高出力のウェイトトレーニングをしました。このトレーニングをすることで体のキレが実現します。こうした積み重ねが、大舞台の結果につながりました」(金子) 選手の個性を活かしたチーム戦略と、コートで刻々と変化する攻守に自律的に対応しながら、3年間の取り組みの全てを発揮して手に入れた、金メダル。ゴールボールの日本代表「オリオンJAPAN」の歴史に、新たなページが加わったのだった。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
【パリパラリンピック現地レポート】”準決勝のカベ”を破り、ついに!金メダルを獲得した車いすラグビー日本

【パリパラリンピック現地レポート】”準決勝のカベ”を破り、ついに!金メダルを獲得した車いすラグビー日本

ついに、ついに! 車いすラグビーが待望の金メダルを獲得した。9月2日、エッフェル塔からほど近いシャン・ド・マルス・アリーナで19時30分に決勝戦が行われた。この舞台に勝ち上がってきたのは、日本とアメリカ。序盤にアメリカがリードするも、後半には完全に日本がゲームを支配して、48対41で初優勝を決めた。 日本は、2016年リオ大会で初めて銅メダルを獲得し、東京2020パラリンピックでは自国で金メダルを、と意気込んでいた。が、準決勝でまさかの敗退、リオに続いて銅メダルとなった。2018年の世界選手権では地元オーストラリアを下して優勝したものの、パラリンピックでは、これまで決勝進出が果たせずにいた。 「準決勝のカベ」 意識しないようにしても、どうしても頭にこびりついて離れないキーワードだ。パラリンピックの舞台で準決勝の相手を下して決勝進出を決めることは、日本の重要ミッションだった。 準決勝は宿敵オーストラリアとの大激戦 ”スピードスター”橋本勝也は日本のポイントゲッターとして大活躍。準決勝は14得点を挙げ勝利に貢献 ベテラン・島川慎一(左)は橋本勝也に「自信を持って走り回れ、勝也は世界で一番強いのだから」と声をかけた 準決勝の相手は、昨年アジアオセアニア選手権で決勝戦を戦い、日本が勝利したオーストラリアである。オーストラリアは、2012年のロンドン、16年のリオ大会とパラリンピック2連覇を果たしている。ロンドンでも、リオでも準決勝で対戦し、日本が敗退した。オーストラリアは、因縁の宿敵である。 日本もオーストラリアも東京大会からの3年間で、さらなる成長を遂げている。準決勝で対戦するオーストラリアのカベを打ち破れるか。これが、今大会の大きな山場となった。 準決勝は大激戦だった。スタートメンバーは、池透暢、池崎大輔という黄金のイケイケコンビに、小川仁士、パラリンピック初出場の草場龍治という3311ラインナップだ。第1ピリオドは12対12、第2ピリオド終了時は24対25。後半第3ピリオド終了時も35対36と1点差のままだった。 第4ピリオドに入ると、オーストラリアの激しい攻撃で2点差に広げられてしまう。試合終了まで残り43秒の場面で池がトライを決めて47対47の同点に。さらに残り14.8秒で日本がオーストラリアのエース、ライリー・バットをエンドラインに追い詰めて苦しいタイムアウトを取らせることに成功。14秒は、短いようで長い。トライを決める絶好のチャンスである。日本は残しておいた選手タイムアウトを要求して、追加点を狙った。が、かなわず第4ピリオドが終了。今大会初の延長戦に突入した。 延長線では日本が先に1点を奪う。1点を取り合うヒリヒリした展開の中、池がオーストラリアボールをスティールしてトライを決め51対49と差を広げた。オーストラリアが反撃するも、3分間の延長戦が終了。日本は52対51でオーストラリアを退けたのだった。 決勝戦はアメリカに快勝! 12人は同じ思いを胸に表彰台の一番高い場所に立った アメリカのエース・チャック青木(左)とバトルし合った池透暢 アメリカはパラリンピック初出場の女子選手サラ・アダム(右)が、池崎大輔を吹っ飛ばすほどの屈強さを武器にチームを牽引。それに対し特に後半、乗松聖矢のディフェンスが冴えわたった。間違いなく日本の勝因のひとつだ 決勝戦、橋本勝也はコートに24分4秒立ち、チーム最多の19得点を挙げた。大会を通じてその攻撃力の高さを世界に見せつけた 翌2日に行われたアメリカとの決勝戦では、日本は第1ピリオドからアメリカにリードを許した。今大会のアメリカで躍進したのが、女子選手のサラ・アダム。2017年から車いすラグビーを始め、2021年からアメリカの強化指定選手に選出されているが、パラリンピックは今大会が初出場だ。ベテランエース・チャック青木のパスを受けてトライにつなげる、日本の屈強な男子選手のタックルを受けてもびくともしない。池崎が猛タックルを仕掛けた際に、自らの勢いで池崎が転倒してしまう場面もあったほどだ。今のアメリカを背負って立つ、若きエースである。このサラが、前半日本を掻き回し続けた。 一方、日本チームで今大会、輝きを放ったのが、22歳の橋本勝也だ。第1ピリオドの途中からコートに入り、キャプテンの池とのコンビネーションプレーでゴールに突進していった。 アメリカにリードを許した第2ピリオドも途中交代でコートの入った橋本は、ピリオド終盤にアメリカのパスをスティールしてそのままトライを決めると、残り14秒の場面でトライを決めるために戦略的に取った選手タイムアウトをきっちりと活用して、残りわずか1秒のタイミングでさらなる追加点を決めた。これによって、一時は3点差に広げられていたアメリカのリードをひっくり返して前半を24対23で折り返した。 車いすラグビーでは、次のピリオドを有利に進めるために、自チームが得点を決めてピリオドを終了させる戦術が不可欠である。どのチームも、残り2分を切ると、最後にトライを決めてピリオドを終わらせるためのタイムコントロールを図る。第3ピリオド終了間際、橋本に得点させないよう、アメリカが橋本を囲んで攻撃を阻んだ。橋本は慌てずに選手タイムアウトを要求し、その時間を有効に使って最後のトライを決めた。第3ピリオド終了時、アメリカとの点差は3点。日本がリードを広げて最終ピリオドを迎えた。 すでに選手タイムアウトを使い果たしていたアメリカは、ミスしてターンオーバーすることは許されない状況の中戦っていた。切迫した状況がさらなるミスを誘う。パスが通らずラインを超えてしまうなどミスが重なり、その度に日本は追加点を挙げていった。終了間際、橋本はアメリカのインバウンドのボールを奪い取った。そのまま終了のホイッスルがアリーナに鳴り響き、橋本はボールを床にバウンドさせて喜びを爆発させた。 橋本は、決勝戦のコートに24分4秒立ち、チーム最多の19得点を挙げた。主将・池は32分間フル出場して16得点、対戦したアメリカのエース・チャック青木は30分31秒で14得点。橋本の、攻撃力の高さを示す数字である。 「東京大会以降、パリの決勝の舞台に立って金メダルを獲得したとき、自分がチームのキープレーヤーとしてそこにいたい。その一心で練習を重ねてきました」。橋本が、3年分の思いを口にした。 延長戦の末、わずか1点差でオーストラリアとの準決勝のカベを破ったが、その大事な1戦を前に、控え室で橋本はエース池崎から、こう囁かれたのだという。 「勝也、頼んだぞ」 決勝戦のハーフタイムでは、今大会で2004年のアテネパラリンピックから連続出場6大会となる、レジェンド・島川慎一が、橋本と並んでゆったりとラグ車を走らせながら、静かに語りかけた。 「自信を持って走り回れ、勝也は世界で一番強いのだから」 島川は、リラックスして満面の笑顔を見せる橋本とグータッチを交わして、後半のコートに送り出した。 もちろん、日本の悲願の金メダルは橋本一人の活躍で勝ち取ったものではない。池崎が言う。 「これまで苦楽をともにしてきた仲間と出した結果。スタッフも含めて誰か一人かけても、この優勝はなかった」 池も重ねる。 「ここに来られなかった選手、支えてくれたスタッフ、そして決勝戦を戦ったアメリカチーム。その全てに感謝したいと言うのは、選手全員が同じ気持ちでした」 世界一のチームで世界一の3.5プレーヤーとして活躍を見せた橋本は、「We are family!って、ずっとこのチームのことを思ってきた。まさにファミリーだと感じています」 2016年のリオパラリンピックで初めて日本が銅メダルを獲得して、車いすラグビーの歴史が変わった。そこから8年。東京大会の銅メダルを経て、パリ大会で悲願の金メダルを手にした。日本の車いすラグビーの歴史が、またここから大きく変わっていく。日本のチームの誰もが、口を揃えて強調する。 「日本は、本当に強くなった。自分たちのやってきたことが間違いではないことを、ここで証明できた」 表彰台の一番高いところにいる12人は、同じ思いで金メダルを胸にしたのだった。 取材・文/宮崎恵理、写真/吉村もと
【パリパラリンピック現地レポート】唐澤剣也(陸上)ー”過去イチ”速かったラスト1周の秘密ー

【パリパラリンピック現地レポート】唐澤剣也(陸上)ー”過去イチ”速かったラスト1周の秘密ー

いよいよ開幕したパリパラリンピック。大会3日目となる8月30日、陸上競技がスタートした。この日、朝一番に行われた視覚障害T11男子5000mに出場した唐澤剣也が、自身が持つアジア記録を更新し、14分53秒97の世界記録を上回る14分51秒48のタイムで銀メダルを獲得した。 優勝したのは、ブラジルのジュリオ・セザール・アグリピーノ・ドス・サントス。今年5月に行われた神戸での世界選手権で同じブラジルのエリツィン・ジャッキスが世界記録を樹立したが、それを大幅に更新する14分48秒85を叩き出したのだった。今大会でジャッキスは3位、タイムは14分52秒61。つまり、表彰台の3選手全員がそれぞれ世界記録を更新するというハイレベルな戦いだったのである。 号砲とともに飛び出したのは、アグリピーノ・ドス・サントス。5000mのレースでは、途中でガイドを交代することができる。唐澤のガイドは、スタートからは清水琢馬。唐澤のペースをコントロールしながら、先頭が見据えられる絶好のポジションをキープしていた。2番手で先頭を追いかけていた唐澤は、3000mを超えた時点で小林光二にテザー(手をつなぐ紐)が渡される(ガイドが交代)と、そこから一気にラストスパートモードに入る。最後尾から虎視眈々とラストスパートに備えてきたジャッキスが、残り2周で一気に追いかけてくる。前を走る選手たちを次々と抜き去り、唐澤を射程に捉えていた。ラスト1周の鐘が鳴り響く中、唐澤がアグリピーノ・ドス・サントスに迫り、その後ろからジャッキスが唐澤を猛追する。アグリピーノ・ドス・サントスの速度は衰えを見せないまま、フィニッシュし、ジャッキスに追い上げられながらも、唐澤が2位でゴール。驚異的な記録が次々と飛び出した高速レースに、スタッド・ド・フランスに詰め掛けた大観衆が沸きに沸いたのだった。 優勝したブラジルのアグリピーノ・ドス・サントス(右)はスタートから飛び出し、一度もトップを譲らないままゴールする完勝だった ラスト1周で迫った時には、ガイドの小林からは「追いついたぞ、前とは5m、3mの差だ!」と発破をかけられていた。「ラスト2周からずっと、小林ガイドには“抜ける、いける”と声をかけ続けてもらっていたのですが、最後、足が残っていませんでした」 悔しさをにじませる。 「スタートから前半は、1番手〜3番手のいい位置をキープしながら2000mから3000mの中盤でチャンスがあれば先頭に出ようという作戦でした。外側のレーンから狙って行きましたが、前に出させてもらえませんでした。無理をすれば、後半のスパートで後ろから迫ってくるジャッキスやNPA(ロシア)の選手のラスト勝負で負けてしまうリスクがあります。なので、無理してペースを上げずにそのまま追いかけることにしました」と、唐澤が振り返る。 「悔しいという思いと同時に、全力を出し切った悔いのないレースができたことは良かった、と思っています」 好ポジションをキープしながらレースを進めた唐澤だが「最後、足が残っていませんでした」と振り返る。「悔しいという思いと同時に、全力を出し切った悔いのないレースができたことは良かった、と思っています」 群馬県出身で現在30歳の唐澤は、10歳の時に網膜剥離で視力を失った。2016年のリオパラリンピックで同じ視覚障害の陸上選手である和田伸也の活躍を知り、本格的に陸上競技を始めた。ガイドの小林とともに東京パラリンピックに初出場し、5000mで銀メダルを獲得してデビューを飾った。この時はブラジルのジャッキスが唐澤をラスト1周で大きく引き離して優勝。東京大会以降、ラストスパートで競り負けない体力とスピードを手に入れるために、小林のいるスバル陸上競技部に所属を変え、小林の指導のもと強化に取り組んできた。この3年間が、唐澤を大きく成長させた。 「それこそ、住まいも隣で、性格も走りの特徴も全部把握しながら練習を積み重ねてきました。今年5月の世界選手権で世界記録を出したジャッキスに、ラストスパートでやられている。そこからの3カ月間、さらにラストを2段階、3段階上げる取り組みを繰り返してきました。その成果が、今大会のタイムに表れた。それは、ガイドである私にとっても、嬉しい結果でした」と小林は語る。 「ラスト1周で、唐澤さんのピッチが、過去イチ早くなった。これまでは苦しい状況でピッチが早くなると、反対に推進力が落ちてしまうことが多かったのですが、今日は、推進力が落ちないまま、むしろピッチで推進力を補う形で走り切ることができた。そこに、唐澤さんの成長、強さを感じることができました」 ゴール後、唐澤の健闘を称えるガイドの小林。唐澤の成長は小林の存在なくしては語れない トップ3人が世界記録を更新する超高速レース。 「世界記録を更新する走りでなければメダルはかなわないと、東京大会以降の3年間練習に取り組み、目標にしてきました。その意味では、目標は達成できたんです。でも、優勝したドス・サントスはスタートから一度も先頭を譲らずに押し切って、金メダル。正直、ああ、強いなと感じました」 悔しさと嬉しさの入り混じった感情の波の中でも、唐澤は前を向く。 「ブラジルの2人のレベルは高いですが、互角に戦えたことは自信になりました」 世界のライバルと切磋琢磨しながら、陸上競技に取り組めている充足感は、この3人だけが持ちうる、特別な宝物だろう。 「4年後は、さらにスピードのレベルが上がるだろうと、想像しています」 ロサンゼルスパラリンピックに向けても、世界記録更新レベルでの戦いが続いていく。唐澤は、その一角を担っていくのだ。 世界記録を更新して銀メダルを獲得したチーム唐澤。左からガイドの小林光二、唐澤剣也、ガイドの清水琢馬 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
パリで金メダルと世界新記録を目指す期待の新星―福永凌太(陸上競技:視覚障害T13クラス) 

パリで金メダルと世界新記録を目指す期待の新星―福永凌太(陸上競技:視覚障害T13クラス) 

東京2020パラリンピック以降、新たな選手が続々とデビューを果たしている。その中には、すでに今夏開催されるパリパラリンピック出場を決めた選手もいる。東京パラリンピックをテレビで見て、憧れてこの世界に飛び込んだという選手もいれば、一般のスポーツで活躍していたが、障がいがあることからパラスポーツの存在を知って新たな世界にシフトした、という選手もいる。いずれにしても、東京パラは、広くパラスポーツを広め多くの挑戦者がその扉を開いたのだ。それこそが、東京大会のレガシーである。 高校時代は棒高跳び、大学時代は十種競技で活躍 パラ陸上競技の視覚障がい選手である福永凌太も、東京大会以降にこの世界に飛び込んだ一人だ。中学、高校時代には棒高跳び、中京大学に進学してからは十種競技の選手として活躍していた。大学卒業を目前に控えた4年前、パラ陸上の存在を知り、転向した。昨年パリで開催された世界選手権に初出場し、T13クラス400mでアジア新記録となる47秒79で金メダルを、走り幅跳びで銀メダルを獲得。4位以内に与えられるパリパラリンピックの出場枠を掴んだ。今年8月のパリパラリンピックでメダル獲得が期待される、大型新人なのである。 1998年に滋賀県で生まれた福永には、幼少期から中心視野が見えづらいという視覚障がいがあった。徐々に視力は減衰し、中京大学に進学してから錐体ジストロフィーという診断名を告げられた。 子どもの頃は、友人とサッカーや野球をしたいと思っていたが、ボールが見えづらいと思うようなプレーができない。サッカーの体験教室などで、うまくいかない姿をジロジロと見られるのがどうにも耐えられず、球技はあきらめた。一方で、小学5年から地元のクラブで陸上競技を始めた。見えづらさのハンディキャップを感じないですむこと、仲良しの友だちが一緒に陸上を始めたことがきっかけだったという。 進学した中学の陸上競技部の顧問が熱心で、すでに棒高跳びに取り組む先輩もいたことから、福永も棒高跳びを始めた。高校では、2年、3年と続けてインターハイにも出場。大学でもそのまま棒高跳びを継続する選択肢もあったが、混成種目である十種競技に取り組んだ。十種競技でも西日本インカレに出場するなど活躍していたが、大学4年時にはコロナ禍で大会そのものがなくなった。 「このまま就職すれば、陸上競技の第一線から離れてしまうかもしれない。あきらめざるを得ない状況でした」 「メダルを狙える」。大学卒業を前にパラ陸上へ転向 初めて出場した2023年の世界パラ陸上で見事金メダルを獲得(T13 400m) そんな時、家族からパラ陸上の存在を聞かされる。 「パラ陸上でのさまざまな種目の世界記録やパラリンピック記録などを調べてみると、自分の持っている記録であれば、世界の舞台で決勝進出は夢じゃないということがわかった。メダルを狙える位置にいる。これまで取り組んできた一般の陸上競技とは場所は異なるが、パラ陸上に人生をかけたい、と強く思うようになりました」 小学生の頃から、トレーニングをコツコツ積み重ねることでレベルアップする過程に何よりも充実感があったという。始めた頃の熱量は、パラ陸上に転向しても変わることはない。十種競技には棒高跳びのほか、短距離から1500mまでのトラック種目や、走り幅跳び、投てき種目などがある。福永は、2020年にパラ陸上にデビューすると、100mと円盤投げで当時の日本記録を更新。鮮烈なデビューを果たした。 大学卒業後は、中京大職員として勤務しながらパラ陸上に取り組んでいたが、さらなるレベルアップを求めて、今年4月に日体大大学院に進学。慣れ親しんだ環境を飛び出して単身上京し、研究と陸上競技を両立させている。 シンプルにリスペクトできる好敵手の存在 神戸2024世界パラ陸上では、アルジェリアのスカンデルジャミル・アスマニ(中央)に敗れ銀メダル 「今、この瞬間ということでは、悔しさしかない」 今年5月に、神戸で開催された世界選手権に、福永は昨年の覇者として臨んだ。その400m決勝で、アルジェリアのスカンデルジャミル・アスマニが46秒44の世界記録をマークして優勝。福永は47秒86で2位に。その直後のコメントだった。 「去年、パリ大会で優勝した時には、やっと目指したところに来られた、という思いがありました。パラ陸上を始めてからは3年ですが、自分としてはようやく辿り着いた、という印象でした」 福永が優勝した昨年の400mに、アスマニは出場していない。招集時間に遅れたことで、欠場を余儀なくされたのだった。そのアスマニとの決戦が、今年の神戸大会に持ち越された。アスマニは、400mより先に行われた100mのレースでも大会記録を更新して優勝している。 「100mのレースを見た時に、これほど仕上がっているアスマニ選手に対して、47秒台では勝負にならない、46秒台の世界記録を狙うくらいでなければ勝てないと感じていました。実際には、まだ自分はそこまで完成されていない。去年のパリ大会の時には、ベストが出る自信があって臨んだけれども、神戸ではその段階に至っていない。スタートラインに立った段階で、負けを確信していたんです」 福永は、普段から400mを45秒台で走るような一般の陸上競技選手らをトレーニングパートナーとして練習している。だからアスマニのスピードが突出して感じられたわけではなかったという。 「それでも、彼がスタートラインに立った時、どれほどの練習をしてきたか、一目瞭然でした。実際、速かった。シンプルに尊敬できる選手だと感じました」 アスマニは、レースプランとして昨年の金メダリストである福永を意識したという。 「リョウタが追いかけてくるぞ、追いつこうとしているぞ、自分に言い聞かせ、逃げ切ることがレースのテーマだった。そうして走ったことで、世界記録と金メダルを実現できた。リョウタが導いてくれたんだよ」 そう語る、アスマニはゴール後、福永を迎えてハグで互いの健闘を讃え合った。 「昨年のパリ大会でも、神戸でも、パラ陸上はシンプルにスポーツとして自分に感動を与えてくれました。アスマニ選手のような素晴らしい選手がいる。僕をライバルとして意識して戦っていたこと、それを言葉にしてくれたことで、彼の人間性の高さをも感じることができました」 陸上競技が本当に大好き。見えない境目を壊していく選手でもありたい 関東インカレ3部では400mで優勝 神戸での世界選手権直前には、福永は関東インカレ3部(大学院生が出場するカテゴリー)の400mで優勝している。 「なかなか思うような走りができないジレンマがある中で、1週間前に行われたレースで感じた課題を修正して臨んで、優勝できた。関東インカレは、パラ陸上とは別の、もう一つの憧れの舞台でもあったので、そこで優勝できたことは素直に嬉しい」 インターハイやインカレといった一般の競技大会に挑戦するパラアスリートは少なくない。福永の優勝は、後に続く者たちに大いなる勇気や希望を与えたはずだ。 「もともと、陸上競技が本当に大好きなんです。健常者の陸上、パラ陸上という違いがあるのではなく、ただ、陸上競技が存在する。見えない境目を壊していく選手でもありたい」 初めての出場となるパリパラリンピックが、まもなく開幕する。 「理想とする走りのイメージにどれだけ近づけていけるか。体の動きの質を高めていって、パリパラリンピックのレースを迎えたい。尊敬するアスマニ選手と、今度こそ本当の勝負をして、アスマニ選手が叩き出した世界記録を塗り替えて金メダルを狙います」 世界選手権からパラリンピックへ。福永は、舞台を移して、さらなる高みに挑む。 福永のトレードマークは「日傘」。強烈な直射日光による紫外線の疲労を防ぐ目的もあるが、ツルピカのお肌の秘密でもあるとか! 福永凌大(ふくなが・りょうた)/幼少期から中心視野が見えづらい視覚障がいがあり、中京大学進後、錐体ジストロフィーと診断された。高校時代には棒高跳び、大学では十種競技の選手として活躍。大学卒業を前にパラ陸上に転向すると、2023年世界パラ陸上のT13・400mでアジア新記録で金メダル、走り幅跳びで銀メダルを獲得した。今年の神戸世界パラ陸上では400mで銀メダル。1998年生まれ、滋賀県野洲市出身。日本体育大学大学院所属。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
神戸2024世界パラ陸上。川上秀太(男子100mT13)、大島健吾(男子200mT64)、鬼谷慶子(女子円盤投げT53)が銀メダルでパリ行き切符獲得

神戸2024世界パラ陸上。川上秀太(男子100mT13)、大島健吾(男子200mT64)、鬼谷慶子(女子円盤投げT53)が銀メダルでパリ行き切符獲得

2024年5月17日(金)〜25日(土)、兵庫県神戸市のユニバー記念競技場で「神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会」が開催された。2021年に開催予定だったが、世界的な新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、2度の延期を経て3年遅れで開催されたものだ。日本選手66名を含む、104カ国、1073名の選手が出場し、合計168種目の競技が行われた。 パラ陸上の世界選手権は、1994年にベルリンで第1回大会が行われ、今大会は11回目。パリパラリンピックが開催される同年での世界選手権は、初めてのことである。昨年のパリ大会では各種目上位4位以上の選手(国)にパリパラリンピック出場枠が与えられたが、今大会では銀メダル以上の選手にパラリンピック出場枠が与えられる。パラリンピック直前に、選考を懸けた熱い戦いが繰り広げられたのだった。 日本チームで、今大会銀メダル以上を獲得しパリパラリンピック出場枠を確保したのは、T13男子100mの川上秀太(銀メダル)、T64男子200mの大島健吾(銀メダル)、T53女子円盤投げの鬼谷慶子(銀メダル)の3名だ。大島は2021年の東京パラリンピックに続き2大会目の出場だが、川上、鬼谷は初めてのパラリンピック出場枠を決めた。しかも、世界選手権出場も初めて。今大会で、2人は、鮮烈な世界デビューを果たしたと言えるだろう。 ハイレベルの100mT13で世界に名を轟かせた川上秀太 、T13男子100mで銀メダルを獲得した川上秀太(中央右)。10秒70のアジア新記録を叩き出した 川上が出場した視覚障害(T13)のレースには、2023年に10秒37の世界新を樹立したノルウェーのサルアムゲセ・カスハファリが出場している。予選でも同じ1組目、川上の1つ内側のレーンをカスハファリが走り、川上は2位通過で決勝に駒を進めていた。 5月20日に行われた決勝でスタート直後から飛び出したのは、アルジェリアのスカンデルジャミル・アスマニだった。川上はスムーズな加速でアスマニを猛追。ゴール直前にカスファハリに追い上げられるも逃げ切り、10秒70のアジア記録をマークして2位となった。 「パラリンピックの枠取りが達成できたことで、思わずガッツポーズしてしまいました!」。少しはにかむような笑顔で川上が語った。 「予選ではスタート直後の4歩目、5歩目付近で姿勢が崩れたことが映像で確認できたので、そこを修正して決勝に臨みました。それがスムーズな加速につながったと思います」。と、結果を振り返った。初めての世界選手権で得た、初めてのパラリンピックへの切符。 「T13の100mというレベルの高い舞台で、日本人選手が世界と対等に戦えるところを見せられたのは大きい。自分の自信にもつながります。今日は中盤から後半にかけて少し焦り気味となり、足が流れてしまったところがありました。そこを修正しつつ、基本的なスプリント力にとスタートからの加速の技術を改善できれば、パリパラリンピックでは10秒5、6台には確実に持っていけると感じています」と、力強く語った。 昨年10月の記録を3m以上伸ばした鬼谷慶子 F53女子円盤投げの鬼谷慶子は14m49㎝のアジア新記録で銀メダルを獲得 F53女子円盤投げに出場した鬼谷は、2投目で14m49㎝のアジア新記録をマークし、銀メダルを獲得した。国際大会としては、昨年10月に中国・杭州で行われたアジアパラ競技大会に出場しているが、その時の記録11m01㎝を3m以上も伸ばすビッグスローだった。 「実際には、最近の練習では13m台を投げることもありました。が、14mは、自分の中で大きなカベだったのです。だから、正直、自分が想像していた以上の記録に、自分が驚いています」 鬼谷は大学生だった20歳の時にビッカースタッフ脳幹脳炎という難病を発症した。首や体幹に力を入れることができず、手足にもまひが残る。中学から陸上競技を始め、ハンマー投げの選手として国体に出場するなど活躍していたという。パラ陸上を始めたのは、2022年。本格的に円盤投げの練習に取り組むようになったのは、わずか1年前である。 「まずは投てきフォームを身につける練習に集中していましたが、昨年のアジアパラ以降、筋力トレーニングにも取り組み、筋力強化の成果が今日の記録につながったと感じています」 初めてのパラリンピックとなるパリ大会では「15mが目標」。「自分が競技を続ける中で、誰かのチャレンジする背中を少しでも押すことができれば嬉しい」と、語った。 躍進のブラジルが示す日本が進むべき道 今大会、日本が獲得したのは銀メダル9個、銅メダル12個、総数21個。メダル総数では、中国、ブラジル、アメリカに次いで4位だった。一方で、日本の金メダルはゼロに終わった。今大会で目立ったのは、従来から活躍が顕著な中国やアメリカに迫る、ブラジルの躍進だ。金メダルランキングでも、メダル総数でも2位を誇る活躍を見せた。 ブラジルパラリンピック委員会のハイパフォーマンスディレクターであるジョナス・フェレイラ氏によれば、2016年のリオパラリンピックを機に強化プログラムを推進してきた成果によるもの、という。サンパウロにナショナルトレーニングセンターが設置され、27州ある広大な国土には、小規模のトレーニングセンターが50カ所以上も点在する。学校教育プログラムを活用しながら、子どもから大人まで幅広い年齢層の障害者を対象に発掘・育成が進められてきた。「リオパラリンピックから8年を経て、ようやく強化体制の成果が出てきている」と、語る。 東京パラリンピック以降の日本の成長について、日本パラ陸上競技連盟・強化委員長の宍戸英樹氏は、「東京大会での活躍を見て、本格的にパラ陸上を始めたという新しい選手の活躍が今大会の成果につながりました。日本パラリンピック委員会をはじめ、パラスポーツ全般で選手の発掘・育成が進められています。その中で、選手の発掘だけでなく、優れた選手を見つけるための“目利き“となる人材の育成にも力を入れるべきだと感じています。日本パラ陸連では、パラ陸上競技に精通したコーチの資格制度を新たに作り、有資格者による選手の発掘・育成を進めていく方針です」 選手の発掘・育成は短期間ですぐに結果が出るというものではない。ブラジルは8年をかけて成果を出してきた。日本でも5年後のロサンゼルスやその先を見据えて育成に取り組むという。 パラリンピック本番直前に行われた真剣勝負のレースで、選手たちが得たものは、大きい。この経験が、今夏のパリ大会での結実につながると期待したい。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
いざパリへ!世界最終予選を勝ち抜いた車いすバスケ女子日本代表

いざパリへ!世界最終予選を勝ち抜いた車いすバスケ女子日本代表

オーストラリアとの出場決定戦に50対26で勝利! 16年前のパラリンピック自力出場を経験している網本麻里(中央)は若手選手を引っ張った 「やっと、やっ…」 やっと、なのか、やった、なのか。言葉にならない言葉が耳元に漂いながら、あとは嗚咽に変わっていった。 選手が引けた後のミックスゾーンに残った網本麻里に、「よかったね、おめでとう」と声をかけた直後のことだった。おもむろにバスケ車から立ち上がり、抱きついて、こうささやいた。どれほどの重圧があったのだろう。ただ、抱きしめて、小さな子どもをあやすように、「よかった、よかったよ」とささやき返すだけだった。 2024年4月17日(水)〜20日(土)、パリパラリンピックの出場権をかけた車いすバスケットボール女子最終予選が、大阪市にあるAsueアリーナで開催された。この大会には、日本を含む全8チームが出場、グループA(オーストラリア、アルジェリア、ドイツ、タイ)、グループB(カナダ、フランス、スペイン、日本)分かれて予選リーグを行い、その順位に基づきクロスオーバー戦が実施された。このクロスオーバー戦に勝利した4チームにパリ大会の切符が与えられる。グループBの日本は、17日にカナダ、18日にフランス、19日にスペインと戦い、1勝2敗の3位に。グループA2位のオーストラリアとのクロスオーバー戦で日本は50対26でオーストラリアを下し、パリパラリンピックの出場権を獲得した。 車いすバスケの女子日本代表は、3年前の東京2020パラリンピックに出場した。12年のロンドン大会、16年のリオ大会には出場が果たせず、2008年の北京以来3大会ぶりの出場だった。とはいえ、東京大会は、開催国枠による出場である。今夏パリで開催されるパラリンピックへの出場条件に開催国枠はなく、ゾーン選手権を勝ち抜いた国のほか、この最終予選で権利を得た4カ国の計8カ国がパリパラリンピックに出場する。だから、今大会には開催国であるフランスも遠く日本の地にやってきていたのだった。 北米、ヨーロッパは車いすバスケの激戦区である。カナダ、ドイツは、今大会でもダントツの強さを誇っていた。一方、スペインには、2022年の世界選手権で日本が勝利している。グループBの予選リーグでは、カナダには敗北を喫しても、フランスとスペインからは勝ち星を得てリーグ2位で最終日のクロスオーバー戦に臨むことを日本は目指していた。初戦のカナダ戦では46対81、フランスとの対戦では55対38。想定通りの結果である。ところが予選リーグ3戦目となるスペイン戦では45対64でまさかの敗北。グループ3位となり、最終日にグループAの2位通過であるオーストラリアと対戦することとなったのだ。 決定率の低さに苦しんだグループ戦 今大会、グループリーグでの日本代表の決定率の悪さに目を疑った。初戦のカナダ戦では、3ポイントを含むフィールドゴール成功率ではカナダが58.1%をマークしたが、日本は36.8%。フリースローでは、カナダが72.7%に対し日本はなんと15.4%にとどまった。網本は8本のフリースローの機会があったが、そのうち1本しか決められていない。萩野真世、柳本あまねはともに2本のフリースローを外した。 勝利したフランス戦でもフィールドゴール成功率は37.9%、フリースロー成功率も37.5%。負けたフランスのフリースローは、12本中8本を決めて66.7%を記録している。3戦目のスペイン戦では、主将の北田千尋とベテラン土田真由美がフリースロー成功率100%をマークしチームとして85.7%にまで押し上げたものの、フィールドゴール成功率は33.9%でスペインの43.5%の成功率の前に勝敗を分けた形となったのだ。 「萩野は、大会直前の合宿ではシュート成功率がめちゃくちゃよかったんですよ。だから、なぜ、ここまで悪い数字になるのか。初日に力んで距離感に狂いが生じたのではないかと思っています」 と、岩野博ヘッドコーチは語った。 12人全員で掴んだパリ行きの切符 グループ3位で最終日のオーストラリア戦に臨む日本には、当然後がない。負ければ、東京大会前に戻ってしまうのだ。 アジア・オセアニアの強豪チームとして、オーストラリアとはこれまでも何度も対戦してきた。世代交代が進むオーストラリアだったが、今大会には12年ロンドン大会で銀メダルを獲得した時の主将だったブライディ・キーン、04年アテネ大会からローポインターながらチームの要であったカイリー・ガウチらベテランが出場していた。 ゲーム序盤、両者とも得点が決まらない時間帯が続いたが、その後、網本、北田が躍動した。ディフェンスリバウンドから網本が放ったロングパスに北田がぴたりと反応して先制点をあげると、再び網本のアシストで4対0に。第1クォーター終盤には網本自身が3ポイントシュートを決め、13対4と大きくリードした。日本の守備は一貫して固く、メンバーチェンジをしても崩れることがない。また、ディフェンスでも、オフェンスでも、体格ではオーストラリアには敵わない日本が、リバウンドを取り続けて攻撃に繋げた。オーストラリアは、そんな日本の守備に翻弄され、8秒バイオレーションを繰り返すなど、明らかにオフェンスに迷いが生じていた。 前半25対7で折り返した後半には、網本は4本のフリースローをすべて決めたほか、オーストラリアボールをスティールして、仲間の得点に繋げた。そうして、第4クォーター残り3秒の場面、網本は北田をアシストして3ポイントシュートを決めさせ、パリ行きの切符を掴み取ったのだった。 今大会には、2022年のU25世界選手権で活躍した江口侑里のほか、高校生選手の小島瑠莉、西村葵も途中出場でチームに貢献した。U25の共同主将を務めた江口は、フランス戦の第2クォーターで途中出場すると、網本のアシストで3本、後半にも1本のゴールを決めて勝利を引き寄せた。「センターという役割を担っているので、交代したらとにかく1発目で決めることが仕事だと思っていました。考えすぎるとシュートが入らなくなるので、とにかくいつも通りに打つことだけに集中していました」 ベンチスタートから効果的な得点を重ねた江口侑里 また、小島もフランス戦でA代表初となる3ポイントシュートを決めた。この日は、自身16歳の誕生日でもあった。「誕生日に3ポイント決められて、試合後、チームの先輩たちからハッピーバースデーと言っていただけて、めちゃくちゃ嬉しかったです!」 この日が16歳の誕生日だった高校生選手の小島瑠莉 試合終了後、国際車いすバスケットボール連盟から正式にパリパラリンピック出場権のチケットを手渡された北田主将は、「今大会、高校生の若手選手からベテランまで12人全員がコートでプレーして切符を掴み取りました。そのことは、本当にすごく嬉しい。でも、今大会のような試合をしていたら、パリの本番では1勝もできない。自分たちの現実を見せつけられた大会でもあった。残り時間は少ないですが、できる準備をすべてやっていきたいと思っています」と、熱い気持ちを静かに語った。 キャプテンの北田千尋はパリ出場を喜びながらも、本番を見据えて気を引き締めた さらなる高みを目指して 自力でのパリパラリンピック出場権を獲得した女子日本代表。自力での出場は、2008年北京大会以来、16年ぶりである。網本は、この北京大会を経験している唯一の選手だ。 「今回、初めてレペチャージ(最終予選)が行われた。開催国のフランスも含めて、どの国もすごく緊張して臨んだと思う。大事な一発勝負の場で結果を出すことができれば、パラリンピックや世界選手権という大きな夢の舞台に立てる。そのことを、若いメンバーにも伝えていきたい」 最終日には、数多くの観客がAsueアリーナに詰めかけ、日本はその声援にも後押しされた。 「会場には、車いすで応援してくれた小さな女の子もいました。その子たちが、こういう舞台に立ちたい、日本代表になりたいって思ってくれるように。それが続いていけるように、私はそのバトンを渡していきたいって思ってるんです」 2008年北京パラリンピックで、日本は銅メダルをかけた試合でオーストラリアと対戦し、47対53で敗退した。北京大会に19歳で初出場した網本は、3位決定戦が終わった後のミックスゾーンでも同じように抱きついて、震えながら泣きじゃくっていた。あの日、初出場のプレッシャーと闘った網本が、今は、若手を引っ張りながら、勝利のプレッシャーと格闘している。本番は、これから。退けたオーストラリアの分まで、あるいは、パリパラリンピックに出場できない男子日本代表の分まで、さらなる高みを目指していく。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
一般の部との共催大会『木下グループジャパンオープン』での優勝の意味

一般の部との共催大会『木下グループジャパンオープン』での優勝の意味

 木下グループジャパンオープン2023の男子車いすテニスの部(ITFグループ2)で、第1シードの小田凱人(ITF男子車いすテニスランキング1位、以下同)が、第2シードの眞田卓(8位)を、6-3、6-3で破って初優勝を飾った。 昨年の決勝で、当時5位の小田は、当時2位の国枝慎吾に、3-6、6-2、6-7(3)、2時間27分に及んだフルセットで敗れて準優勝に終わっていたが、今年は雪辱を果たした。 小田は、17歳とは思えないような落ち着いた佇まいと口調で、初優勝の感想を述べた。 「昨年優勝できなかったので、今年優勝できてすごく嬉しい。本当に満足できる試合ができたと思います」 優勝を決めた瞬間、喜びを爆発させる(写真・編集部) この大会は、健常者のATP500ジャパンオープンとの共催大会で、2019年に第1回大会が初開催され、今回が第3回目となった(2020年と2021年は開催されず)。そして、トーナメントディレクターを、元プロ車いすテニス選手で、世界1位だった国枝慎吾氏が務めた。共催によって、車いすテニス選手の名前をより知ってもらったり、車いすテニスの認知度や人気が上がったりすることも期待される。 「車いすテニスをやっている選手としては、有難いことですし、普段はなかなかそういう機会がないので。それを日本で実現してもらえたのは、車いすテニスにとって良い影響があるし、車いすテニスを広めるということに関しても効果的というか、すごいいい場になると思う。それもあって、ここでプレーする意味が、他の大会と違ってあります。去年の決勝で印象に残るプレーもできましたし、今年は多くの人に見てもらって、実際に車いすテニスを体感してもらえたというのは、今後にすごくつながると思いますね」(小田) 世界ランキング8位の眞田と今後も切磋琢磨を続けていくだろう(写真・編集部)  ジャパンオープン優勝後、小田は、アジアパラ競技大会に出場して金メダルの獲得を目指す。さらに、車いすテニスのワールドツアーで年間成績上位8人しか出場できない、ツアー最終戦の車いすマスターズ(10/30~11/5)に出場予定だ。過密スケジュールではあるが、ベストを尽くして、世界最高峰の車いすテニスを披露していくことになるだろう。 ( 文・メイン写真/神 仁司 )
パラリンピックの前に読んでおきたいBOOKS案内①

パラリンピックの前に読んでおきたいBOOKS案内①

パラリンピックと日本 知られざる60年史 著/田中圭太郎  集英社 1600円+税 パラリンピック史を彩る 人間ドラマのすべて 障がい者、医師、官僚、教師、そ して皇室の人びと。パラリンピッ ク60年の歴史を紐解きながら、 それに関わった多くの人々の知 られざるドラマを描く、障がい者 スポーツ史の決定版。 14歳からの地図 日本のパラリンピックを創った男  中村裕 著/鈴木款  講談社 1300円+税 中村裕博士の生涯を 中高生向けに描いた1冊 昭和30年代。障がい者の社会復帰と自立のために立ち上がった医師、中村裕。1964年の「東京パラリンピック」を成功に導き、日本初の障がい者施設「太陽の家」を設立するまでを描いた感動作。 総力取材 東京2020 オリンピック・パラリンピック完全ガイド 編集/日本経済新聞社  日本経済新聞社 780円+税 オリ・パラ競技の見どころや 注目選手を紹介 オリ・パラの全競技を網羅。取 材経験が豊富な運動部記者が、各種目の見どころや注目選手をピックアップ。北島康介氏のスペシャルインタビューや歴代金メダリストなど読み物も満載。 パラリンピックの楽しみ方 ルールから知られざる歴史まで 著/藤田紀昭  小学館 1200円+税 パラリンピック観戦を 最高に楽しむための入門書 パラリンピックを知り尽くした障がい者スポーツ研究の第一人者が渾身の力をふりしぼって書き下ろし。各種競技のルールや見どころはもちろん、過去大会のさまざまなエピソードや東京大会の展望など盛りだくさん。 東京パラリンピック 六ヶ国語用語辞典 著/本多英男  三恵社 1700円+税 パラスポーツの鑑賞や研究に必携! 東京パラリンピックの主要競技で使われる用語を、それぞれ日本語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語での綴りと発音を収載。旅行者とのコミュニケーションにも役に立つ。 パラリンピックとある医師の挑戦 漫画/三枝義浩  講談社 980円+税 “パラリンピックの父”の偉業をマンガ化 「日本のパラリンピックの父」と呼ばれた、医師、中村裕。東京パラリンピックを成功に導く道のりを描いた、NHKドラマ「太陽を愛したひと」の原案コミック。
この夏はフロアホッケーで決まり!

この夏はフロアホッケーで決まり!

[video width="640" height="360" mp4="https://psm.j-n.co.jp/wp-content/uploads/2019/07/medium.mp4" autoplay="true"][/video] 「フロアホッケー」という競技、ご存知ですか?   フロアホッケーは、知的障がい者の人たちのスポーツを通しての社会参加を支援する活動、スペシャルオリンピックス(SO)の競技の一つとして、アイスホッケーとリンゲッティ(Ringette)という二つのスポーツから作られたカナダ生まれのスポーツです。 アイスリンクをもたない国や地域でもできるようにSOがルールを独自に考案し、1970年の冬季世界大会から公式競技に認定されました。 2005年に長野県で開催されたSO冬季世界大会では、49カ国の約800人を超えるアスリートが参加しました。競技人口は全世界で5万人近くになります。 もともとは障がい者スポーツとして発展したフロアホッケーですが、現在では健常者も楽しめるユニバーサル・スポーツとして日本国内で普及が進んでいます。 知的障がい者の人と健常者の人が混成チームを作ったり、年齢や性別、能力に応じてゲームができるようにしたディビジョン制などの工夫をして、多くの人が楽しんでいます。   1チームは11人~16人までで構成され、ゴールキーパーを含めた6名がコートでプレイ。直径20cmの穴の空いた「パック」を「スティック」で操り、相手側のゴールに入れると得点となります。 アイスホッケーで使用するスティックは、先端が丸みを帯びた板状になっています。しかし、フロアホッケーの場合はまさにスティック、棒そのものです。 1ゲーム3ピリオド(1ピリオド9分)で、相手より多く点を上げたチームが勝ちです。1ピリオドには3ライン(1ライン3分)あって、その時間毎に選手が交代します。   「フロアホッケーはSO発祥のユニバーサル・スポーツ。ルールも簡単で、年齢・性別・障がいの有無にかかわらず、個々のスキルにあわせて誰もが一緒に楽しむことのできる、とってもおもしろいスポーツです」 と話すのは、今回のイベント実行委員会「ゆうきのつばさ」のご担当者。   「当イベントはフロアホッケーを通して、関わる方々に『お互いを認め、皆が大切な存在と実感できる世の中こそが、だれにとっても幸せな社会である』ことを実感してほしいという願いを込めた企画です」 とのこと。 驚いたのは、他のメジャースポーツと変わらず観戦中に熱を帯びた歓声が上がること。健常者と障がい者が同じルールでスポーツするとなると、手加減もあるかと予想していたがそんなことはなく、かなり激しいプレーの連続でした。   終始白熱したゲームで会場はかなりの盛り上がりを見せました。 全国各地で大会や交流会が開催されているので、機会があればぜひ観戦してみてください! イベント名:ゆうきのつばさ inclusion sports festa 2019 開催日&場所:2019年7月14日(日) 葛飾区鎌倉小学校 開催内容:フロアホッケー体験会 エキシビジョンマッチ 交流会 主催:ゆうきのつばさ2019イベント実行委員会 共催:特定非営利活動法人日本フロアホッケー連盟 後援:公益財団法人スペシャルオリンピックス日本 特別協力:昭和女子大学 ㈱エフピコ 東京都フロアホッケー連盟 きさらぎJr 湘南シーガル スペシャルサポーター:ASE BOUND  https://asebound.com/  
一般社団法人ZEN主催 車いすソフトボール体験会取材!

一般社団法人ZEN主催 車いすソフトボール体験会取材!

2019年4月21日、雑誌パラスポーツマガジンの副編集長としても在籍いただいている野島弘さん(チェアスキー元日本代表選手)が代表を務める一般社団法人ZENが主催した車いすソフトボール体験会を取材してきました! ZENは、障がいを抱える子どもたちの自立支援を目的にさまざまな参加型パラスポーツイベント企画を開催しています。なかでも、車いすソフトボール体験会は不定期開催ながら大人気の企画のひとつです。 今回は、日頃よりパラスポーツ支援に力を入れる中外製薬株式会社の協力のもと、神奈川県鎌倉市にある中外製薬 鎌倉研究所の敷地にて開催されました。 参加者は障がいを持つ小学生から女性・年配者などさまざま。主催者の野島さんは車いすソフトボールを通じて、障がい者と健常者の交流の場を増やしていければとのことでした。
【パラスポーツ競技紹介】ボッチャ

【パラスポーツ競技紹介】ボッチャ

ボッチャはイタリア語で「ボール」を意味し、ヨーロッパで生まれた重度脳性マヒもしくは同程度の四肢重度機能障がい者のために考案されたスポーツで、パラリンピックの正式種目の一つである。 ジャックボール(目標球)と呼ばれる白いボールに、赤・青それぞれ6球ずつのボールを投げ、いかにジャックボールに近づけるかを競う。 カーリングのように相手のボールを弾いたりして自分が優位に立てるよう位置取りをしていくことが要求されるが、目標となる白い球も弾いて移動させることができるため、カーリングとは一味違う戦略・魅力がある。 ボールは上から投げても下から投げてもかまわない。手で投げられない選手は足を使って蹴ってもよい。比較的重度な障がいでボールを投げることが難しい選手のクラスもある。そんな選手にはアシスタントがつくことが可能となっていて、誰しもが楽しめるスポーツとして世界中で人気を博している。 10m×6m のコートで試合は行われる。先攻のチームが目標となるジャックボールをコートに投げたあと、自軍の色のボールを投球。その後に後攻のチームが異なる色のボールを投げる。これを6回繰り返し、目標球合わせた計13球のボールを投げ終えたらエンドが終了する。その際、目標球に最も近いボールを投げたチームにのみ点が入り、目標に最も近い相手ボールよりも更に近い範囲にある自身のボールの数だけ点が追加される。この一連の流れ(1エンド)を個人戦とペア戦は4回、チーム戦は6回行う。すべてのエンドが終了した時点で同点だった場合はタイブレークとしてエンドを繰り返し、勝敗が決まるまで続ける。 ボッチャはマイボール制となっていて、選手は障害やプレースタイルに合わせてボールを変えることができる。規定に違反していなければ硬さや材質の調整が可能で、実際に皮革製とフェルト製で使い分けをするチームも存在する。様々な戦術を駆使して競う頭脳戦がボッチャの見所である。
【パラスポーツ競技紹介】車椅子バスケットボール

【パラスポーツ競技紹介】車椅子バスケットボール

 車椅子バスケットボールは1940年代にアメリカの軍人病院において始まったとされている。同時期に脊髄損傷者のリハビリテーションを目的として車椅子ポロや車椅子バスケットボールが行われた背景もあり、この二つの流れが1950年代に一つになって各国に広がった。1960年にローマで開催された第1回パラリンピックから公式競技となった。  国内への普及は、1964年に開催されたパラリンピック東京大会が大きな契機となった。パラリンピック東京大会が開催された3年後に初めてクラブチームが誕生し、その後は障害者施設に次々とクラブが生まれた。互いに交流試合を行い、1970年に第1回車椅子バスケットボール競技大会が開催。この大会が現在の日本車椅子バスケットボール選手権大会として発展した。  また、1975年には日本車椅子バスケットボール連盟が設立され、国内での普及が本格してきた事によって国際大会への参加も検討されるようになり、1976年に初めて日本代表チームが派遣されることになった。  ルールは一般のバスケットボールに準じている(コートの広さやリングの高さ、ボール、時間なども同じ)が、車椅子の特性を考慮し、ボールを保持した状態で2プッシュまで車椅子をこぐ事が認められている。ダブルドリブルは適用されず、ドリブル動作が一度止まっても、またドリブルをする事ができる。  使用する車椅子は回転性能や敏捷性、高さなど、プレイヤーの特徴を活かす専用の車椅子が用いられる。ボールハンドリング技術はもとより、車椅子の操作性が重要となる。  さらに、車椅子バスケットボールの選手は、1人ひとりが障害の程度に応じて、1.0点から4.5点まで、持ち点でクラス分けされている。一番障害の重たい選手が1.0点で、4.5点が一番軽い選手。常にコートでプレイする5人の選手の持ち点の合計が、14.0点以下でなければならない。

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